翌朝、分身のは学校に行くことが初めて嫌になった。何故って、昨日コナンにはの正体が知られてしまったから。その上彼はのことを警戒しているし脅しもした。そんな彼らと学校に行って会うのが嫌で。それは本体も分かっている。
もう、安室の目的は遂行されたのだから分身が学校に行かなくても良い気がするのだが、きっと彼はそれでも学校にを送り出すだろう。
「どうしたんだい?」
「んー………」
玄関でもだもだと靴を履いているを、安室はいつもの微笑を浮かべながら見下ろした。言葉には出さずに唇を尖らせただけだったが、それでも人の機微に鋭い安室にはの学校に行きたくないという気持ちが伝わったのだろう、ぽんぽんと彼女の頭を撫でる。
「手、出してごらん」
「?」
それでもまだ立ち上がらない様子のに、安室はの両手を要求する。彼の言葉に首を傾げながらも本体と比べて小さくてふくふくした手を差し出せば、彼はそれを両手でぎゅっと握りしめた。
嫌な気持ちがなくなるおまじない。そう言って得意気に笑った彼に、の心臓はどきんと跳ねた。ぎゅうう、とまるで安室の思いをの手に宿すかのように握りしめてくれる彼に、は照れや恥ずかしさから先程までの学校に行きたくない気持ちなどどこかに飛んでしまう。
子ども騙しだと分かっていながらも、は熱くなる顔を抑えられなかった。
「い、いってきます!」
「いってらっしゃい」
もう大丈夫、と彼の手から逃げて玄関の扉を開ける。扉を閉める際に、彼の手間のかかる子どもを見るような眼差しに、はずるい大人だと思った。
本体がリビングで分身と同じように動揺しているのを察知して、は笑う。安室さんは一度に2人の人間を動揺させてしまうのだから凄いよなぁ。

 学校に着いて教室に入る前、どきどきと五月蠅くなりだした心臓に落ち着けと言い聞かせる。彼ら、コナンと哀にどう反応されるのかが怖かった。彼女は彼から色々話を聞いていそうだから。
意を決して教室に入って自分の席に着く。コナンと哀はこちらをちらりと見てそんなに時間が経たないうちに視線を逸らした。彼らの表情からは何を考えているのか、なんて読み取ることができない。
だけど、思ったより刺々しくない彼らの様子に少しばかり安堵した。もっと、睨まれるかと思っていたから。
ちゃん、おはよう!」
「おはよう、歩美ちゃん」
!今日の給食は揚げパンだぞ!」
「もうお昼の話ですか、元太くん」
ランドセルから教科書や筆箱を取り出している所、朝から元気な様子の歩美たちに囲まれた。特に元太はもう昼食のことを考えているらしい。いつもは食べることが大好きなは彼と気が合うことが多く、よく給食の話で盛り上がっていたのだが、今朝はコナンたちのことが気になって給食どころではなかった。しかし、彼らのいつも通りの様子を見て、少しばかり気が楽になった。コナンたちと違って、彼らは何も知らないのだから。
楽しみだね、と元太の言葉に笑っては彼らがいてくれて良かったと思った。

 休み時間がやって来て、は以前よりもこの学校生活に慣れていることを感じた。先程は国語の時間だったが、以前よりも漢字をスムーズに音読することが出来るようになっているし、文章を書く時間だって速くなった。
今朝から感じていたコナンたちへの緊張も、この時間帯になれば和らいできていて、はほっと一息吐く。彼らは進んでに近付くことをしてこないし、としてもこちらから近付く気はない。
「ねぇ、ちゃん」
「どうしたの?」
歩美に廊下の外に呼ばれて、彼女の後をついて行く。内緒話をするように声を潜めての耳元で小さく、コナンくんたちと喧嘩したの?と訊ねてくる彼女に、は少し驚いた。気付かれていたのか。きっと、いつもなら普通に話し合っていたたちが突然会話もせず目も合わせない状況に、おかしく思っていたのだろう。
彼女の観察力に驚きながらも、はそんなことないよと笑った。眉を下げて心配している様子の彼女を安心させるように。
「本当に?ちゃん今日元気なかったから…」
「ちょっとお腹痛かったんだよ。もう大丈夫」
「そっかぁ!」
の為に頭を悩ませてくれていた彼女に嘘を吐くのは忍びなかったが、本当のことを言って更に心配させるという選択肢はないため、は些細な嘘を吐くことにした。それで納得したのか、歩美には笑顔が戻る。じゃあトイレ行ってくる!と元気よく走り出した彼女に、廊下は走っちゃ駄目だよと声をかけながら、は教室の中へと入った。
――歩美ちゃんたちの前では、コナンくんたちといつも通りにした方が良いのかも。
先程の彼女の様子からして、きっとこれからとコナンたちが話さなくなってしまえば、心の優しい彼女はまた頭を悩ませてしまうのだろう。そうならない為にも、普段と変わらない様子でいた方が良いとは分かっているが、どうにも昨日のことからコナンたちと接することに苦手意識を抱いてしまっていて。だけど、歩美を心配させたくもない。
ううん、と悩んでいるうちにの足はコナンの机の前に来ていた。もうなるようになれ。
「何だよ」
「歩美ちゃんが心配していたから、皆の前ではいつも通りにした方が良いと思う…」
じろりと半目でのことを見上げた彼に、は先程の歩美のことを伝えた。そうすれば、そういうことかと頷く彼。
としてはこんなにあっさり頷かれるとは思っていなかったので少しばかり驚いたが、算数の時間が始まってしまった為、は先生に注意される前に自分の席へと戻ることにした。


 分身が学校でコナンたちと接している様子を何となく共有しながらも、は昨日の気分転換として散歩をしていた。少し行きたい場所があったのだ。それは、近隣にある帝丹大学のキャンパス。の年頃の人間なら大学へ行っている人が多い、と以前安室から聞いていたはそれがどういう場所なのか気になっていたのだ。
小学校よりも遥かに難しい授業を受けられる大人用の学校である、と認識していたはどきどきしながらそのキャンパスに足を踏み入れた。
周りにはと同年代の男女がベンチに座って談話していたり、慌ただしく先生らしき人物に縋りついている様子が窺える。は初めて見る沢山の同年代の人間におおと興奮した。何と言ったって、の船には年上でおっさんに近い男たちばかりで、唯一同年代と言えるのは新米ナースたちや一つ年下のエースくらいだったから。
部外者であることが知られると拙いので、あくまでこの大学の学生であるような体で歩く。
大きな建物が沢山ある中でも、一つのビルに足を向けた。廊下を歩いてちらり、と教室を覗けばそこは小学校の何倍もある広い教室では驚いた。
「すみません、入りたいんですけど」
「あ、ごめんなさい」
どうやら授業前だったようでが扉の前に立っていたことが邪魔だったらしく、声をかけられた。咄嗟に謝って中に入ってしまったはどうしようと心中呟いた。今出て行っても、何だか変だよね。そう思ったは一先ず段上になっている席の後ろの方に座ることにした。大学の授業ってどんな感じなんだろう。
一応筆記用具とノートは持って来ていた為、それを取り出して先生が来るのを待った。人も沢山入ってきたし、がいてもきっとバレることはないだろう、と。
「すみません、隣良いですか?」
「どうぞ」
この授業は中々人気があるのか、教室の席がほとんど埋まってしまっていた。そこに、通路から聞こえる声。目線を上げれば、眼鏡をした穏やかそうな黒髪の男性が困ったように眉を下げている。は通路側の席に座っていたが隣の席が空いていたので、快く立ち上がって彼を奥に通した。
ここで声をかけられたのも何かの縁だろうと考え、は彼にこの授業は何の授業なのか訊ねてみる。
「ああ、これは般教の文化人類学ですよ。もぐりですか?」
「へぇ…まあそんなところです」
般教と言う言葉も文化人類学ももぐりも良く分からなかったが、大学生にとっては当たり前の言葉であるようなので、は曖昧に笑って頷いておいた。そうすれば彼は勉強熱心なんですね、とおかしそうに笑うからは何やら勘違いされていそうだと心中焦る。しかし、彼はもうその話は良かったのか、前を向いてしまった。
どうやら先生が来たらしい。プリントを配って授業を始めた仙人のような髭を持った彼の言葉を聞きながら、はノートに英語でメモを取った。黒板に書かれる字は日本語で写し取るがやはり速く書きたい場合は英語の方が書きやすい。
――ふうん、不思議なことを研究しているんだなぁ。
研究者の名前や功績を上げていく彼をぼんやりと見つめながらは思った。これが世間一般的な同年代の人達の暮らしなのか、と感心しながら。

 家に戻って、そのことを安室に伝えると、勝手に大学の授業に潜り込んだら駄目じゃないかと苦笑された。
「まあ、一般教養なら人も多いし大丈夫だろうけど、授業の邪魔をしないようにね」
「分かりました」
だが、彼は別に授業に潜り込んで邪魔をしなければ良いと考えているらしい。はそれに頷いた。大学に興味が湧いたのかい?と訊ねてくる彼に、少しと返す。あんな風にこの世界の人たちは知識を身に付けて行くのだなぁ、と。
だが、大学に正式に入る為にはものすごく勉強しなくてはいけないらしい。確かに、は今日の授業を聞いていても「ふーん」としか思えなかった。全く知らないことばっかりだったし。
「まずはは小学生からこの世界のことを学んでいかないとね」
「そうですね」
ふっと笑って尤もなことを言った安室に、はへらりと笑った。難しいことを勉強する前にまずは基礎を学ばないと。何しろ、はこの国の歴史さえもまだちゃんと把握していない。だけど、これからもたまにあの大学に潜り込んで授業を受けてみようかなとは思った。


37:知らないこと 知っていること
2015/07/14

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