翌朝の習慣と化した工藤家への出発を見送って、安室も家を出た。彼女がどういう道のりを使って工藤家まで行くのか知っていた為、彼女が歩く道をGPSで確認しつつ道を歩く。だが彼女に気付かれてはならないので、彼女の姿が豆粒のように小さく見える距離から眺めているだけだが。
暫く遠く離れた彼女の周囲を見ていた所、視界の端で他の人間とは違う動きをしている人物を見つけた。その人物に狙いを定める。気配を消して徐々に距離を詰めて、相手が地図を確認する振りをして立ち止まった所、その肩に手を置いた。
「ふ、降谷さん…!」
「後藤さん、何をしているんですか?」
小さな声で安室の本当の名字を呼んだのは、部下の一人である後藤だった。私服を来て純朴で真面目そうな男性の様子をしている彼を見やったが、ここでは話がしにくいのでここから離れていない自宅に彼を招くことにする。
 道中無言の2人であったが、安室が家に彼を上げてリビングに通した所、彼はちらちらとそこかしこにあるの痕跡に目を光らせていた。マグカップや彼女が時たま使うエプロン、そして乾かしてある箸や茶碗。
それを分かっていながらも、安室は特に何も言うことをせずに彼と自分の為にコーヒーを淹れた。
「ありがとうございます」
「いえ」
テーブルの上にコーヒーを置いて、彼に椅子に座ることを促す。後藤は一口コーヒーを飲んだ所で、常より鋭い瞳で安室のことを見やった。年齢では彼の方が年上だが、役職としては安室の方が彼の上司に当たる。その為、彼の視線は咎める程度の物で抑えられているのだろう。
「彼女、について調べました。彼女は何者ですか?」
やはり、その内容だったか。彼が安室を問い詰める理由は分かっていた。彼は部下の中でも有能な方だし、に対して疑惑を抱いていたから。そんな彼の疑惑を晴らしたとは思っていたが、やはり頭の片隅にでも残っていたのだろう。
彼曰く、何度か帝丹大学に彼女がやって来て同じ授業を受けるうちに彼らはお互いの身の上を話す程度の顔見知りにはなっていたらしい。そこで気付いた彼女への違和感。大学のことをほとんど知らないのはもとより、イギリスで暮らしていたというのにイギリスに関するあやふやな知識、そして調べていくうちに分かった、21歳という年齢でありながら学歴もなく、どこかの会社で働いているわけでもない奇妙さ。
「一から調べました。彼女、なんていう女性はイギリスの戸籍にありませんでした」
彼女が言った両親の名もそれに似た家も存在していないと。後藤は安室が公安の人間としてしてはいけないことをしているのではないかと疑っているのだろう。彼女はどこの国籍も有していない上に、出生記録も無い。黒の組織の人間としては非常に便利な存在。いくらでも偽ることが出来る。
だが、彼の杞憂は所詮ただの杞憂でしかない。安室は彼女の秘密を知っているから。
「組織の人間であるかもしれない彼女と一緒に暮らすなんて…分かっているんですか?」
「心配する必要はありません。彼女は組織とは一切関わりはありません」
己の信じる正義の為に瞳をぎらぎらと怒りで染め上げている彼に、安室は冷静に返した。しかし彼は「どうしてそう言い切れるんですか!」と声を荒げ立ち上がった。分かる、彼がここまで怒り安室を責めたてる訳は。今まで何年もかけて組織と対峙してきて、漸く安室がバーボンとしての地位も確固とした所で、もし彼女が組織からのスパイであった場合安室の命が危険に晒されるだけでなく、今までの計画が水の泡になるから。
「僕が知っているからです」
「それを私にも分かるように説明してくれないと信用できません!」
向い席にいた彼は安室の隣に来て、安室を見下ろした。それに対して安室も立ち上がって彼を見やる。彼が安室の説明に納得できないのは承知の上だ。だからと言って、彼女がこの世界に存在していない人物だと分かっている彼には真実を伝えることしか出来ない。だがそうしてしまえば彼女の秘密を他人に漏らすことになる。それ故、安室は彼に自分を信じろと言うことしか出来ないのだ。
「僕が今までに間違った選択をしたことがありましたか?後藤さんが思っているようなことは起きません」
彼女が脅威になる筈はないと彼に再度伝える。そうすれば、彼は確かにそうですが…と先程の勢いを殺して拳を握りしめる。頭では分かっていても、感情がそれを邪魔するのか。
「ですが、恋とは常に正しい判断が出来るわけではありませんので…」
「――恋?僕が?…そんな物と一緒にするな!」
後藤の言葉に一瞬理解が出来なかったが、彼が何を考えてこの行動を起こしているのかを漸く理解した。彼は安室が彼女に恋をしていて正常な判断が出来ていないと勘違いしたのだ。
この数年、任務を達成する為に何度か女と恋人関係になった安室だったが、恋人がいても常に正常な判断を下してきた。一度として、恋などという感情に振り回されてミスを犯したことはない。その上、はそういう存在ではなかった。そんな、簡単に壊れるような関係ではない。
彼の言葉にカッと頭に血が上った安室だったが、瞬時にそれを通常にまで下げて一息吐いた。目を見開き驚いている彼を見て、すみませんと謝る。
「とにかく、彼女が脅威にならないのは確かです。もう、彼女を怯えさせるのは止めてください」
「………はい、分かりました」
「全てを話すことは出来ませんが、彼女は紛れも無く白です」
安室は最後までのことについて話さなかったが、それでも後藤は安室の言葉を信じることにしたらしい。ここまで安室が言うのだ、きっと間違いではないのだろうと分かってくれたのだろう。
はい、と再度頷いた彼は「突然失礼しました」と頭を下げて、玄関へ向かう。安室は玄関まで彼を見送ってふうと小さく溜息を吐いた。
これでを不安にさせていたストーカーの影も無くなるだろう、と問題解決したことに安堵するも彼の言葉が心の中でもやもやとした物を生成する。
――恋か。僕がにそんなものを抱くわけがないのに。
ぐっと拳を握りしめて、安室はリビングに戻った。


 後藤は降谷のマンションを出てから、一度彼が暮らす部屋を見上げた。彼のことは年下だとしても上司として尊敬している。彼はスコッチとして潜入した男が死んだ後も公安の人間だとバレずに組織の中で動けている。そんな彼をサポートしようと、組織を壊滅させる為に貢献したいと思っている彼だからこそ、降谷の傍にいるあの女性の存在が許せなかった。彼女は調べてみれば明らかに不審人物だったから。だが、降谷にあそこまで言われてしまえば、彼女は白なのだろうと認めるしかない。
スマートフォンを取り出してある男に電話をかける。プルルルル、と無機質な音が数回続いた後に「もしもし?」と少し気だるげな声が聞こえた。
『後藤先輩じゃないですか。何かありましたか?』
「ああ、後でお前の所にファイルを送るからそれを確認してくれないか?」
どことなく軽薄な話し方をする男だが、彼の能力は高いと知っている。その為後藤は彼の腕を買って連絡をしたのだ。彼は彼で降谷とは面識があるから、彼のことに関係あることなら私用でも動いてくれるだろうと。
『了解ーす。今度何か奢ってくださいね〜』
「…お前、俺に集らなくても金あるでしょうが…」
『人に奢ってもらった方が気分良いんすよ』
「ったく…分かったよ」
彼に頼めば快く頷いてくれたが見返りを求めてきた。元々こういう男だとは知っていたが、知っていて彼に頼んだ為、渋々頷く。その代りきちんと仕事を熟してくれることを約束させて、電話を終わらせた。


 へっくち、と沖矢の前で盛大な嚔をしてしまったは「大丈夫ですか?」と彼にティッシュを渡された。すみません、と謝って彼に渡されたティッシュでちーんと鼻をかむ。
特に寒気もしないしただ単に鼻がむずむずしただけだ。今現在は沖矢と一緒に昼食を作っている所だったので、手を洗って再びフライパンと箸を持つ。因みに今日のメインは鳥モモのソテーだ。鶏肉がこんがり焼ける匂いとローズマリーの良い匂いがキッチンでふわりと漂う。
「そのくらいですね」
「はい」
十分火が通った所で火を止めてフライパンからお皿に移す。沖矢が作った人参のグラッセやサラダなども同じプレートの上に並べて完成だ。後は味噌汁を盛り付けるだけ。
彼が味噌汁を御椀に入れている間には料理が盛り付けられたプレートをテーブルの上に並べた。お昼から豪勢だ。そう思いながら箸を配る。彼もすぐに味噌汁をテーブルの上に置いて食事は始まった。
『昨夜未明、××町にてナイフで何か所も刺された女子大生の遺体が発見されました。女子大生は――』
「物騒な世の中ですね」
「そうですね。さんも女性なんですから気を付けないといけませんよ」
たまたまついていたテレビでは女子大生が殺されたというニュースをしていた。としてはそんなに深く考えずに発した言葉だったが、彼の言葉に「え、はい…」と少しばかり言葉に詰まる。まさか彼がに置き換えて考えているとは思わなかったから吃驚して。だが、確かに気を付けるべきなのだろう。能力者だからと言って絶対に死なないというわけでもないのだから。
彼は食事時にこんなのを見ていたら料理が不味くなりますから変えましょうか、と他の番組に変えた。それは朝やっている連続ドラマの再放送だ。
確かにこれなら殺人なんて単語は出てこないだろう。普段からコナンや安室と一緒にいるとそういった事件に巻き込まれるにとっては、こういう癒しになるような番組こそが必要だなと思った。蘭もコナンと一緒にいることで相当事件に巻き込まれているからこういうほんわかしたドラマを見た方が良いと思う。ただの女子高生である彼女の方が絶対にストレスが溜まっている筈だ。

 優作に送る予定の絵がまだ乾いていないが、は新しい絵を描き始めることにした。今回は空に浮かぶ空島をモチーフにしたものだ。海のように広がる雲海の上にある島はこの世界の者にとっては空想の産物に思えるだろう。今回は白を多く使うだろうなぁと少し無くなりかけている絵の具を見て考える。家に帰る途中で買うかそれとも次回工藤家に行く前に買うか悩みどころである。だが、工藤家に行く時に買った方が楽なのは確かなので、今日は買わないことにした。
使いたい絵の具が切れた所では今日の制作を終えることにした。
「沖矢さん、帰りますね」
「ええ、もうそろそろ夕方ですしお気をつけて」
いつものように玄関まで見送ってくれた彼にお辞儀しては工藤家を出た。扉を閉めて見上げた空は、青空から少しずつ薄紫になってきていて、暗くなる前に帰ろうとは足を動かし始めた。


52:愛がなにかもしらないくせに笑わせる
2015/08/18
タイトル:モス

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