――最悪の一日だ。
まさか、あの時蘭だけに話していた筈のことが、こんなに多数の人間に知られてしまい、こんな風に弱みを握られるなんて。沖矢と視線を合わせたくなくて窓の外を見つめた。車内の静寂が、痛い程の鼓膜に突き刺さる。
しかも、安室が犯罪者の組織に属しているなんて。思わぬ事実に、は心が重たくなる。も海賊という世間一般に見たら犯罪者の集団に属しているわけだが、それでも白ひげ海賊団は民間人を襲わないし、寧ろ多くの島を縄張りにすることで他の海賊たちから人々を守っているから、は自分が犯罪者であるという意識は薄い。だけど、コナンが言っていた黒の組織の情報はでも犯罪だと分かった。
あの、優しくていつもを守ってくれる彼が。どうしてなんだろう。流れていく景色をぼんやりと眺めているうちにが伝えた、マンションから少し離れた所に車を止める沖矢。こんな人に安室の住所を知られるわけにはいかないから。
「どこかの危険な研究施設にこの情報を洩らされたくなかったら、今日のことはあの男に黙っているように」
「――はい……」
送ってくれてありがとうございました、と言葉だけでお礼を言って車から降りようとした所、運転席からこちらを見上げた彼の言葉にの瞳は揺れた。彼はこのことを伝える為にを車に乗せたのだろうか。彼に釘を刺された通り、はこのことを自分なりに良く考えてから彼に訊いてみるつもりだった。だって、他人からの話で彼のことを決めつけたくなかったから。だけど、それをしたらの情報がどこかに流される。
安室も言っていた。の特異な体質に興味を持った者たちがをどこかに閉じ込めるかもしれない、と。それはあまりにも恐ろしい脅迫だった。断れる筈もなくは頷く。
「では」
「さようなら」
それで彼は満足したのか、車を走らせて消えていった。はぁ、と憂鬱な溜息を吐いてマンションまでの道のりを歩く。いつもたちが暮らしている部屋の窓からぼんやりとオレンジ色の光が優しくを導いてくれる。帰るのが遅くなってしまった理由を考えながら、は心の重たさからまた一つ溜息を吐いた。


 を送って帰ってきた沖矢に阿笠は新しいコーヒーを差し出した。コナンは阿笠にありがとうございますと礼を言ってソファに腰を下ろす彼を見て、「昴さん、で?」と問いかける。
コーヒーを一口飲んだ彼はコナンの顔を見て、緩く笑った。
「どうやら彼女は本当にただあの男に利用されていたようだ。コナンくんも分かっていただろう?彼女はポーカーフェイスが下手なんだから」
彼から返ってきた言葉は、コナンも想定していたこと。コナンが彼女に尋問をしている間も、沖矢が腕を手放さなかったのは彼女を逃がさないという目的に加えて、その脈拍を計ることだった。どんなにポーカーフェイスが上手い人間だって、動揺した時には僅かに鼓動が早まる。それを見逃さない為に彼は彼女の手首を掴んでいたのだ。そして彼が言うには、彼女の表情に現れる動揺と脈拍の関係は全て一致していた。
それ故、彼女の言葉は真実だと結論付けられたのだ。
「うん、だけどただ利用されていたなら被害者だろうけど、さんはバーボンに想いを寄せているから、たとえ利用されてると気付いても彼の傍にいつづけるだろうな」
しかしの言葉が真実だったとしても、彼女は彼に恋をしている。恋とは厄介なものだ。たとえ相手が悪い人間だと分かっていても盲目的に相手を思ってしまうのだから。彼女も、きっとそうだ。
「そうじゃのぉ。あんなに必死に彼のこと庇っとったし…何も知らないのは哀れじゃな…」
ぽつり、と呟いたのはこの件で全く口を挟んでこなかった阿笠。年長者として何か思う所があるのか、先程まで彼女に向けていた鋭い目付きを失くし、同情的な色が窺える。
――何も知らされず組織の人間に利用されていた彼女。
素直に見れば、彼女の状況はそういうもので。だけどコナンはそれだけで終わっていないような気がした。あの時、バーボンが言っていた大切な人の存在。それはもしかしたら彼女なのではないかという気がして。でなければ、彼女たちがあれ程お互いを信頼し合っている理由が分からない。ただ、彼女を利用しているだけだったら、彼が彼女を信頼するなんてことは無い筈。
「何を考えているんじゃ」
「いや、本当にバーボンはさんのことを利用していただけなのかな、ってな…」
いつものように顎に手を当て考えるポーズをしていたコナンに、隣に座った阿笠が怪訝な視線を向ける。その言葉に彼は僅かに目を見開いた。
「利用されているだけにしちゃぁ、やけに大切にされてるよな」
「…ああ、そうじゃな…」
コナンの言葉に頷く阿笠。それを見て彼は思考を巡らせた。あの時の、蘭の部屋に盗聴器を仕掛けた時に聞いた、彼女の「大切な人はだよ」という言葉。それは確かに彼が彼女に伝えた言葉なのだろう。そして、コナンたちがチーター宅急クール便の男たちに誘拐された時に、バーボンと共にやって来た彼女。だけど、最初に車から降りてきたのはバーボンだけで彼女は助手席に座ったままだった。まるで、あの男たちと彼女を対峙させない為のように。彼女が外的攻撃をくらわないなら、彼女を使った方が安全なのに。そして彼女がコナンたちの無事に涙を流した時には車に戻ってから彼女の頬を包み込んでその涙を拭っていた。子供たちの前でイチャついてんじゃねーぞ、とは思ったものの、目的の為に手段を選ばないあの男がどうでも良い女にそこまでするとは考えられにくい。彼が彼女に伝えたように、もしかしたら本当に彼女のことを大切に思っているのだろうか。
「最初はただ利用してやろうと思っていたが、情が湧いてしまったという感じかな」
「うん、それが一番近い気がする」
沖矢がコーヒーを飲み干してカップを置いた音と共に、彼の言葉を聞いてコナンはそれに頷いた。それが一番近い。今のところ、それについての真実は分からないけれど、バーボンは彼女のことを大切に思っている。
今はそれで良いか。彼女は彼に今日のことを話さないだろうし。
「まぁ、脅して口止めしてるから俺たちのことが伝わることはないだろ。何しろ彼女の身体はこの世界の科学では証明できねぇもんだしな。そんな人間の情報を研究施設に渡したら、すぐさまモルモットにされちまうだろうし」
「酷いことを考えるのぉ。ワシも人の事言えんじゃろうが…」
もうそろそろこの話を終わりにしようと口を開けば、横に座っている阿笠から彼女を憐れむ言葉を貰った。だが彼は沖矢に押し倒されて怯える彼女に対して何も手を差し伸べなかったからコナンと同じようなものだ。それを阿笠も分かっているから、コナンはしゃあねーだろと返す。ああでも言わなければ絶対コナンたちのことを話されていただろうから。コナンも自分で容赦ない考えだとは分かっている。組織の人間ではないのに、そんなことをされてしまう彼女が不憫だということも。だが、彼女はバーボンに一番近い人間なのだ。彼にこちらの情報を知られないようにするためにはああするしかなかった。
とにかく、今回自分たちの正体がバレるリスクを負いながらも彼女はそれに気付かず、彼女がバーボンとは関係が深くても白だったという事実が分かったのは大きな収穫だっただろう。
探偵団と遊びに行かせていた灰原もそろそろ帰ってくるだろうし、今日はこれで解散となった。


 スマートフォンの電池が切れて連絡できないまま、コナンたちと一緒に遊んでいて遅くなってしまった。そう言い訳したに、安室は納得してくれたらしい。ちゃんと充電していなきゃダメじゃないか、と言う彼に謝っては彼が座るソファに腰を下ろした。
ぐるぐると頭の中で渦巻いているのは、コナンの言葉。安室のことは信じている。だって、彼とはずっと一緒に暮らしているのだ。例え彼が何かを隠していても、それでもは彼のことを信じられるくらいに彼のことが好きだったし、彼の優しさを知っていた。
だけど、疑問は残る。どうして、どうして。
悩み過ぎて顔に出ていたのか、安室がどうしたんだい?と訊ねてくる。その瞳は、いつもと同じようにのことを包み込んでくれる優しさを抱いているのに、はその瞳を見て更に混乱した。
「安室さんは、」
――本当は私に教えられないような、悪いことをしているんですか?
そう勇気を持って訊けたらどれだけ良かっただろう。だけど、開いた口は別の言葉を紡ぐ。
「安室さんは、私の傍からいなくなりますか?」
ゆらりゆらりと揺れるの瞳に、彼女の不安を感じ取った安室は何があった?と彼女の頬を両手で包み込んで彼の方へ向かせた。自分でも、おかしな質問だとは思う。だけど、他に何と言えば良いのか分からなかった。少しの機微の変化も見逃さないと目付きを変えた彼にはふるふると首を横に振る。何もないです。ただ、突然怖くなっただけなのだと。
「いなくならないよ。僕はの味方だって、前に約束しただろ…」
安室はそれに少し納得していないようだけれど、の頬を包み込んだまま彼は彼女の瞳をじっと見つめてそう言った。僕の傍にいる限り、守るから。何も心配しなくて良い。その言葉と彼の瞳の強さに、は揺らいでいた瞳を止めて、彼を見返した。彼の温もりが手の平から伝わってくる。
安室の言う通りだ。彼はいつもの傍にいてくれた。この世界に来た時、最初にを拾ってくれたのは彼だ。誰よりもを理解して、慈しんで、守ってくれているのは、他でもない安室。
「僕を信じて、
大切な、大切な彼の言葉。はこくりと頷いた。もう先程まで感じていた不安はない。安室がそう言うなら、は彼のことを信じるだけ。例え彼がコナンの言う通り悪い組織の人間であっても、そうでなくてもは彼の隣に居続けたい。に、何も教えてくれなくても。この世界でには彼以外に帰りを待ってくれている人はいないのだから。
――安室さんの傍にいる。何があっても。そう、例えそのせいでコナンたちともう二度と笑い合えなくなっても。
そう、願うと同時に決意した。だからいつか、彼がに全てを話してくれることを待っていよう。


36:そなたのために、たとえ世界を失うことがあっても、世界のためにそなたを失いたくない
2015/07/1
タイトル:バイロン

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