初めは些細なことだった。目玉焼きには塩かソースか。たったそれだけのことだったのに、何故か2人の意見は相容れず、が塩派で安室がソース派として喧嘩が始まった。その結果は延長線を辿ったのだが、口論が激しくなるに連れてあらぬ方向にさえ飛び火する始末。暑いからか知らないけどはだらしなさ過ぎる、とかそれだったら安室さんは自信過剰すぎです、なんて売り言葉に買い言葉で応酬したわけだ。しかし、安室の頭脳はよりも遥かに優れているために、彼女は結局論破されて半泣きで家を飛び出したのである。「安室さんのガングロ!」なんて負け犬の遠吠えを象徴するような捨て台詞を吐きながら。
たった塩とソースから生まれた喧嘩の、そのくだらなさに肩を落として歩く。数か月一緒に暮らしていたが、ここまでぶつかり合ったのは初めてだった。あーあ、今頃家の扉のロックかけられてるかも。 ネチネチ、と過去のことを事細かく覚えていた彼に「あの時は、この時は」などと散々論理立てて説明されたは、安室は根に持つタイプだと思った。
ぶっすー、と不機嫌を露わにした状態で駅前に向かう。初めての電車にでも乗ってどこかに行ってしまおうと思ったのだ。
「ねぇ、あなた今良いかしら」
「え?」
ガタンゴトン、と発車していった電車を駅の外からぼうっと眺めていたら、肩に手を置かれた。振り返ると、そこには金髪の美女が微笑んでいる。いったい誰だろう、とは思ったが「あなたが最近彼と一緒に住んでいる子ね」と言われ、思考を巡らせて慄いた。“彼”と“一緒に暮らしている”という言葉を結び付けて出てくる人物は安室しかいない。もしかして、この女性は安室の恋人なのだろうか。それで共に暮らしているが浮気相手ではないか、と疑って声をかけたのかもしれない。
人の恋愛ごとに巻き込まれるのは勘弁だ。そう思って、「ひ、人違いでは…」と曖昧に笑ってその場を後にしようとしたが、彼女から背を向ける前に腕を掴まれてしまった。
「あそこのカフェで何か美味しい物を食べながら話さない?勿論私の驕りよ」
「あ、はい」
美味しい物、という言葉に反射的に頷いてしまった自分の頭をぶん殴ってやりたい、と思ったのはこれが初めてだった。
 金髪美女はシャロンと名乗った。何でも良いわよ、という彼女の言葉に甘えて――それくらいしないと、今から平手で頬を叩かれるかもしれないのに大損だと思ったからだ――特大苺パフェを頼んだ。対して彼女は砂糖も何も入れていないコーヒーを頼む。大人の女性だ。は彼女の気品ある佇まいに圧倒された。
「それで?バーボンとは一体どんな仲なの?」
その言葉に首を傾げる。バーボンとは確か酒の名前ではなかっただろうか。はそんな人と知り合ったことはない。しかし会話の流れからして、バーボンとは安室のことなのだろう。疑問に思いながらも「バーボンは知らないんですけど、安室さんのことですか?」と彼女に確かめればそうよと頷かれた。あだ名だろうか。
「安室さんとはシャロンさんが誤解しているような仲じゃないですよ」
別に浮気相手ってわけじゃないんです。と必死に弁解する。共に暮らしている従妹で、先程もくだらないことで喧嘩してきたのだ。そう己の無実を証明する。彼女のビンタを食らいたくない一心だった。痛みは感じないけれど、流石にこんな美人に叩かれたら心が傷付く。しかし、彼女は相槌を打つものの、と安室について何か言うようなことはしないようで。それを黙って彼女が聞いてくれるから、彼女は段々弁解すると言うよりは安室の愚痴になっていく。
「塩かソースかで揉めてたのに、安室さんは関係ない生活態度まで掘り出してくるんですよ。ふろーりんぐが冷たくて気持ち良かったから寝そべってたことをいつまでもグチグチ責めてくるんです」
「そう」
ぱくぱく、と苺のソースがかかっているバニラアイスを食べながら完膚なきまでに論破された憤りを彼女にぶつける。“ガングロ”なんてただの悪口を言って飛び出してきたことは、本人のコンプレックスだったらどうしようかという考えに至り少しばかり反省したが、あそこまで責めなくても良いのではないかとも思った。
「まるで恋人たちの痴話喧嘩ね」
「えっ!」
ふふ、と彼女が笑って呟いた言葉に、どきりと心臓が跳ねた。いや、そういう意味で言っていたわけでは無いのだけれど。微笑を浮かべる彼女に顔が青くなる。どうしよう、怒ってるのかな。
今更何を言っても遅い気がして、は青くなった顔で愛想笑いを浮かべながら急いでパフェを口に入れた。


 半泣き状態で家を飛び出して行ったを見て、少し言い過ぎたかもしれないと思った安室は頭を冷やす為に冷たいシャワーを浴びていた。誰でもこの蒸し暑い中では苛々するものだ。それをたまたま近くにいた彼女にぶつけてしまっただけ。
目玉焼きから普段の生活態度まで飛躍したことは、安室も驚いていた。だがこれをきっかけに床の上にぺったりと寝そべるのを止めさせようと思って、それが彼女の身体に及ぼす悪影響を一から十までこってりと説明したのだ。フローリングの床がクーラーで冷えて気持ち良いからだろうが、いくら細めに掃除機をかけているとは言っても床には目に見えない埃などが舞っている。それを吸って体調を崩されては敵わない。
多少、言い過ぎだったと今では思っているが。ザー…、とむしゃくしゃした思いを洗い流すかのようにシャワーを頭からかぶる。
――喧嘩、なんて久々にした。それも、あんなに大人気無い内容で。思い返すのは、何も言い返せずに悔しさから涙を目に溜めてこちらを睨み上げてくるの顔。
今まではお互いに譲り合って来たのが、今回だけは出来なかった。そこから分かることはいくつかあるが、最も重要なのは喧嘩する程彼女に気を許してしまっているということ。どうでも良い相手なら、怒ったりしない。ただ軽く受け流してその場で別れれば良いだけだ。
「自信過剰、か…」
彼女の言葉に苦笑する。安室がそれ程までに自分に自信を持つのは、自分が正しいからだと分かっているからだ。自分の能力に見合った自信だと思っている。
他にも探せば悪口なんて沢山出てくるだろうに、彼女の口から自信過剰とガングロしか出てこなかったということは、きっとそれしか安室の欠点にならないと思ったのだろう。流石にガングロは幼稚すぎると思ったが。
「はぁ…」
頭も冷えた所でシャワーを止めて、タオルで身体を拭いた。服を着ていく中で、洗面台に置いてあるスマートフォンが光っていることから、一通のメールが入っていることに気付く。
だろうか。思ってメールを開けばその相手は彼女ではなく、ベルモットだった。その内容に目を見開く。
『彼女と駅前のカフェにいるわよ』
たった一文であったが、それが安室に齎した衝撃は大きかった。すぐさまシャツを羽織り髪の毛も乱暴に拭いて濡れたまま貴重品を掴んで家を飛び出した。ここからなら車よりも歩きの方が早いと判断して歩道を足早に進む。ぽたぽた、と水滴が髪から滴ってシャツを濡らしているが、それどころではない。“彼女”から連想できる女など、一人しかいなかった。
――まさか接触しているなんて。
は隠し事が下手で、思っていることが素直に表情に現れる。もし、誘導尋問をされて彼女がこの世界の者ではない上、特異な体質だということに気付かれたら。組織に利用されることは間違いない。
あの時、安室を庇って肩に銃創を残した。その時、彼女が望むなら必ず助けると誓ったその言葉に嘘は無い。それと同時に言えなかった思いは“守る”ということだった。それなのに、ベルモットに接触させてしまうとは。
安室はぐっと拳を握りしめて、駅へと向かった。


 シャロン、否ベルモットの前で特大パフェを食べながらバーボンについて話していたからは、組織のことは一切知らないということが分かった。長年演技に携わってきた彼女が、こんな年端もいかない小娘の演技を見抜けぬ筈が無いからだ。それと同時に不可解なことが現れる。
――彼女は一体何者なのか。彼女はバーボンの従妹だと言ったが、それは嘘だろう。そういう設定として、彼女たちは一緒に暮らしているに違いない。ベルモットが知る限り、彼女は数か月前に突然バーボンの傍に現れた。彼を見張っていたわけでは無いが、彼の纏う空気から身近に誰かがいるのだと分かったのだ。秘密主義の彼がそういった雰囲気を出す訳が無く、ほとんど女の勘だったが、彼が今暮らしている部屋から彼女が出てきたのを見て、確信へと変わった。
そして、約一か月間彼と音信不通になったこと。不可抗力の旅行であったと彼が言ったことから、十中八九彼女が関わっているに違いない。
電波も通じぬ所にこの娘と一カ月旅行。彼の性格からして、ある目的の為にこの町に来ているのにそんなことをするとは考えられなかった。
「あの、シャロンさん…?」
「そろそろ出ましょうか」
がパフェを食べ終わってから数分。バーボンにメールを送ってから十数分。そろそろ頃合いか、と思い席を立つ。ベルモットがバーボンの恋人だと信じて疑わない彼女はちらちらとベルモットの顔色を窺っていて、それが殊更彼女の無知を表しているようでベルモットは薄く笑った。
エスコートするように、彼女の背をとんと押して出口へと誘う。カランカラン、とベルの軽やかな音を奏でた扉を通り過ぎて、向かいの交差点からやって来るバーボンの姿を発見してを止めた。そして彼女の背中に鞄を軽く押し当てる。
微かに聞こえたある音に、彼女がきょとんとしてシャロンを振り返った。それに、僅かに目を見開く。足早にやって来たバーボンのおかげで、すぐにそんな表情は消したけれど。
、何もされなかったかい?」
「え、何も…?それより安室さん髪濡れてるじゃないですか」
シャワーを浴びていたのか頭を乾かさずにやって来たバーボンを見て、ベルモットは笑みを深くした。この娘はやはり、彼にとっては何らかの特別な存在なのだろう。彼は平生のように笑みを浮かべてベルモットを眺めたが、その瞳からは微かに警戒の色が窺えた。
「では、帰りますね」
「ええ」
戸惑って歩き出さないの手を引き、連れて帰るバーボン。まだシャロンさんにパフェのお礼言ってないんですけど、と彼に抗議しているの焦った横顔が人混みに紛れて消えてから、ベルモットは地面に落ちている麻酔弾を拾い上げた。
「何も、ね……」
あの時、の背にバッグを軽く押しつけた時、ベルモットは銃口を数センチだけ出せる穴から麻酔弾を彼女の背に撃った。直前に触った彼女の背中の感触からは防弾チョッキを着けていることもなく、素肌だと分かっていた。それなのに、跳ね返された針。きょとん、と何があったのかさえ理解していない彼女の顔。
「面白い子」
普通の人間ではない、とその瞬間分かった。どういう身体をしているのか分からないが、それでもあのバーボンが手元に置いておく理由が分かった気がする。カフェから離れながら、ベルモットは自分の興味が無知な娘に向かうのを感じていた。


 どうやらベルモットを安室の恋人だと誤解していた様子のに、彼女はこの前言っていた同僚だと嘘と真実を交えながら彼女に説明する。それでは安心したと同時にシャロンは自分を騙していたのか、と少しばかり立腹した様子になった。何でも、浮気相手として疑われてビンタされるのではないかと怯えていたらしい。その馬鹿な勘違いに、安室は少し気が抜けた。
「とにかく、今後彼女とは会っても話さないですぐに離れるように」
「どうしてですか?危険なんですか?」
きょとん、と首を傾げて安室を見上げるにそうだよと彼は頷いた。同僚なのに危険なのか、と尚も不思議そうにしている彼女に、そういう人物もいるのだと諭す。海賊の癖に、やけに人を疑うことをしないな、と安室は思った。それ程安全な船の生活だったのか、それともただ単に彼女が馬鹿なだけか。
ベルモットから引き離す為に引いていた彼女の手に今更ながら気付いたが、特に問題はないのでそのまま握って歩き続けることにした。拳から伝わる彼女の熱に、彼女が自分の隣を歩いて存在していることを実感する。
――良かった。
何もされた様子がない彼女を見て、漸く安堵した。組織に連れ攫われていたらどうしようかと思った。
しかし、それと同時に尻ポケットに入れておいたスマートフォンが振動するのが分かる。嫌な予感がして、それを取り出してみればベルモットからのメールだった。
彼女の腕を引きながら、その内容を確認してどくりと心臓が跳ねた。

『彼女、何者かしら』

疑問符もなく、端的に述べられた文章にの手を無意識に握りしめた。ばっと振り返って、いない筈のベルモットの気配を探るように周囲を睨み付ける。
――が気付かない間に何をした。
ベルモットとの会話を訊いても、それ程不審に思う所は無かった。では、彼女は会話ではなく直接に何かをしたことになる。それが何なのかは知ることは出来ないことが歯がゆい。だが、彼女が何かを確信するに至ったということは、に危害を加えようとしたのだろう。そして、彼女はそれにも関わらず傷付かなかった。 確実に、ベルモットが彼女に興味を抱いたことが、このメールから読み取れた。これがどう今後に作用するかは今のところ分からない。だが、何もないわけがないだろう。
、僕から離れるな」
「?はい」
黒の組織にも、FBIにもそれこそ公安にも彼女を奪わせない。きょとん、と安室を見上げるの飴色の瞳を見つめてその思いを強くする。やはり、一人で働かせることは出来ないか。働きたいと言っていた彼女には申し訳ないが、いつベルモットや他の者たちがに接触してくるか分からない状況では、彼女の願望を叶えることは出来そうにない。
そんな思いを隠して、何も分かっていないように笑っているに安室は微笑み返した。

――危険な立場になったら元の世界へ帰れば良いのに、彼はその選択肢を頭に浮かべることができなかった。


14:「ただの、普通の女の子ですよ」
2015/06/20
――と、安室はベルモットに返信した。

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