翌日、はまた工藤家に向かっていた。今日は現在制作中の絵画を書き終わって優作に報告をしたいのだ。としてはそれなりに気に入っている作品なのだが、優作は気に入ってくれるだろうかと彼の反応を考えてみる。彼はの描く海に心を奪われたと言うから、きっと今回も気に入ってくれるに違いない、と明るい気持ちで工藤家への道のりを歩いた。
しかし、今日も感じる視線。振り返ったり気付いている様子を出しはしないが、背後へと注意を向ける。今まではたまたまだと思っていたが、流石にこうも視線を感じると勘違いではないのかもしれない。
着かず離れずの間を取ってついてくるその人物。足音は押さえているようだが、そんなに重くない。体重が軽い男性か女性だろうか。そう思いながら歩いていると不意にパンプスのリボンが解けていたのを発見したのでしゃがみ込む。リボンを結び直しながら後ろをちらりと確認すれば、そこには誰もいない。
もしかしたらが気付いていることに相手も気付いて姿を確認される前に身を隠したのかもしれない。自分の世界とは違って久々に感じる緊張に、リボンを結び終えたは立ち上がった。
相手がどういう目的でをつけているのか分からないが、用心するに越したことはないだろう。何しろ、が相手に気付いたことを隠していたにも関わらず、敏感に察知して姿を消したのだから。
再びが歩き出した背後の路地裏で、一人の人間が薄く笑っていたのを彼女は気付かなかった。


 いつも通り昼頃まで油絵を描き続け、お昼は沖矢に料理を教わり、また午後から油絵を描いていた所、人魚の楽園は完成した。青く透き通った海の中に、人魚たちが暮らす魚人島があり、その周りを人魚たちが泳いでいる様子。
の憧れを募らせた絵でもあるそれは、人魚たちが絵の中からこちらにいらっしゃいと呼びかけてくるような錯覚さえ起こす。それは偏に人魚たちの表情豊かな瞳のおかげだろうが。
「えーと、工藤さんに送らないと」
スマートフォンのカメラを起動させてパシャリと写真を撮る。うん、光にも反射していないしきっと彼にもこの絵の全貌は伝わるだろう。ゆっくりした動作でメールにその写真を添付したは『新しい絵ができたので、確認よろしくお願いします』と英語で彼に送った。彼は日本語が難しいなら英語でも良いよと言ってくれたのだ。ありがたい。そのおかげで日本語で文字を打つよりも数秒速くメールを作成できた。
「完成したんですか?」
「はい」
こんこん、と部屋をノックして入ってきたのは沖矢だ。乾燥する段階に入っているその絵を見てほおと声を上げた彼は「確かに優作さんが言う通り、引き込まれる感じがしますね」と感想を述べた。は緻密なパースなどは得意としていないので奥行きがある絵を描く時は少し苦労するのだが、彼にそう言ってもらえて安心した。ありがとうございます、と彼に言えば本心を述べたまでですよと微笑まれる。
「じゃあ、あとは乾燥するだけなんで今日は帰りますね」
「ええ、お気をつけて。良ければ送って行きましょうか?」
彼に会釈して帰ることを伝える。彼の提案は嬉しかったが、安室のマンションを知られるのはやはり拙いだろうなぁと思ったので、そこは遠慮しておいた。歩いていてもそんなに時間がかかる距離でもないし、窓の外もまだ明るいから。
そうですか、では。と玄関まで見送りに来てくれた彼に「お邪魔しました」と言っては工藤家を出た。
今から帰ります、と安室にメールを送って工藤家の門を開けた。うーん、今日も頑張ったなぁ。てくてくといつも通りのスピードで住宅街を歩き続ける。
そこにメールが返って来た音がした。確認してみると優作からだ。あれ、今彼が住んでいる所は夜の筈ではなかっただろうか。不思議に思いながらも一度立ち止まってメールを確認してみる。
『とても綺麗な絵で癒されたよ。丁度今は原稿に追われている最中でね。絵の具が乾いたらぜひ送ってほしい』
「ふふっ」
彼の文面に思わず笑ってしまった。と会った時はあんなに紳士的で余裕たっぷりだったのに、今はアメリカで原稿の締め切りに追われて疲弊しているなんて。彼は凄い人だけどやっぱり他の人と同じように焦ったり疲れたりすることもあるんだなぁ。
早く絵の具を乾かして彼に送らなければ、と思ってはスマートフォンをポケットにしまった。しかし、そこで気が付いた。今までメールに意識を向けていたから察知できなかったが、背後からまた視線を感じる。
今朝と同じ人物だろうか。そう思いながら歩き出すと、背後の人物もついてくる。
工藤家に出たり入ったりしてるからと言っても、金目のものなんて持っていないんだけどなぁ。そこまで考えて以前安室にストーカー被害に遭って依頼してきた智代や澁谷を思い出した。
――え、まさか私にストーカー?
信じられないが、は本当に金目の物など持っていない。安室から貰ったペンダントは確かに高いだろうが、それだけの為に数日付け回す動機にはならない気がする。
え、本当にストーカー?金目の物であれば、ただ単に外的な攻撃を食らうだけだろうと楽観視していたが、ストーカーとなると話が違う。
――もし、襲われたりしたらどうしよう。
以前智代のストーカーと対峙して捕まった時に、男の力には敵わないことを身を持って知った。能力者であることを知られても拙いから、分身を出すのにも限りなく注意しなくてはいけないだろうし、そうなると不安要素が増える一方で。
こちらが気付いていることを相手に気付かれないようにしないと正体が掴めない。だが、それを確認することも怖くて後ろからついてくる人物から離れようと少し歩くスピードを速くした。正体を確かめるのも大事だろうが、後ろから得体のしれない人間がずっとを見ているのかと思うと怖くなって。
歩くスピードに合わせて心拍数も上がっていく。なんで、私なんだろう。今までにだって特に男に付きまとわれるなんてことは無かったのに。海でナンパされたのだってたまたまが目に入って一緒に遊べる女が欲しかっただけだろうし、酒場で誘われたのはが白ひげの一人娘というもの珍しさがあったからだろう。
そもそも安室や刑事、沖矢たち以外の男性と全く関わっていないというのに、いつこの人物はのことを目に止めたのだろうか。
すたすたと早歩きしても、相手は離れない。きっとより足が長いから追うことがそれ程苦ではないのだろう。そうなるとやはり男か。
――無理無理無理。
震える手でスマートフォンをポケットから取り出して安室に電話をかけた。そうだ、最初からこうすれば良かったのに。自分で考えている以上にパニックになっていたのかもしれない。
「あ、あむろさん…」
、どうした?』
もしもしと電話に出た彼にこの状況を伝えようと思ったのだけど、唇が震えてしまって上手く話せない。だが、それだけで安室はの身に何かが起きているのを察知したらしい。鋭くなった声に工藤家を出た後から誰かに後をつけられていることを何とか彼に伝えた。
カタカタと震える手を押さえつけるようにぎゅっとスマートフォンを握りしめる。
『迎えに行くから、一度コンビニとか店に入って』
「はい」
冷静に指示を出す彼に頷く。コンビニか店は、そう思って後ろにいる誰かに怪しまれないように周囲を見渡す。そう離れていない所にコンビニがあったので、はそこに行くことにした。駐車場もあるし丁度良いだろう。それを伝えたら彼はああと頷く。
『大丈夫だからそこで待ってて。電話は繋げたままにしておくから』
「ありがとうございます」
ガチャガチャと家の鍵を閉めて駐車場へと向かう彼の足音が聞こえる。安室が来てくれると分かっただけで少しばかり安心して、はコンビニに入った。家からこのコンビニまでそう離れていないから、彼は5分もしないうちに来てくれるだろう。エンジンをかける音がスマートフォンから聞こえる。
耳元でそれをぎゅっと握りしめたまま、は窓からちらりと外を確認してみた。怪しい姿はないが、やはり離れた所から依然として視線を感じる。外から見える場所にいるのはやめようと思って、雑誌コーナーからサンドウィッチなどが陳列されている方向に足を向けた。
『着いたよ。どこにいる?』
「お弁当がある所にいます」
ガチャと扉を開ける音がして、数分ぶりに彼の声を聞いた。じっとお弁当コーナーの前で待っていたら、いつもよりやや大股でこちらにやって来る彼の姿を見つけた。それと同時に安室もの姿を見つけて強張った表情をほっとさせて。それに一気に安堵した。
、大丈夫?」
「は、はい…」
その場から動くことが出来なかったに何も怪我が無いことを確認した彼は、車まで辛抱だよと言って震えて強張っているの手を彼の腕に掴ませる。彼が迎えに来てくれたことで安心して涙が薄く膜を張っていたは大人しくそれに従った。ぎゅっと彼の腕にしがみ付いている様子は、傍から見ればただのカップルだろうがの表情が硬い為、店員は不思議に思ったことだろう。
安室に連れられてコンビニを出る際にちらりと周囲に目を向けてみたが、先程とは違って何も感じない。同じように鋭い眼差しで周囲を警戒していた安室は、先にを助手席に乗せてから運転席に座った。


 の震える声に驚いて急いで車を走らせたが、顔色を悪くしながらもコンビニの中で佇む彼女を発見して安堵した。
「無事で良かった…」
車の中に彼女を乗せることも出来てほっと一息吐く。未だに彼女は身体が強張っているけれど、車の中で話すよりも家に帰って話す方が彼女も安心するだろうと思って車を発進させた。普段明るくて車の中でも言葉を交わす彼女がじっと何かに耐えるように口を閉ざしているのは相当怖い思いをしたからだろう。
――だが。
車を駐車場に止める際に見たある人影。それは安室が知っている人物の背格好と髪型にそっくりだった。もしかしたら。そう思ったが、コンビニから出てきた時にはその人影は消えていた。一先ず今はその相手のことを考えるよりも彼女を落ち着かせたい。相手の目的が何であれ、それを考えるのは彼女を優先してからでも遅くないだろう。
数分車を走らせて着いた家。助手席から自分で降りることが出来た彼女は先程に比べたら身体の強張りが解けているようだ。
、もう大丈夫だよ」
瞳を揺らす彼女は安室の言葉にこくんと頷いた。声を出すことも億劫なのか。彼女が感じた恐怖は安室には計り知れないが、安心させるようにその手を握って歩いた。エレベーターに乗って家に着き鍵を取り出して扉を開ける。先に彼女を家に入れて、ちらりと周囲を見たがそれと言って不審な人物はいなかった。
手を洗っておいでと彼女に伝えて自分はキッチンに向かう。手を洗って二人分のココアを作っている間にチョコレートを棚から取り出す。
――も甘い物を食べれば落ち着くだろう。
サイドテーブルの上にそれをいくつか置いて、コップに鍋で作ったココアを注ぐ。丁度彼女もリビングにやって来たので、彼女の手にマグカップを握らせた。そしてそのままソファに誘導して彼女を座らせる。
「付け回されていたのは今日が初めてだった?」
「いえ、昨日からたまに視線を感じていたんですけど気のせいかと思っていました」
温かいそれを一口飲んでほうと息を吐いた彼女はそこで漸く身体の強張りが解けたようだった。チョコレートも食べな、と指させば彼女は頷いて包み紙を破ってそれを口に入れる。
成る程、昨日からか。気配に鋭いだからこそ自分を見ている誰かの視線に気が付いたのだろう。彼女は自意識過剰ではないからその証言もきっと正しい。となるとやはり。
「心配しなくても大丈夫。もうその犯人は現れないよ」
「えっ、どうしてですか?」
「犯人を見たけど、どうやら犯人はただの愉快犯だったようだから」
ゆっくりとココアを飲んでいた彼女が少し不安な様子を残しながら安室に訊ねる。それに安室は微笑み返した。
誰でも良いから怖がらせたかっただけなのだ、と。安室が犯人を鋭い目付きで見やればそそくさと去っていったからもう現れることはないのだ。それに、何だ…と溜息を吐く彼女。どうやらそれを聞いて心底安心したらしい。
「やっぱり私にストーカーなんて来るわけないですよね」
「そもそもをストーカーしても何の実りもないけどね」
「どういうことですか、それ」
先程の様子とは変わって顔に血色が戻った彼女を見て、やはりこれで良かったのだと思った。少しばかり彼女をからかってやればいつものように彼女はむっとする。彼女が無理をしている様子もないし、いつもの様子に戻ったのだろう。
安室はそんな彼女を見て笑いながらも、頭の中ではその犯人のことを考えていた。


51:手をつなごう、夕暮れの間だけ
2015/08/18
タイトル:モス

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