あれから一週間経った。安室はもうあの夜のように何かを思いつめたような雰囲気はない。普段通りの日常だった。しかし、マンションには新しい物が増えていた。が自分で買ったキャンバスに油絵の具、そしてイーゼルなど油絵を描く上で必要な物である。
油絵は匂いがきついから換気しながらやることを条件に絵を描くことが許されている。ここ一週間は、の世界の海を描いていた。こうやって自分の世界の絵を描くことで自分の世界と繋がっているような気持ちになるのだから不思議だ。記憶している世界中の海のうちの一つを思い出しながら、キャンバスに色を乗せていく。この海は宝石のようなエメラルドグリーンの水だったのだ。透明度の高いその海には勿論色鮮やかな魚たちが楽園を作っていた。それを表現する為に海の中を照らす光の線を足していく。これで完成だ。
――やったー!
嬉しくなってスマートフォンのカメラ機能で写真を撮る。この世界に来て初めての油絵だ。久しぶりに描いたけれど中々良いのではないだろうか。
そこに響く電話の音。それはのスマートフォンからだ。何しろ今日は安室は依頼があって出かけているから。誰だろうと思ってディスプレイを見てみたら、そこにはコナンくんという文字が。そういえば、学校で分身とは話したりするが本体として話すのは久しぶりだなぁと思って電話に出た。
「もしもし、コナンくん?」
『もしもし、さん。今からまた工藤家に来れる?』
以前より少し打ち解けた様子で話してくれるコナンに、うんと頷く。だが以前もそうだったが彼は少し急すぎる。安室がいなかったりの予定が何も無いから良いが、もしもの場合を考えてくれないのだろうか。しかし、彼はその返事で満足したのか「じゃあ待ってるから」と言って電話を切ってしまった。
まあ良いか。そう思っては油絵を描く時用のエプロンを脱いで、荷物をまとめて家を出た。

 暫く歩き続けて十数分。工藤家を目指していただったが、先程完成した絵の写真をメールに添付して安室に送ろうと操作していた所だった。しかしスマートフォンを見ていたせいで向かいからやって来たある男性とぶつかってしまい、手からスマートフォンが落ちてしまう。
「す、すみません」
「こちらこそ申し訳ない。お嬢さん、お怪我は?余所見をしていて悪かったね」
すぐさま謝って相手の顔を確認すれば、彼はどことなく見たことがある顔をしている。素敵な口ひげに大きな眼鏡。この人、誰だったっけ。彼の顔を見て悩んでいたに、落としたスマートフォンを拾い上げてくれる彼。しかし、彼はに渡す前に、その画面を見て「ん?」と声を上げた。
「これは、誰の絵かな?」
「あ、それは私が描いたもので…」
にこやかに訊ねてくる彼に恥ずかしくなりながらも素直に答えれば、彼はほうと大きく頷く。じっとのスマートフォンを見つめる彼に、あの…と声をかければ彼は「ああ、失礼」と微笑んだ。ダンディで素敵なおじ様だ。
「初めて見る魚たちばかりでね。幻想的でつい見入ってしまったよ」
「ありがとうございます」
「お嬢さんさえ良ければ、この絵を売っていただきたいのだが、少し話さないかい?」
彼の言うことは確かにそうだろう。この世界の魚との世界の魚では見た目が大きく異なる魚が多い。特にこの絵の中でも特徴的なのは額に角を持ったイルカだろうか。ファンタジーな絵が描くことが好きなのだろうと思ってもらえれば良いな、とは素直に彼の言葉に礼を言ったけれど、その後の言葉には目を丸くした。この絵を買ってくれるのか。だがあまりにも急な話だ。つい先ほどもコナンを相手に思ったことだ。何だかこの二人顔が似ているし親子ということもありそうだな。そう思ったが、まさかそんなことは無いだろうと思って、用事があるのだと彼に伝える。
「すみません、知り合いに呼ばれていて…」
「どこだい?場所によっては待てるが」
「えっと、工藤さんという方の家なんですけど」
用事があると言えば引いてくれるだろうと思っていただったが、思いの外彼はぐいぐい来る。そんなにの絵を気に入ってくれたことは嬉しいのだが、普通行先まで訊くだろうか。だが、彼は工藤と聞いてにこやかに頷いた。そこなら大丈夫だ、と。何が大丈夫なのか分からないが彼が紳士的にエスコートしてくれるので、はそれに半ば流される形で付いて行くことにした。


名前も知らない彼はぐいぐい来る素敵なおじ様、という印象だったが、先程の会話を除けばとても常識的な人で会話もとても上手くては彼との道中を楽しんだ。あっという間に工藤家に着いてチャイムを鳴らそうとした所、彼はそれを手で制して勝手に門の中に入っていく。
「え、良いんですか?勝手に入ったら…」
「ああ、大丈夫だよ。何せここは私の家だからね」
常識があると思っていた彼の行動に驚いて止めようとしたが、彼から返ってきた言葉には目を丸くした。工藤家が彼の家。それはつまり。そこまで考えて、は目を見開いた。ああ!と叫んで彼を見れば、ご名答と彼が微笑む。今まで気付かなかったが、彼は工藤優作だったのだ。この前のマカデミー賞で何か凄い賞を受賞したこの家の主。どうして今まで彼のことを思い出せなかったのかは分からないが、は驚きのあまり固まってしまった。何しろそんな有名人と出会ってしまうとは思ってもみなかったから。
「さあどうぞ?」
「お、お邪魔します」
くすくす笑っての背を優しく押してくれる彼に挨拶をして玄関に上がる。おや、と声を上げてリビングからやって来たのは沖矢だ。コナンの姿はない。どうも初めまして、と挨拶をしている優作と沖矢の会話を聞きながら、リビングへと通される。そういえば沖矢さん工藤さんには会ったことないって言っていたな。
それは良いのだが、なぜを呼んだコナンがこの場にいないのだろうか。そう思ってきょろきょろと周囲を見渡していたら、それに気付いた沖矢がに声をかけた。
「コナンくんならいませんよ。今日はあなたに謝りたくて呼んでもらったんです」
「え、それは…どうも…」
コナンから何も伝えられていなかったはその言葉に驚いた。この場に優作がいてくれて本当に良かったと思う。きっと彼と2人きりになっていたら気まずさと苦手意識からすぐにでも帰りたくなってしまっただろうから。
どうぞ座っていてください、と言う彼に頷いては優作の隣のソファに腰を下ろした。沖矢はキッチンへと入っていく。
「さっきの絵また見せてもらっても良いかな?」
「あ、はい。どうぞ」
優作にスマートフォンを渡せば、また子供の様に目をきらきらさせてが描いた絵を眺めてくれる。こんなに凄い人にこんな風に絵を見てもらえるなんて嬉しいなぁ、と思いながらは彼の質問に答えていった。
そこに沖矢が戻ってくる。そのトレーには沢山のお菓子が並んでいた。まさか、これは。
「お詫びの気持ちです。この前は失礼なことをしてすみませんでした。全部僕の手作りなので、召し上がってください」
の前に並べられたクッキーやパウンドケーキ、クレープ、カップケーキにエトセトラ。確かに彼が言う通り手作り感満載のものばかりだ。所々形が歪だったり所々焦げているのがまた、それ程得意でもないのに頑張って作った様子が溢れていて、はぐっと言葉に詰まった。嬉しいし、美味しそうだけど。だけど、こんなお菓子だけで許せるような事ではないと思うのだが。
「あ、ショートケーキもありますよ」
「いただきます」
しかし、は陥落してしまった。ええ、ショートケーキまで作ったの。もう良いか。これだけ沢山のお菓子を作るのにどれだけ時間がかかっただろう。その苦労を考えれば、彼のことを許しても良いかと思ってしまった。あの時の彼は彼でああいう風にから情報を得る必要があったのだろう。とても怖い思いをしたけれど、彼の厚意からあの時のことを水に流すことにした。それは良かった、と微笑んで紅茶を淹れて渡してくれる彼に礼を言う。
「仲直りできたのかな?」
「ええ、そうですよね?さん」
「はい」
紅茶を飲んで、ショートケーキにフォークを突き刺し口の中に入れれば程良い生クリームの甘さときめ細かいスポンジが口の中に広がる。美味しい。思わず目を輝かせれば、の絵を眺めていた優作がにっこりと微笑んで沖矢とのことを見やる。それに頷いた沖矢に同意を求められて、は頷いた。優作はそんな2人を見て満足そうに頷く。問題が解決した所で、と口を開いた彼はに視線を向けた。
「これからも君が絵を描くなら、全て私に売ってほしいんだがどうだい?」
「えっ、良いんですか?」
優作からの言葉には嬉しさから顔に熱が籠った。は絵を描きたくて描いただけなのに、こうやって誰かがその絵に価値を付けてくれるなんて思ってもみないことだ。その上、これからもずっとと彼は言う。
この海の描写に心を奪われてしまってね、と朗らかに笑う彼にぜひとは頷いた。
「サイズや製作時間、必要経費から考えると…」
が教えた情報から紙に絵の値段を計算していく様子の優作を見つめる。いったいの絵はどれくらいになるのだろうか。ごくりと生唾を飲み込んで素早く動く彼の手を眺める。
利益無しの場合の値段は5万円で、そこに利益を付ければ6万円になる。これで良いかな?と首を傾げた彼にこくこくと頷いた。彼はとても良い人そうだし決して何かを誤魔化そうとする人には見えないからこれが妥当な金額なのだろう。
「では交渉成立だ。ああ、もし絵を描くスペースが無いならこの家の部屋を使うと良い」
その上、アトリエとして一つ部屋を貸してくれるとさえ言ってくれる彼に、は驚いた。流石にそこまでしてもらうのは甘え過ぎではないだろうか。趣味で描いた絵を買ってくれるというだけでにとっては十分なのに。
だが、彼は普段はこの家ではなくアメリカで生活しているらしい。今日はたまたま久しぶりに日本に来ていただけで、また数日すれば妻が待つアメリカに帰ってしまうと言う。
「うちで描いてくれればすぐに飾れるし、どれをアメリカに送ってもらおうかと考えやすくなるんだが…」
そうしてくれた方が私としても助かるのだ、と彼から言われてしまえばは頷くしかなかった。彼がここまで言ってくれるなら本当に迷惑ではないのだろう、と思って。だがその場合鍵はどうすれば良いのだろうか。沖矢がいない時にはは絵を描けないことになる。そんなの疑問を見抜いて、優作は合鍵を作っておくよと微笑んだ。


 お金の振込先など細々としたことはまた後日、ということになっては工藤家から帰っていった。玄関まで見送りにきた優作は、にこにこと純粋そうに笑って喜んでいた彼女の様子を思い出しながらリビングへと入る。
「すまないね、君に色々彼女の面倒を見てもらうことになってしまうが」
「良いですよ。彼女のことは気になっていたので」
ソファに腰を下ろして沖矢の姿をしている赤井に苦笑すれば、彼はそれに対して快く頷いてくれた。最初、の絵を見たのは沖矢に変装している時であった。あの時見た絵は鉛筆で描かれた人物画であったが、油絵で表現するとこうも雰囲気が違って見えるのかと思った。風景画と人物画以前に、筆のタッチという意味でだが。
「ですが、彼女を監視する為とは言えあの絵を買って良かったんですか?」
「ああ、彼女の絵を気に入ったのは本当だよ」
絵のことは良く分からないのですが、と前置きをして訊ねる赤井に優作は頷いた。彼女を悪く言えば監視、良く言えば傍に置くということが今回の目的だったわけだが、彼は本当に彼女の絵に心を奪われた。まるで、どこか別の世界の海を見てきたかのように描く彼女。技術はプロと比べたらまだ稚拙な部分があるが、それでも何枚か描いていくうちに改善されていくだろう。そんな風に彼女の成長を見られるのも楽しみだし、その成長した技術でどんな海を描いていくのかということも興味がある。だから彼女のパトロンになって経済的に支援していこうと思ったのだ。
――彼女が見ている世界は、きっと優作が見ている世界とは違う煌めきがあるのだろう。


46:生まれ落ちる海
2015/08/04
3章完結。

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