太閤名人と呼ばれていた羽田が見事に七冠を達成したというニュースをテレビで確認したは凄いなぁと驚いていた。あれだけ追い詰められた状況だったのに、名人を倒してしまうなんて。流石、コナンと同じように推理力に長けているだけはある。
由美を救出した翌日のニュースでそれを確認したは工藤家に行く準備をしていた。準備と言っても、工藤家に必要な物は揃っているので、いつも使っているポーチや財布などを鞄の中に入れていくだけなのだが。
「今日は何時になりそう?」
「夕方までには帰って来ますね」
コーヒーを飲んでいた安室に帰宅時間を訊かれて、は少し考える素振りをしてから答えた。今日か明日くらいで今まで描いてきた人魚の楽園の絵が出来上がりそうだから、なるべく進めたかった。彼はそれに頷いて微笑んだ。
「行ってきます」と安室に声をかけて家を出る。首元では勿論彼が贈ってくれたペンダントがきらりと日の光に反射して輝いていた。るんるん、と気分良く工藤家までの道を歩むは通り過ぎるパン屋やケーキ屋に目を奪われながらも、今日は何も買わないぞとそこから目を離す。
――食べたいけど、この前も買ったばっかりだし。
どうにものお小遣いは食費に費やしてしまうことが多く、最近では少し食費を切り詰めるようにしているのだ。いざという時に使えるお金がなかったら大変だから。
良い匂いで誘惑してくる店から視線を逸らして、店にふらふらと引き寄せられていた足を軌道修正する。我慢が肝心だ。
暫くそんな風に歩いていると、ふと背後から視線を感じた。人通りが多いから必ずしもを固定して見ているわけではないのだろうが、何となく背中が気持ち悪いというかむず痒い。
――何なんだろう。
しかしその視線もそう時間が経たないうちに無くなってしまったので、はやはりたまたま誰かがのことを見ていただけだったのだと安心してその視線のことをすぐに忘れてしまった。

 合鍵で工藤家の鍵を開けて中に入る。こんにちはー、と声をかければ書斎にいた沖矢がいらっしゃいと顔を覗かせた。相変わらず彼はいつでもハイネックの服装をしている。首回りが鬱陶しくないのかなぁなんて思うけれど他人の服装にケチを付ける気などないは彼が紅茶でも飲みますか?と勧めてくれるのに頷いた。
「少しさんの絵を拝見したのですが、あと少しで完成しそうな感じでしたね」
「はい。あと2、3日で出来そうなんで今日は一杯描こうと思います」
キッチンで紅茶を淹れる為にお湯を沸かし始めた彼の隣で、ティーカップとポットを棚から取り出す。にとって沖矢は何度も印象が変わる不思議な人物だったが、こうやって話しているとやはり彼と最初に会った時の穏やかな様子が思い出される。きっとこの状態が普段の彼の姿なのだろう。
お湯を注いだポットの中で茶葉が蒸されている間に、は沖矢が切ったパウンドケーキをお皿に載せてテーブルの上に運んだ。
「そういえば彼とはどうなんですか?」
「彼?」
ティータイムを始めた最中、不意に沖矢から尋ねられた内容には首を傾げた。あなたと一緒に暮らしている安室透という男ですよ、と彼が説明してくれたことでああと納得したがそれと同時にどういうことだろうと彼を見やる。もしかして、安室のことを探っているのだろうか。
しかし彼はの目で怪訝に思っていることを見抜いたらしい。そんなんじゃないですよ、と緩く笑った彼にはじゃあ何なんですかと訊ねた。
さんは彼のことが好きなようだったので、進展しているのかと気になりまして」
「…沖矢さんには関係ないじゃないですか」
ふふと笑った彼はどことなく意地悪な時の安室と一緒では膨れ面を晒した。野暮なことを聞いているのは分かっていますよ、と彼は紅茶を一口飲む。それなら聞かないでくれれば良いのに、沖矢さんはやっぱり少し意地悪な人なんだ。そう思っては一口サイズに切ったケーキをぱくりと食べた。
――で、実際の所どうなんですか?
そう続ける彼にぐいぐい来るなぁとはジト目で彼を見た。まるでの油絵を売ってくれと言っていた時の優作のようだ。どうして彼がここまでの恋路に興味を示すのか分からないが、言わないと解放されそうにないので仕方なしに口を開く。
「私の片思いですよ…」
「なるほど」
の言葉に頷いた彼は、にっこり笑っている。人が片思いしているっていうのに笑うなんて酷い人だ。そう思ったが、それなら僕にもまだチャンスはあるわけですねと呟いた彼に思考が止まった。
――チャンスって?
ハテナマークを頭に浮かべているに彼はどうしたんですか?と訊ねる。いや、どうしたんですか?なんて言葉は私が訊きたいんだけど。
「あの、チャンスって何ですか?」
「僕、さんのことが好きなので、片思いならまだ間に合うかと」
「は!?」
恐る恐る訊いてみれば、思いも寄らぬ言葉を彼から貰った。沖矢がを好き?いやいやありえない。だって彼は最初こそ肉じゃがを与えてくれたけれど正体を暴いた時は容赦なかったのに。今までの数少ない接触の間にどうやって好きになったと言うのだろうか。
「というのは冗談でして、興味があるのは本当です」
「は、はぁ……そういう嘘やめてくださいよ。心臓に悪いです」
ぎょっとしたの顔を見て笑った彼は先程の言葉を否定した。何だ、嘘か。どうやらをからかって楽しんでいただけらしい。やっぱりこういう所安室さんと似てる。なんて彼の笑顔にむっとするが、彼は全く悪びれた様子がない。
きっと興味があるのはの身体が普通の人間と違って攻撃が食らわないからだろうなぁ、と考えながら「研究施設に差し出すのは止めてくださいね」と彼に釘を刺せば、そんなことしませんよとまた笑われた。まあ、それなら良いんだけどさ。


 油絵の進捗をかなり進めて明日には終わるだろうという目安が付いた所で、は工藤家を出て帰宅する。もうそろそろ夕方に近付いてきている為、空が茜色になっている様子を眺めながら、今頃家族たちもこの空を見ているのだろうかと船の仲間たちに想いを寄せる。
てくてくと歩き続けていた所、不意に視線を感じた。あれ、まただ。住宅街という大通りよりは人通りが少ない場所を歩いている為少しばかり気になる。しかし、視線からは悪意も何も感じないしもしかしたらただ後ろを歩いている人物がぼうっと眺めているだけかもしれない。
しかし、それにしてはどことなく気配が薄いというか。うーん。どうしようかなぁ。そう思ったは一度住宅街から出て大通りに足を向けた。そうすればその視線はすうっと薄くなって、はやっぱりぼんやり歩いていた人の視線だったのだろうと思って再び家路に着く。
しかし途中でドーナッツ屋さんを見つけてしまった。
「………安室さんへのお土産に…」
看板に載っているメニューを見てぴたりと足は止まってしまった。うう、丁度お腹が空きかけている時に通りかかったのが拙かったんだ。ふわふわと漂う甘い香りに、は蝶が花の匂いに誘われるように店の前に来てしまっている。
うーん、うーんと買うか買わないかで揺れているだったが、安室へのお土産という理由にしてしまえば良いじゃないかと頭の中で悪魔が囁くので、それに乗っかってドーナッツをいくつか買うことにした。
 結果、4つのドーナッツを買ったはどうしても我慢が出来ずに帰る途中に一つぺろりと食べてしまったが、胃袋はまだまだ空いている。
「ただいまー」
「おかえり。あれ?何か買ってきたのか」
ふわりとした甘い香りに気付いたのだろう、リビングで椅子に座っていた安室がを振り返る。そして笑顔のが差し出した箱にああと納得したようだ。ドーナッツか。そう呟いた彼は久しぶりだなとの手から箱を受け取る。
「お土産です。何でも好きなのどうぞ」
「ありがとう。僕、オールドファッションが好きなんだ」
「私はこの丸いやつが良いです」
箱を開けて中を見た安室はどうやら好きなドーナッツを発見したらしく指差した。へえ、安室さんはこれが好きなんだ。は苺のソースがかかっている丸が連なっているドーナッツが美味しそうだと思っていた為、安心した。このドーナッツは安室さんにあげようっと。
手を洗って、夕食前だから一つだけだよと言った彼に頷いてはそのドーナッツをちぎって一口食べた。本当は既に一つ食べているけれど内緒だ。のお腹はその程度で満腹になるわけではないし大丈夫。
、僕は一つだけって言っただろ?」
「え?一つしか食べてませんよ?」
しかし、ポンデリングをまたちぎろうとしているに安室の目がきらりと光る。が手に持っているのは一つなのにどうして彼はそんなことを言うのだろうか。だが、ふっと笑った彼には嫌な予感がする。もしかして。
「じゃあ、どうして帰ってきた時に口元にチョコレートが付いていたのかな?」
それに、箱には一度開けた形跡があったし、箱の中にはドーナッツが無い所にも同じように油の染みができていた。そう続ける彼にうっと言葉に詰まる。まさか、口の端にチョコレートが付いていたなんて気付かなかったはぺろりと唇を舐めてみれば、確かにチョコレートの味がした。
これは言い逃れ出来そうにない。瞬時に察したは白旗を振った。
「帰ってくる途中に一つ食べました…」
「やっぱり。残りはデザートにしておきなよ」
折角苺のドーナッツが食べられるとわくわくしていただったが、彼がそう言ったことで一時諦めることにする。もぐもぐとオールドファッションを食べている彼を良いなぁと思ってじっと見ていたら、指についたドーナッツのかすをぺろりと舐める様子が目に毒で慌てて目を逸らした。


 暗い部屋の中でぼんやりと光を放つスマートフォンの画面。そこには、街中を歩く一人の女性の姿がある。黒髪に白い肌、そして飴色の瞳。
男の追跡に気が付いていない彼女の様子は、どこからどう見ても普通の女性だ。だが、男には許せなかった。どうして彼女はあの男と一緒にいるのか。普段彼女の隣にいるある男を思い浮かべて、彼は眉を寄せた。
ぐっと握りしめるスマートフォンの画面を操作して、何枚も盗撮した彼女を眺める。
「一緒に暮らしてるなんて、許さない……」
男の呟きは暗闇の中に消えていった。


50:どれだけの言葉で伝えてくれようか
2015/08/18
タイトル:モス

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