予め作り置きされていたカレーにサラダというよくあるメニューを昼食に食べて、とコナンはのんびりとその後も過ごしていた。いったいいつになったら安室さんの正体が分かるんだろう。
ふわぁ、と欠伸をして窓の外を見る。もう夕焼けが消え去って、辺りは暗い。
さん、上行くよ」
「え、うん」
突然ソファから立ち上がった彼に頷いて、は彼の後を追うことにした。リビングでマカデミー賞授賞式がもうすぐ始まるということでテレビを見ている沖矢を一人置いていく。
とんとんとん、と階段を上がって一つの部屋に入る。そこは電気が付けられていなくて暗い。だが彼が何やら机の上にいくつも並べられたパソコンやモニターの電源を付けると微かに明るくなる。だが、目に痛い光だ。
「ねぇ、これ何なの?」
「秘密。さんは何もしちゃ駄目だよ」
不思議に思ってモニターに近付けば彼は、声を出してもいけないし全てが終わるまでこの部屋から出て行ってもいけないと言う。それに分かったと頷いては彼に指示された通りに、彼から少し離れた所にある椅子に腰かけた。この場所からでも十分にモニターは見られる。だけど、コナンの背後である為彼の顔は見えない。
――ピンポーン。
そこにチャイムの音が響いた。
モニターから沖矢がそれに対応しているのが見える。宅急便です、そう言った男の声には目を見開いた。この声はよく知っている安室のものだったから。そして沖矢が扉を開けたことで見える安室の姿。やっぱりそうだ。
「こんばんは。初めまして、安室透です」
沖矢と対峙する彼はいつもの彼よりも大分刺々しいもので、は戸惑う。はぁ、と曖昧に頷く沖矢に、でも初めましてじゃ…ありませんよね?と彼が薄く笑った。


 一先ず、中で話し合うことになったようでリビングに通される安室。どうぞお座りください、と席を勧められた彼はちらちらと周囲に目を向けながらもありがとうと礼を言いソファに座った。こんなに冷たい響きを持った彼のありがとうなんて初めて聞いた。
キッチンから紅茶を持ってきた沖矢に、彼は「ミステリーはお好きですか?」と問いかける。それに頷く沖矢に、彼は単純な死体すり替えトリックだがと前置きをした。沖矢はそのミステリーの定番に興味を示したらしい。いったい、これから何が始まるのだろうか。
「ある男が来葉峠で頭を拳銃で撃たれ、車ごと焼かれたんですが…」
辛うじて残っていた男の右手から採取された指紋が、生前その男が手に取ったというある少年の携帯電話に付着していた指紋と一致したことで、死んだのはその男だと証明された。
トリックの話を始めた彼の言葉を聞く。が初めて聞く話だ。その男というのは分からないが、少年という言葉には引っかかりを覚えた。少年、まさかね。ちらりとモニター前に座り込んでいるコナンに目を向けるが、すぐにモニターの中の彼らに集中する。
だが妙なのだ、と安室が続ける。その男は左利きにもかかわらず残っていた指紋は右手のもの。つまり、何かで利き手が塞がっていたか、そうせざるを得ない状況だったということになる。しかし、そもそもが間違っていたようだ。携帯に付着した指紋はその男のものではなく、別の男だったと彼が言う。
「さて、ここでクエスチョン…」
拾わせようとしていた男は、脂性の太った男か、首にギブスをつけた痩せた男か、それとも心臓にペースメーカーを埋められた老人か。沖矢に問いかける彼には一緒に考えていたが首を傾げた。既にチンプンカンプンだったが、真剣に画面を見つめる。きっと、コナンが言う通り沖矢とのこの駆け引きの中に、今まで彼がに秘密にしてきたことがあるのだろうと思って。
沖矢はそんな彼に二番目の痩せた男であると回答した。何故なら、脂性の男が触った携帯は一度拭かれてその後に痩せた男が拾ったから。そして、最後の老人はペースメーカーが誤作動を起こすことを恐れて拾いすらしなかった。彼の言葉になるほどと心中頷く。だけどそれだったら最初に安室が言っていたある男の指紋はどうなってしまったのだろう。が疑問に思ったのと同じように沖矢は彼に質問していた。
「だが付かない工夫をしていたら?」
頬杖をついて不敵に笑う彼。恐らくその男はこうなることを見越して予め指先にコーティングをしていたのだと彼は言う。
――安室さんは何を目的に沖矢さんに話しているんだろう。先程から彼らの様子をじっと眺めているけれど、には分からない。だけどきっと、コナンには分かっているのだろう。暗闇の中に浮かび上がる彼の背中は小さいのに、何だか大きく見える。
沖矢が彼に訊ねている様子を見ながらも、は彼の思惑を考え続けていた。こんな風に沖矢を訪ねてきたのは組織の人間としてなのか、それとも一個人としてなのか。だけど、安室と沖矢の繋がりが全く見えてこない。
だからだろうか、不安ばかりが膨らんでいく。まるで、今までに見てきた彼は偽りであったかのような冷たい雰囲気に、自分は彼のことを何も知らないのだと突きつけられているような気がして。
「中々やるじゃないですかその男…まるでスパイ小説の主人公のようだ…」
「だがこの計画を練ったのは別の人物…」
が考え込んでいる間に随分と話は進んでいたようで、再び画面に注目する。その男が死ぬ直前に呟いた「まさかここまでとはな…」という言葉には別の意味が含まれていた。それはつまり、「まさかここまで読んでいたとはな」という意味。このことから、この言葉がある少年を賞賛する言葉であったのだ、と語る安室にはごくりと生唾を飲み込んだ。一気にこの部屋の中の緊張度が増した気がして。それはきっとコナンから放たれている。
やはり、安室が言う少年とはコナンのことなのだろうか。でなければこんなにもコナンが緊張する筈がない。いつも余裕綽々な態度でたちに接していた彼が、彼の溜息一つでさえも聞き漏らさないようにしている様子がそれを語っている。
「連絡待ちです…」
こと、とテーブルの上にスマートフォンを置いた安室。仲間の生死がかかわれば素直になってくれるかと思いまして、と言う彼の表情は獲物を追い詰めた時のような高揚感が窺える。
「でもできれば連絡が来る前にそのマスクを取ってくれませんかねぇ…沖矢昴さん…」
――いや、FBI捜査官…赤井秀一!!
ギラギラした様子で安室がそのマスクを取れと要求したのは、今までにが聞いたことがない男の名前。沖矢が別の人物だったということなのだろうか。そして彼は赤井を追ってここまで来たのだろうか。ハラハラと2人の様子を見守るの手に嫌な汗が浮かぶ。
――もしかしたら、この前話していた“復讐”に赤井という男が関係しているのでは。
嫌な予感に心臓がどきどきと騒ぎ出す。
「何のつもりだ?」
「少々風邪気味なので…マスクをして良いですか?君に移すといけない」
素直にマスクを外した沖矢に、安室は鋭い視線を投げかける。底冷えするかのような冷たい響きの声に、の心臓はきゅっと縮こまった。両手をぎゅっと握りしめて、この緊張をどこか別の所に押しやろうとするけれどそれは中々上手くいかない。
「そのマスクじゃない…その変装を解けと言っているんだ!!赤井秀一!!」
「変装?赤井秀一?さっきから一体何の話です?」
苛立った様子で声を上げる安室に沖矢はきょとんとしているが、安室の感情の荒波が画面からに伝わってくる。彼と喧嘩した時でさえ、ここまで彼が声を荒げたことはなかった。普段は基本的に穏やかで冷静な彼が、ここまで赤井という男に執着する理由。それは、には分からない。しかし、彼は一度冷静になるために溜息を吐いた。
「一体何を企んでいる?」
玄関先に2台、廊下に3台、この部屋に5台の隠しカメラがあることを見抜いた彼。不敵に笑って、FBIにこの映像を送る気か、それとも別の部屋にいる誰かがこの様子を見ているのかなと言う彼に、の心臓は跳ねた。リビングにあるカメラの一台を介してこちらを真っ直ぐ見据える安室は、まるでたちのことを見透かしているようで。悪いことをしている筈ではないのに、そうやって彼の鋭い瞳で射抜かれると悪事を働いているような気分になる。じわじわと滲む手の平の汗が気持ち悪くて、そっと洋服で拭った。
「そもそも赤井秀一という男…僕と似ているんですか?顔とか声とか…」
「顔は変装…声は変声機…」
ゴホゴホと咳をしながら問う沖矢に、彼はふんと鼻を鳴らして窓の外を見る。隣の家の阿笠博士が作っていた変声機を使えば簡単に声は変えられるのだと。ソファから立ち上がり沖矢へと近付く安室は丁度そのハイネックで隠れるくらいなんだよ!!と彼のハイネックを下げた。


だが、そこには何もない。唖然としている彼には悪いが、はほっとした。もし沖矢が赤井という男だったとして、彼が同一人物なのだと分かれば彼はきっと何かしただろうから。安室の邪魔はしたくなくても、やはり彼が誰かに復讐なんてしてもらいたくない。
そこに、机の上のスマートフォンが音を立てる。沖矢に指摘されて気を取り戻した彼は電話に応答した。
「どうした?遅かったな…」
どこか普段の人と接する時と違う様子の彼には戸惑いを覚える。まるで、部下か目下の者と話しているような雰囲気だ。しかし、赤井が!?という彼の言葉にはっと意識を戻す。どうやらその赤井が拳銃を発砲したらしい。今までに無い程動揺している彼の様子に、は再びハラハラしてくる。
「動ける車があるなら奴を追え!!今逃したら今度はどこに雲隠れするか…」
「すみません…少々静かにしてもらえますか?」
命令口調で相手に指示を出している彼だったが、沖矢が咳払いをしてテレビに映るある男性を見やる。それはこの家の主である工藤優作という人物だった。にはどういう賞なのかよく分からないが、とても素晴らしい賞を受賞したらしい。そんな彼を安室は見つめた。
静まり返った部屋の中に授賞式の司会の男と工藤優作の声が響く。だが、安室は画面から視線を外して先程よりも声を押さえた様子で相手に「応答しろ!」と呼びかけていた。
しかし突然、彼の様子が変わった。流石に電話の相手の言葉までは聞き取ることが出来ない為、何を話しているのかは分からないが、彼の表情が怒りで歪んでいる。
――安室さん。
咄嗟に椅子から立ち上がっただったが、ちらりとを振り返ったコナンの鋭い瞳にもう一度椅子に腰を下ろす。そうだった、コナンと全てが終わるまではこの部屋から出てはいけないと約束したんだった。
「まさかお前、俺の正体を…!?」
声を抑えてはいるが、耳の良いには彼の言葉が聞こえた。“俺の正体”、それは黒の組織の人間であるということとはまた別のことなのだろうか。コナンも彼の正体が分かると言っていた。その上、いつもの彼の一人称は“僕”。人間、焦った状況で出てくる言葉が自分の素であることは明白だ。つまり、彼の本来の一人称は俺ということ。
――安室さんは、本当に安室さんなのかな。
沖矢と対峙している彼を見て、は今まで一緒に暮らしてきた中で見たことのない彼の顔があることを知った。そこから疑念が溢れ出す。どうして態々本来の一人称を隠しているのか。なぜ赤井からの電話で正体を知られているかもしれないことに危惧しているのか。
だが次の瞬間、目を見開き驚愕している様子の彼に、ざわざわと胸騒ぎがしてその疑念は霧散した。今すぐにでも彼の所に駆けて行きたい。だけど、彼のもとに行ったからといってに何が出来るのか。きっと、ここにいても彼のもとに行っても、結局は見ていることしか出来ないだろう。傍にいても、彼の役には立たないのだ。
だから、ぐっと奥歯を噛み締めている彼を見ていることしか出来ない。
今までずっと一緒にいたのに、何も思いつかないなんて、私は馬鹿だ。沖矢と二言三言話して工藤家を出て行った彼を見ていたの心は重い。だけど、きっと安室の方が何か抱えきれないほどの重いものをその胸に秘めている。
結局、彼の正体なんて分からなかっただったが、机に突っ伏しているコナンに近寄って聞いてみた。
「安室さんは、良い人……?」
「ああ、まあそんなとこかな」
の希望にすぎなかったが、疲れた様子の彼から返ってきた言葉にはほっとした。コナンがそう言うからには間違いはないだろう。それなら、コナンたちとはこれからも仲良くしていて良いということだろうか。だが、今はそれ所ではない。安室のことが今は一番心配だから。
「じゃあ今日は帰るね」
「ああ、また連絡するよ」
もう少しコナンと話したいとは思ったけれど、今は家に帰ることが先決だ。彼からの了承を得て、はぽんと音を立てて姿を消した。


 ぱちり、と目を開く。視界に入るのは自分の部屋の天井だ。随分長い間分身の身体の中に入っていたから節々が強張っている。だが、安室が帰ってくるまでに夕食を用意しないと。
あの時、恨みが籠った目で噛み締めていた彼の心境は分からない。それに、彼がどうして“僕”と演じているのかも。彼が何かを隠しているのは間違いない。今までの調べものが赤井という男に繋がっていたということは何となく知ることは出来たけれど、まだ彼はに言っていないことがある。
――どうして、私に教えてくれないんだろう。
が頼りないからか。それとも、何かにを巻き込まないようにしているのか。あるいはを利用しているから言えないのか。色々な考えがぐるぐると頭の中で巡るけれど、きっと最後の考えだけは違う。今まで安室はを大事にしてくれていたから。
だけど、今回のことでは彼のことを何も知らないのだということを思い知った。好きな食べ物や、好きな小説、彼の普段の行動や癖を知ってはいても、彼の過去については何一つ知らなかった。たった一つ、彼のあだ名がゼロだったこと以外。今までは彼の過去について訊ねたことは無かった。それは彼から過去を詮索されたくないという思いを無意識に感じ取っていたからだ。
「こんなに好きなのに、何も知らないなんて…。馬鹿みたい……」
胸がぎゅっと締め付けられて苦しくなる。喉の奥がぐっと詰まって、一滴だけ涙が零れ落ちた。しかしそれを指で拭ってエプロンを着けてキッチンに立つ。帰ってきた彼には、少しでもその負担を減らして心を休めてほしいから。今のに出来ることはそれくらいしかない。だから、彼が帰ってきたらすぐに落ち着ける環境にしておかないと。
メインは安室が作っておいてくれた物があるからそれにすれば良い。あとはサラダとスープだけ作って料理を盛り付けてテーブルの上に並べれば完成だ。献立を考えながら野菜室からレタスやトマト、ルッコラ等を取り出して洗っていく。一口サイズにちぎったり切ったりして皿の上に盛り付けてテーブルの上に並べた。次はスープを作って、メインとご飯を盛り付けだ。
だが、予想以上に早く安室が帰ってきたらしい。ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえて、は慌てて手を拭いて玄関へと向かった。だけどいつも通りにしないと。私は何も知らないことになっているんだから。
「おかえりなさい、安室さん」
「ただいま」
扉を開けて入ってきた安室はのエプロン姿に一瞬目を丸くしたけれど、にっこりとほほ笑む。その笑みはいつも通りの安室だ。だけど彼は嘘が上手いから、その胸に何かを溜めこんでいても表に出さないだけで、今いったいどんな気持ちなのかは分からない。
「今ご飯用意してますから手洗ってきてください」
「先に食べてなかったのか?」
「はい」
リビングに行く前に彼にすぐに夕食を食べられることを伝えれば、驚かれた。それもそうだろう、とっくにいつも夕食を食べる時間を過ぎているのだから。きっと、が先に食べていると思っていたのだろう。彼が手を洗いに行っている間にはキッチンへと戻った。冷蔵庫に入っている料理を取り出してレンジで温める。その間にスープを作っておかないと、とお湯を沸かしている所に安室がやって来た。
「スープ、作ってるのかい?」
「私だってこれくらいできますよ」
キッチンの入口で壁に寄りかかってを眺めていた安室だったが、がコンソメスープを作っている所に近付く。ポーカーフェイスは完璧でも、普段より少し元気がない彼の声にどうにかして元気づけたいとは内心焦っていた。だから彼が背後から腰に腕を回して肩に頭を凭れさせるまで気付くことができなかった。
「ごめん、少しだけ肩を貸してくれないか…」
びくり、と肩を跳ねさせたに安室が小さく呟く。緊張からどくどくと脈打っている心臓に赤く染まる頬。だけどそれ以上に胸が切なさで締め付けられた。何も言葉を発さずにぐっとの腰に回した彼の腕の拘束が強くなる。の肩に押し付けられた彼の額から色々な感情が溢れているような気がして、は再び喉の奥がぐっと詰まるような感じがした。
「何の為に、今まで僕は……」
小さく、小さく、本当に空気に溶けてしまいそうな程の声で囁かれた言葉に、胸が大きく傷んだ。まるで、何の為に生きてきたのか、と彼が苦悩しているような気がして。は勇気を振り絞って身を捩り彼と向かい合った。そっと、震える手を伸ばして彼の背中をゆっくり擦る。
少しでも頼られていると分かったから。彼がに何かを隠していたとしても、自分の弱い部分を欠片だけでも見せてくれているから。だから受け止めたかった。きっと先程が考えていたことは合っているのだろう。昔、赤井という男と安室は何かあったのだ。それで彼は赤井に復讐したいと思っていた。だけどそれは叶わなかった。
彼がどれ程の月日をそれにかけていたのかには分からない。しかし、一つだけ分かることはある。
「…何かのためじゃないといけないんですか…?私は、生きるために生きてますよ」
何か目的を持たないと生きていてはいけないのだろうか。はそんなに難しいことを考えて生きてはいない。ただ、生きたいから生きている。安室と共に居たいから生きたいと思うし、ご飯だって食べたいから毎日が楽しい。そういう単純な欲求があるから人は生きているのではないだろうか。
は単純だね…」
徐にの肩から顔を上げた彼はふふと笑った。無理をしていないだろうか。の言葉に腹を立てていないだろうか。そんな風に心配しているのが伝わってしまったのか、彼がの頭を撫でてありがとうと呟いた。
「もう大丈夫だよ」
そっとから身体を離し微笑んだ彼に、寂しくなる。色んな場面での不安を取り除いてくれた彼に、今度はが同じようにしたいと思ったのだが上手くできたのだろうか。
こんな風にに頼ってくれた彼を支えたい、慰めたいと思った。ぎゅうと胸が締め付けられて彼への愛しさが溢れ出す。ただ、支えさせてほしい。が守られ支えられているばかりでなく、同じようにも何か与えたかった。

――少し、好きの形が変わったような気がした夜だった。


45:いちばんたいせつなひとへささぐいのり
2015/08/03
タイトル:ジャベリン

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