そんな様に儚い記憶を頼りに、は掃除や洗濯をしていった。洗濯機は使い方が分からなかった為、全部石鹸を使って手洗いをしたのだが、後はもう干すだけだから大丈夫だろう。しかし、リビングの有様は掃除を始めた当初より雑然としたものになってしまっていた。
「………」
ソファやテーブルの下の埃まで綺麗にしようと動かした所、元の配置から離れてしまっているし、誤って掃除機をカーテンに近付けてしまったことで、レースカーテンが皺くちゃになって広がっている。
やばい、直さないと。そうは思ったが、時刻はもう18時を回ろうとしている。あともう少しで安室が帰ってきてしまうのだ。それまでに夕食を作っておかないと拙い。
焦るだったが、ふと魔法の機械を思い出した。電子レンジだ。彼はこの機械で何でも温めることが出来ると言っていたではないか。それを駆使すれば間に合う筈だ。
冷蔵庫の中を見てみれば、野菜もお肉も程々に揃っている。料理、は船に乗っている間はコックたちがいたからしたことがないが、彼らから話を聞いていたこともあるしどうにかなるだろう。
中でもゆで卵は簡単だ。火を通せば良いのだから。卵を2つ取り出して皿の上に載せて電子レンジの中に入れる。確かこのボタン押す筈だった。漢字はまだ読めないが、いつも安室がそれを押しているのを見ていた為、同じ場所をぽちっと押せばレンジの中明るくなりくるくると皿が回り出す。良し、大丈夫そうだ。
ではその間にゆで卵を載せるサラダを作ろう。キャベツやトマト、ベビーリーフを取り出す。包丁と俎板の上にそれらを乗せて、いざ切ろうとした時、パァン!と大きな破裂音が響いた。
「な、何!?」
急いで電子レンジを開ければ、中は大惨事になっていた。卵が破裂してその破片が電子レンジの中を汚している。
――は、早く片付けないと。
何故卵が破裂したのか分からないが、この状況で安室が帰ってきたら大変だ。しかし、ピンポーンとチャイムが鳴る。どうやら放課後の遊びから分身が帰って来たらしい。急いで鍵を開けに玄関まで走る。
「ただいま」
「おかえり!」
リュックをリビングに置こうとした分身はその有様に目を見開いた。学校へ行く時と違うとでも思っているのだろう。しかし今はそれどころではない。破裂した卵を取り除こうと台布巾で拭くがこびり付いたのか、中々綺麗にならない。
――情けない。掃除も料理もまともに出来ないなんて。
今朝感じていた薄暗い感情がどんどん大きくなる。そこに、「ただいま」と玄関から安室の声が聞こえた。まずは洗面所に向かって手を洗っているのだろう、こちらに来ることはないが、こちらに来た時にどう言い訳をすれば良いのか。あわあわと焦っていると、同じように分身も慌てて動かしっぱなしだったソファを元の場所に戻そうとしていた。
「……はぁ。さん、色々聞きたいことがあるんですけど、洗面所の濡れた服は何ですか?」
「洗濯をしようと思って…」
ガチャリ、とリビングの扉を開けて入ってきた安室は雑然としたリビングに言葉を失っている。その上、台所でも何かをやらかした様子のを見て溜息を吐いた。
――呆れられた。
どうやら洗濯の仕方も自分の世界とは違うらしく、石鹸が駄目だったり、強く絞ってはいけない素材で作られている洋服もあったらしい。掃除機をかける時はカーテンを吸い込まないように気を付けることも必要だと言われ、卵は電子レンジで温めてはいけないのだと教えられる。
「すみませんでした」
「別に良いですよ」
仕事で疲れて帰ってきた筈だろうに、苦笑して台所に立ってサラダを作り始めた彼を見ているとキリキリと胃が痛くなる思いだった。リビングに戻って家具の位置を元に戻していると、分身も同じようにしょぼくれている。
惨めさと自己嫌悪で身体の中から破裂しそうだった。
――もうやだ。
テーブルの上に置いておいたスマートフォンを掴んでそっとリビングを後にする。安室が夕食を作っているけれど、暫く彼の顔は見たくない。分身に伝言を任せようと思い、なるべく音を立てないように玄関から出た。


どこでも良いから、人が少ない所に行きたい。十数分程とぼとぼと歩いて公園に足を向ける。もう既に日が落ちているから人はいなかった。丁度良いと思って、ベンチに座って膝を抱える。
『あれ?さんは?』
『…散歩。私…本体は空回りしてる自分が嫌になっちゃったの』
目を閉じれば、分身の目を通して安室が部屋をきょろきょろしているのが見える。分身の言っていることは合っている。はこの世界に馴染むことが出来ない自分に嫌気が差しているのだ。
『それに、家族と離れて寂しいんだよ。安室さんが名前で――』
ハッとした。余計なことを言いそうになっている分身を消す。それと同時に安室は見えなくなったけれど、それで良い。意識や感情を共有できるのは便利だが、いらないことを言うのはいただけない。
分身が本体は暫く散歩に出ていると伝えたのだからもう良いだろう。一人でご飯を食べてくれ。別に私がいなくても、寧ろいない方が何の支障も出ないのだから。

――思い出すのは、船の上でいつも一緒にいた家族たちのこと。勿論血の繋がりはないけれど、小さな頃から面倒を見てくれていた彼らは、にとっては第二の家族だった。戦えない代わりに、家族の役に立つために掃除だって洗濯だって、雑用なら今まで完璧にこなしてきた。それなのに、この世界では全然駄目。
子どもでも出来るようなことが、大人の自分に出来ないなんて。ぐりぐりと額を膝に擦りつける。
情けないし、悲しかった。この世界に来たせいで、自分の価値が下がったような気がした。文字も文化も使っている物も違う。それらを覚えるのにはとても時間を要した。
その上、がこの世界で生きていることを知っているのは安室だけなのに、彼はちっとも名前で呼んではくれない。家族たちは一度としてのことをファミリーネームで呼んだことなど無かった。妹や娘のようにその名を呼んでくれたのに。
ずず、と垂れてきた鼻水を啜る。冷たくなった頬に涙が伝った。家族に会いたい。
何度か安室に気付かれないように、服を着たまま風呂に入って栓を抜いたことがある。だけど、一度もそれは成功しなかった。もしかしたら帰れるかもしれないという思いは、それを繰り返す度にどんどん萎んで行った。
大体、安室という人間が分からない。彼と一緒にいると家族と一緒にいる時のように自分を曝け出せないのだ。出会って間もないから仕方がないとは思う。だけど、この世界で自分を知っているのが彼だけなのに、その彼にさえ自分を出せないのが酷くストレスになっていた。
お家に帰りたい。帰りたい。嗚咽が零れる。
「帰り、たい」
「帰りましょう」
じゃり、と砂利を踏み近づいてくる気配に次いで、聞こえた声。それはここ数日一緒に暮らしていた安室のものだ。何で、ここが分かったんだろう。ぎゅっと膝に回した手の力を強くして、膝に額を付けたまま薄く目を開く。
ベンチに横向きで座っていたの背中側に、彼が座るのが分かった。
「…怒ってないんですか」
「どうしてですか?」
「だって、何も出来ないし、寧ろ汚して…」
静かな公園にぽつりぽつり、と2人の会話が響く。ずず、と鼻を啜ったは先程までに自分がやらかしたことを思い返す。どれも、彼の迷惑にしかならなかったではないか。しかし、彼はそれに小さく笑った。
「知らないんだから仕方ないですよ」
僕も教えませんでしたし。そう言う彼の声からは怒気は感じられない。本当にそう思っているのだろうか。面倒な人間を拾ったと思っていないのだろうか。何しろ私はこの世界にとってはイレギュラーな存在。戸籍とやらもないし、生きていることを証明できない。
「知らないなら、知っていけば良いんだよ」
突如、頭の上に乗せられた温もり。それはきっと、安室の手だ。白ひげのように全てを包み込んでくれそうな大きな手ではない。エースのように熱くてをいつもわくわくさせる程の熱もない。けれど、春の夜空の下で冷えたを優しく包み込む温もりだった。
ぼろぼろと涙が溢れだす。ぽんぽん、と優しく撫でるその手付きに、幼い頃に家出をして心配して探し出してくれた両親に抱きしめられた記憶が甦った。
「僕らはお互いに知らないことだらけだけど、これから知ることは出来るよ」
家族に会えない寂しさも、この世界への戸惑いも全部吐き出せば良い。優しく続ける彼に、増々涙が止まらなくなった。どうせ赤の他人だと思っていた。元の世界に戻れるようになるまでの間の関係だと思っていた。彼はのことを疑っていたし、必要最低限の関わりしか持っていなかった。だけど彼の言葉で、自分も彼と積極的に接していなかったことに気付いた。
すっくとベンチから立ち上がる安室。
「帰ろう、
安室の声にゆっくりと顔を上げる。涙で歪んだ視界でも、彼が自分に手を差し伸べ笑っているのが分かった。その手を握り締めて立ち上がる。
――帰ろう、
名前を呼んでくれた彼。あの家は私が帰って良い場所だと教えてくれた彼。先程まで感じていた自己嫌悪や惨めな気持ちはいつの間にかなくなっていた。ただ、今は純粋な寂しいという気持ちだけで。
安室に手を引かれながら歩く。その最中に、何度もオヤジやマルコ隊長、サッチ隊長、エースたちの名を呼んだ。
「ま、マルコ隊長、お酒勝手に飲んでご、ごめんなさ…っ」
この世界に来ることになった原因も、元はと言えばがマルコの酒を盗んだ為。懺悔をするように泣けば、安室はそれで風呂に沈められたのか、と小さく笑った。
「夕食は何が良い?」
「さ、サッチたいちょ、の特大パフェ…」
「今からパフェは難しいよ。明日一緒に作ろう」
「はい」
涙で顔がぐちゃぐちゃになったとそんな彼女の手を優しく引く安室を輝く月が見下ろしていた。


05:あなたの温もりを求めるの
2015/06/17
安室さんはGPS機能を使用して発見。

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