突如人の気配が現れた、と安室は思った。浴室から「はっくしょん」と女のような声が聞こえる。組織の人間か、それともFBIなどの者たちか。それとも単純に泥棒か。あらゆる選択肢を提示しながらも、納戸からゴルフクラブを一つ取り出す。今回米花町にやってきた目的を果たすまでは、警察に目を付けられることは避けたかった。包丁でも良いが血を流させた場合、後始末をするのは面倒だ。しかし、ゴルフクラブで首元を狙えば血も出まい。
証拠隠滅をするのは非常に面倒だが、場合によっては吝かでもない、と考えながら足音を立てないように浴室まで歩く。ゴルフクラブを構えて勢いよく浴室の扉を開け放てば、そこにはサンダルを履いた18歳前後の女が全身水浸しの状態で立っていた。
「わ、私怪しい者じゃありません!ええと、上司の怒りを買って風呂に沈められたら排水管に吸い込まれて、気が付いたらここに…自分でもわけわかんないんですけど、危害は加えません!大丈夫です!」
その上、彼女の言っていることも訳が分からない。怪しい者ではないと言うが、怪しい者以外の何者でもない。ふざけているのか、としか思えない返答だ。ただの不審者だ。しかし、彼女からは殺意や悪意は感じられない。
“演じる”ことが得意な者は身の回りに沢山いる。もしかしたら彼女もそういった人種かもしれない。何しろ、彼女がどうして安室のマンションに気付かれずに忍び込んだのか分からないのだから。
とりあえず、このまま濡れ鼠の状態では話を聞けないと思い、武器は所持していないようだし、服の下に何かを隠せないように白いシャツとスキニーパンツを貸した。頭は依然として濡れているが、先程とは違ってまともになった女を見て、安室は尋問を始めた。
しかし、彼女の言う説明は全く理解できない。言葉が違う訳ではないが、彼女が言う海の名前などこの世界にはどこにも無いからだ。偉大なる航路も北の海やらも、そんな海は聞いたこともない。だが、嘘を吐いているような様子でもない女。
――彼女は何者だ。
精神に異常をきたしているのか。それとも、自分を欺く為に頭のおかしい人間の振りをしているのか。人の機微に敏感な安室が演じている様子を見逃す筈はないが、それ程彼女が手練れという線もある。
日本語を達者に話すような教養がありながらもパソコンを見たことがないという彼女に益々不審感が募る。髪は黒く目の色は飴色をしているが顔立ちがはっきりしていることから外国人かハーフだろうが、それにしてもパソコンがないような国にいたような人間には思えない。
世界地図を見せた後に彼女が顔面を蒼白にしたことも、安室の目には疑わしいものとして映る。
――だが、そんな彼女も精神科に連れて行くことを仄めかせば慌てて部屋から飛び出して行った。
「何だったんだ…」
余程恐怖を感じたのか、濡れた洋服をそのまま置き去りにして逃げた彼女。何か、彼女の身分を証明する物が無いか、と洗面所に置いてある服のポケットに手を入れていく。ショートパンツ、シャツのポケットを探ったが何もない。しかし、上着のポケットに固い金属製の箱が一つ入っているのを発見した。
それを取り出して、開ける。中には多少水に濡れているが、インクは滲んでいない数枚の写真が入っていた。
――家族、否仲間か?
一枚目は、金髪のリーゼントの男とパイナップルのような髪をした中年の男と黒髪の青年に挟まれた彼女がいた。二枚目は、軽く5メートルは超えていそうな巨漢の老人に、数年前と思われる幼い容姿をした彼女が抱き上げられている。数枚、同じような写真を眺めて、最後にナース服を着た女たちに囲まれている彼女の写真を目に入れた。
どの写真も、彼女は花が咲いたように笑っていた。傍目にも、愛されている様子が窺える。巨大な老人や肌が青い人間など、もしかしたらトリックかCGを使っているのだろうか、と思える者も中にはいたことで、多少安室は混乱した。
――もし、これが先程彼女が言っていた海賊の仲間だとしたら。
服装もどことなく現代のものと違う。背景は皆空と海の境界線が混じり合ったもの。そして甲板らしき床も見える。
「ほぉ…」
先程とは違って、興味が湧いてきてしまったではないか。探偵としての血が騒ぐ。彼女を捕えて、真実を確かめたいと。
取りあえず、濡れた写真を乾かすためにサイドテーブルの上に並べる。幸い、写真がくっ付いてブロックになっていなかったから、冷水を使って剥す手間は省けた。
――夕食の準備をするか。
壁にかかった時計を見れば、時刻はもう午後6時。彼女が出ていってから既に2時間経っていた。思っていたより、写真を見ている間にぼうっとしていたようだ。
冷蔵庫の中身を見て、今日はシチューにしようと献立を考えていく。しかし、どうやらシチューのルーだけが無かったようで。仕方なしに、近くのスーパーで買うか、と財布をポケットに入れて外へ出る事にした。


 はぁ、はぁ。と自分の疲れた息遣いが聞こえる。かれこれあの男の家を出てから2時間程、町を歩き回っていたは漸くその足を一時的に止めた。
歩けども、歩けども海は見えない。当たり前だ、あの男が暮らしていた建物の最上階から町を眺めて、見渡せる範囲に海などないと分かっていたのだから。それでも、は縋りたかった。若しかしたら、ずっと歩き続ければ海岸に出られるのではないか、と。そこから船を見つけて仲間たちの所に帰れるのではないかと。
だが、を襲ったのは残酷な現実。道行く人に、ここはどこの海かと訊ねても「はぁ?」といった顔をされ、偉大なる航路について訊ねても「ふざけているのか。そんな海はない」と一蹴された。
――あの人が私を騙していたわけじゃないんだ…。
漸く、その事実に気付いた。その上、あまりにも慌てていたことから大事な写真を上着に入れたまま置いてきてしまったことを思い出して、自己嫌悪に陥る。
馬鹿だ、私。ここがどこなのか分からないのに、最初に出会った人から逃げ出して、あまつさえ大事な物まで忘れてきてしまった。あの写真があれば、彼らを知っている人を見つけることができたかもしれないのに。
――だが、ここは本当に私が知っている世界なんだろうか。
ぞっと、心が冷えていく。道を走る四角い箱も、空を飛ぶ鉄の塊も、突如建物から流れ出す映像も、溢れかえっている文字もには知らないことばかり。
ずるずる、と壁を伝って地面に座り込む。もう、歩く気力が無かった。体力ではなく、心が折れてしまったのだ。その上腹まで空いてきた。
が座り込んだ所は何やら食料品を売っている店らしく、中から良い匂いが漂ってくる。その匂いのせいでぐるるる、と情けなくお腹の虫は空腹を訴える始末だ。
――誰でも良い。助けて。
思い出すのは、この訳の分からぬ世界へ来る前に騒ぎあった家族のこと。膝を抱えて俯くの鼓膜を一つの足音が揺する。
「おや、こんな所にいたんですか」
「あ、さっきの…」
聞いたことがある声に顔を上げれば、2時間前に出ていったきり見ていないあの男がを見下ろしていた。彼の手には小さなビニール袋が一つ。何かを買いに来たのだろうか。しかし、どうして彼が此処にいるのだ。は時折角を曲がりながらもずっと歩き続けていた筈。
あの建物からは遠く離れていた筈なのに、どうして彼が。そう思ったのが、顔に表れていたのか彼が小さく笑う。
「ここ、僕のマンションから10分も離れてませんよ」
「嘘!!」
驚愕に目を見開くに本当だと彼はあっちだと指す。その方向を見てみれば、確かに見覚えがあるようなないような建物がいくつかあった。
――何で、私方向音痴じゃないのに。
都会の建物の密集具合によって、田舎者にとっては分かりにくい景観となっていることに気付かないは目を白黒させることしか出来なかった。しかし、そんな悩みを吹き飛ばす程の音がの腹から鳴った。
ぐきゅるるる。空腹を訴えるその音に、また男が笑う。それにむっとしながらも、そういえば彼は見ず知らずのに服を与えてくれ、世界地図まで見せてくれたのだと思い出した。
きちんとした礼を言わずに彼から逃げ出したことに気まずさを覚えるも、彼はそんなを気にした様子を出さずに口を開く。
「夕食くらいなら出せますけど、どうします?」
「……いただきます」
お金など何も持っていないにとって、その提案は大変ありがたかった。先程と違って彼からは、どうにもけいさつや精神科医に見せるような素振りが見られないから、はその言葉に甘えることにする。
親切にも、座り込んでいるに手を差し伸べてくれた彼の手を取り立ち上がった。


お腹を鳴らして机に伏せっていたに男――安室透は自己紹介をして、それに倣って彼女も自分の名前を告げた。彼はどうやら、数か月前にこの町にやって来たらしい。通りで部屋は新居のように物が少ないと思った。サイドテーブルに並べられた写真に驚けば、濡れていた状態を乾かしてくれていたらしく、彼に感謝した。
今はおかわりをしたシチューを食べながら、安室の質問に答えている所だ。因みにシチューはとても美味しくてこのおかわりは三杯目である。
「さっきさんは能力者と言ってましたが、能力者とは何ですか?」
「悪魔の実を食べた人のことです。私はタテタテの実を食べた盾人間なんです」
どうにも安室はが異世界の海賊の娘だということを信じていない様子でありながらも、先程自己紹介の時に彼女が口にした“能力者”という言葉に興味を持ったようだった。悪魔の実について口で説明しても、田舎の者だとそのことを知らないせいで信じない者たちもいる。大体、この世界に悪魔の実があるのかさえ分からない。てっとり早く、フランスパンを切る為に置いてあったナイフを手に取る。何をする気か、と目付きを鋭くした安室に「どうぞ」とそれを差し出せば、何ですかと言いながら受け取った。
「口で説明するのも面倒なんで、私の腕にナイフを刺してみてください」
「そんなことしたら怪我するじゃないですか」
腕を差し出して、彼に刺すように促す。しかし、やはりと言うか彼はの言葉に頷かない。出会った時に凶器を此方に向けていたのは何だったんだ。思ったが、それを口には出さずに「大丈夫ですから」と言って彼を急かす。
「どうなっても知りませんよ」
「はい」
とうとう諦めたのか、はぁ…と溜息を吐きながらも安室はナイフを持った手を振り上げる。そんなに勢いを付けてはいないようだが、の腕に振り下ろされたナイフ。しかし、その刃が彼女を傷付けることはなかった。
キィン、と金属同士がぶつかり合ったような音が彼女とナイフから響く。それに安室は目を見開いた。
安室のスカした顔ばかり見ていたにとっては、面白い展開だった。彼もどうやら驚くことはあるようだ。
「どういうことですか」
「私の身体は盾なんです」
ナイフと傷一つないの腕を見比べて、眉を寄せている安室に少しばかり気分が良くなる。こうやって、と意識を集中させてと同じ姿――しかし、容姿は6歳程度である少女を自分の横に作り出す
「盾として分身を作ることも可能なんです」
「………なるほど」
まだまだ発展途上ではあるが。えへん、と胸を張った小さなに、じろじろと安室は視線を向ける。僅か数秒の間ではあったが、その間に安室の思考が高速で動いたことに気付いていない彼女はポンと音を立てて分身を消した。
消えた分身から安室に目を移せば、先程とは違い微笑んでいる。なぜ笑っているのだろうか。分からなかったが、彼をそのまま見つめていると、彼は顎に手を当てた。
「さっきまでは信じられませんでしたが、本当にあなたは別の世界から来たのかもしれませんね」
海賊が活躍していた時代はとうの昔に終わっているし、悪魔の実という不思議な物もこの世界には無い、と彼は先程までの2人の会話で出てきた相違点をまとめる。
どこか考える様子を見せながらも、そう言った彼にはほっとする。また頭のおかしい戯言を言っているのではないか、と思われなくて良かった。
――そこで、と続けられた言葉に、意識を彼に戻す。
「ギブアンドテイク、といきましょうか。僕があなたに居場所を提供する代わりに、その能力で僕を助けてほしい」
自分の能力で彼を助ける代わりに、この家に住ませてもらえる。それは良い条件だと思った。何故かは分からないが、自分の世界からこの世界に来た時に現れた場所は彼の浴室。出来るだけこの家から離れない方が元の世界に戻れる可能性は高くなりそうだ。
それにこの世界には悪魔の実は無いようだし、の能力に匹敵するような人物もそうそういない筈。外界からの攻撃は利かないものの、体内に毒を入れられたりしてしまえば死ぬだろうが、そうなる前に自慢の逃げ足の速さを活用すれば良い。
なりに色々考えて、彼の言葉に頷くことにした。
「はい、これからよろしくおねがいします」
こうして、安室との同居生活が始まるのだった。


02:化粧を知らない女の話
2015/06/13

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