翌日、はいつも通り7時に目を覚ました。寝巻から普段着に着替えてリビングに向かうと、既にトーストに目玉焼き、サラダなどを用意した彼と目が合った。おはようございます、と挨拶をしては彼の為に朝のコーヒーを淹れることにする。配膳が終って席に着いている彼がニュース番組を見ながら、まだ昨日の事件は報道されていないみたいだね、と呟いた。それにそうですね、と返しながらもはコーヒーと紅茶を入れる。うん、寝起きにコーヒーの香りを嗅ぐと目が覚める。朝って感じがするなぁ。
彼の前にコーヒーが入ったマグカップを置いて、席に座る。いただきます、と手を合わせて彼女はまずはサラダから食べ始めた。
 朝食を食べ終えてから、紙と鉛筆を持ってきた。この前、コナンと共に事件を解決した時に、自分の世界では良く絵を描いていたのを思い出したのだ。小さな頃から絵を描くことは好きだったが、故郷が戦争状態に陥った時に外で遊ぶことが出来ないはその期間に絵を描くことにのめり込んで、一日に何枚も風景や人物を描いたものだった。海賊になってからは海や仲間、海の生物を描くことが多くなっていったが。
此方に来てからは字を覚えたりするのに気を取られて全く忘れていた。被写体は何にしようかな、とリビングを見渡してみるがやはり安室しかいないだろうと思って、ソファからテーブルでコーヒーを飲んでいる安室に対象を絞った。
「何してるんだい?」
「安室さんを描いてるんですよ。動かないでくださいね」
「難しいことを言うなぁ」
がしていることに気が付いた彼がこちらに視線を寄こして立ち上がろうとするが、それを手で制する。被写体が動いたらちゃんとした絵が描けない。彼はそれに渋々頷いて座り直してくれるけれど、先程と違ってその瞳はこちらを向いていた。絵を描く為にじっと見なくてはいけないのに、彼に見られていると思うと逆にが描かれているような気分になる。きっとそれは彼がこちらのそういう気持ちを見越してやっていることなのだ。意地悪。
咳払いをしてそんな気恥ずかしい気持ちを宥める。無心になるんだ。さっさっさ、と鉛筆で薄く輪郭を取っていって徐々に細かい部分も書き足していく。彼はたまにコーヒーに口を付けながらも、から視線を外さなかった。負けるもんか。変な対抗意識が生まれてはじっと彼を見つめる。
「出来た!」
「見せて」
絵が出来上がったのは1時間後だった。そんなに細かく描写していないからラフ画だ。後で安室がいない時にでも先程瞼の裏に焼き付いた彼の姿を思い出しながら描けばそれなりになる筈。
椅子から立ち上がってこちらにやって来て、紙を覗き込んだ彼は目を丸くした。
「上手いじゃないか」
「そうですか?まだラフですよ」
「これでラフなのか」
へぇ、と彼が見るのはマグカップを持ってこちらを見てくる彼そのもの。緩やかに弧を描く口元に、優しいのに逃がすつもりはないというような瞳。所謂、安室がちょっと意地悪な時の顔だ。僕、こんな顔してた?なんて少し照れている様子の彼に、はにやっと笑った。安室さんが照れる姿を見せるなんてレアじゃないか。
そうですよ、と彼の言葉に返事しながらは道具を片付ける。久しぶりに描いたけれど腕はそんなに落ちていないようだった。自分の腕がどの程度のものかは知らないが、だからと言って過去の自分よりも下手なのは嫌だ。
ふうん、と頷いた彼だったが、そこに彼のスマートフォンが振動した。どうやら電話らしい。もしもし、と電話に出た彼は特に別の部屋に行こうとはしない。仕事の話ではないのだろうか。
「ええ、そうです。……はい、分かりました。今から行きます」
電話を短時間で終了させた彼は、高木刑事からだったよと肩を竦めた。どうやら昨日の澁谷の事件のことで安室にも事情聴取を受けてもらいたいということらしい。彼はそういうことだから行ってくるよ、と言って用意する為に自室に行く。
案外早い連絡だったなぁ。そう思って時計を見ればまだ時刻は11時過ぎだ。いや、別に早くないか。時計の時間には自分の考えを改めた。
「昼ご飯は作り置きしておいたやつを食べて。もしかしたら遅くなるかもしれないけどその時は連絡するよ」
「分かりました。気を付けていってらっしゃい」
玄関で靴を履く彼からの言葉に頷いて、は彼が行ってきますと言って扉を閉めるのを眺めていた。がちゃり、と鍵が閉まる音を聞いてからリビングに戻る。
暫くはさっきの絵の続きでも描いていようか、とは今日の予定を立てて優雅だなぁと一人呟いた。


 ベルモットの協力によってキャメルから楠田陸道が車内で拳銃自殺したことを聞きだすことに成功した安室は、彼女をホテルまで送り届ける為に車を走らせていた。フロントガラスから見える外の景色は暗闇に浮かび上がるビルや家の明かり。を一人にしてから大分時間が経ってしまった。杯戸小学校を出る際に今日も遅くなると彼女に伝えたは良いが、予めこうなることが分かっていたのに今朝彼女に伝えなかったことを申し訳なく思った。
「所で彼女は元気?ほら、あなたと同居しているって子」
「ええ、元気ですよ。それがどうかしました?」
赤井の話題から逸れて、へと興味の矛先を変えたベルモットに安室は内心舌打ちした。運転する為に冷静に前を見据えてはいるものの、ベルモットに彼女の事は忘れろと言いたかった。だがそうしてしまえば余計に彼女の興味を煽ることになると分かっていたから、そんなことはしないが。
「面白い子だと思っただけよ。また会って話がしたいわ」
「そうですか。だけど今はこっちが重要なんですから集中してくださいよ」
こちらを向く彼女の視線の意味は何通りにも解釈することができそうだ。だが、良い意味ではないだろう。きっと、彼女はのことを探っている。安室の反応から、彼女がどういった存在なのかを知ろうとしているのだ。だから安室はに興味を持っている様子の彼女に注意することなく、ただ今は赤井に専念してほしいと伝える。この案件が片付くまではに接触しないようにと。仕事を優先させているように見せつつ、その実は牽制する。
勘の鋭いベルモットならば、この裏の意味を察知するかもしれないが表面上の意味だけだとしらを切ることなど、安室には不可能ではない。
彼の言葉に、彼女は分かってるわよと頷いて窓の外を眺めた。いざとなれば、安室が有している彼女の秘密を使えばの安全は今以上に確保されるだろうが、そうするのは最終手段に取っておきたい。何と言っても、そうしてしまえばベルモットはの情報を他の者にリークしそうだから。今はまだ興味が湧いたと言っても、自分一人で調べようという段階なのだろう。
「ここで良いわ」
「そうですか」
ベルモットが泊まっているホテルから少し離れた所で彼女が車を停止させるように指示する。安室は頷いて緩やかに道端に車を止めた。じゃあ、期待しているわよ。そう言って助手席からいなくなった彼女。カツカツとヒールの音を響かせながら歩く後ろ姿を暫し眺めてから、安室は自宅へ帰る為に再び車を運転することにした。

 マンションへと帰る道すがら、窓を開けて車の中を換気する。ベルモットの香水はキツくはないがだからと言って薄いというわけでもない。ふわり、と香る甘い女物の香水の匂い。きっとジョディの香水と同じ物だろう。相手に変装したベルモットだと気付かせない為に匂いにまで気を遣う彼女の徹底っぷりは一流だが、そんなものを残したままに何か誤解されても困る。は少しアホだが、だからと言って何も考えられぬような馬鹿ではない。気配には鋭い方だし、五感も他の者に比べたら優れている方だ。そんな彼女がこの香水の匂いに気付かないわけはないだろうし、彼女は勝手に思い込んでまた傷付く恐れがある。
少し肌寒さを感じながらも、窓を閉めることはしない。
の想いを受け止める訳でもなく、拒絶するわけでもなく、ただ手を触れないようにしているのにこうやって彼女が傷付く事柄を無くして彼女を捕えておく安室は汚いのだろうか。の純粋な気持ちに比べたら、きっとそうだろう。
――できれば、僕への恋心なんて失くしてくれれば良いんだけど。
なんて。彼女が聞いたら泣くだろうことを考えてしまう。だって、そうすれば安室たちは何の障害もなく、今まで通り穏やかに暮らしていくことが出来るから。でも、彼女が安室の代わりに誰かを好きになるというのは想像できなかった。それはきっとあまりにも彼女に男の知り合いがいないからだろう。何しろ子どもか恋人持ちか年の離れた男しかいないから。
頭の中でぐるぐると楠田陸道の最期や赤井の言葉、そしてのことが回る。だが、メインは赤井だ。気分は高揚していた。きっと、明日で決着する。その為の情報を安室は手に入れた。今はのことよりもこちらに集中しなくては。しかし、
――早く帰って彼女のおかえりを聞きたい。安室の悲願が叶いそうなのだ。そのことは彼女には言えなくても、彼女の笑みに受け止めてもらいたかった。だが、健康的な彼女はもう寝ているかもしれない。そんな可能性が頭に思い浮かんで、安室は小さく息を吐いた。兎にも角にも、早く帰ろう。安室は漸く見えてきたマンションに、アクセルを踏み込んだ。


 助手席に落ちていたベルモットの金髪を小型掃除機で掃除をして彼女が乗った痕跡を一切匂わせないようにしてから、安室はエレベーターで自分の部屋の階まで上がってきた。
「ただいま」
がちゃりと扉を開けてみると、どこにも光がない。やはり、寝ていたか。靴を脱いでリビングへと赴き彼女がソファで寝てないことを確認する。どうやら今日はきちんとベッドで寝ているらしい。
テーブルの上に用意されている夕食の端に「冷蔵庫にサラダがあります」と少し歪な平仮名で書かれたメモが置いてあるのを目にして穏やかな気持ちになりながら、安室は手を洗いに洗面所へ向かった。
手を泡だらけにして洗い流した後に拭いて彼女の部屋の前を通る。別にやましい気持ちなんて無いのだから、と彼女の部屋をそっと開けて中に入った。僅かに廊下の光が暗い部屋に差し込んで安室の影が長く伸びる。すやすやと規則正しい寝息をしている彼女を見下ろして、感謝の気持ちを込めて彼女の頭を撫でた。最近が普段と様子が違う安室のことを心配しているのは知っているし、こうやって気を遣って苦手な料理――彼女が作る簡単なサラダが料理と呼べるかは分からないが――を作ってくれているから。
ふと、少し離れた位置にある机の上に今朝の安室の絵が置いてあるのが見えた。足音を立てないようにそろりと動いて確認すれば、それは今朝見た時よりも立体的になっていた。
――驚いた。
彼女が描いた絵は画家レベルでやっていけるレベルだ。白黒なのに、紙の中でこちらを見つめてくる自分に生命の息吹を感じて安室は目を見開いた。
今朝、安室を描く時の楽しそうな様子の彼女を思い出す。あの様子からして、彼女は絵を描くことが好きなのだろう。きっとパトロンさえいればこれからは好きなだけ絵を描いて暮らしていける。探偵の助手より余程彼女の性に合っているし危険もない。
安室はそう思いながら絵を元の場所に戻して部屋を出た。ひとまず、明日赤井と決着してから彼女のことを考えよう。明日さえ終わればいつも通りと一緒にご飯を食べられるから、それまでもう少し待っていてほしい。


43:夜を飲み込んだ光
2015/07/30

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