を町一番の医者に診せて、治療してもらった後に寝台に寝かされた彼女を目に入れた所で、漸く安室は冷静さを取り戻した。その頃になれば、なぜ攻撃が効かない筈のが銃によって傷付けられたのかもある程度推測出来ていた。
あの男が海楼石と言っていたことから、それは能力者の脅威であることが分かる。海という文字が入っているのだから、何らかの技術で海の成分を入れられた銃弾だったのだろう。何しろ、能力者は海に嫌われていると彼女が言っていたから。
だが、何故彼女はそれを僕に言わなかった?僕を庇ったせいで目の前で死んでいくのかと思った。この僕が、たった一人の死に怯えて、馬鹿みたいに頭を働かせられなかった。
――虚ろな目をして肩から血を溢れさせ、何度呼んでもその声に応えない。止血する為に掴んだ彼女の肩から付着した血が己の手を染め上げて、このまま彼女の身体が冷たくなっていくのではないかと。
ぞっとした。もう、あの笑顔が見られなくなるのかと思うと、心底恐ろしくなった。
青い顔をして横たわっている彼女の手をぎゅ、と握り締めてから一体どれくらい時間が経っただろうか。もうじき夜がやって来る。夕日が最後の光を迸らせて暗くなった病室が赤く染まった。
彼女の右肩に巻かれた包帯にそっと指を這わせる。ちょうど、鎖骨下にその傷があるのだ。医師は弾は肩を貫通していたが綺麗に取り出せたと言っていた。だが、それでも間違いなく傷は残るだろう、とも。その言葉を思い出して、ぐっと眉間に皺が寄る。
――僕のせいで傷痕が…。
熱に魘され始めた様子のの額の汗を拭き取る。何か嫌な夢を見ているのかはくはく、と吐息を洩らして誰かを呼ぶ彼女。“おかあさん”、“おとうさん”。唇はたぶんそう動いていた。濡れ始めた彼女の睫毛。じわり、と浮かび上がった雫をそっと親指で拭った。
、大丈夫だよ」
彼女の両親はここにはいないけれど、安室がついている。彼女の手を握っていないもう片方の手で彼女の頭を撫でてやれば、寄せられた眉が和らぐ。
泣くほど悲しい夢なのか。の過去を知らない安室にとっては、両親を夢で呼ぶ彼女の心境は分からない。だが、嫌な夢を見ないようにずっと見守るつもりだった。
「う…」
ぼんやりと目を開く彼女。虚ろなのはきっと、まだ鎮痛剤で意識が朦朧としているからだろう。汗をかいているから水を持って来て、傷に障らないように上半身を起こして水を飲ませた。ごくごく、とコップの水を空にした彼女はまた瞳を閉じる。すうっと眠りに入った彼女をそっと横たえて、先程よりいくらか安らかになった横顔を見つめた。
「おやすみ、


カチッ、カチッ、時計の秒針が時を刻む音が聞こえた。薄らと瞳を開けば、カーテンの隙間から青白い光が入ってきている。早朝か。首を動かしてちらり、と反対側を見れば、そこには腕枕で寝ている安室の顔があった。
ぼうっとした頭で、どうしてこんなことになっているのかと思ったが、遅れて安室の顔が近くにあることに驚いた。
「!!?いっ」
「――動かないで、。大丈夫、生きてる」
しかし、驚き身体を捩ったことで右肩に鋭い痛みが走る。痛い、痛い。今まで感じたことのない痛みに、涙が溢れる。痛みに悶えるの傷がない方の肩を、目を覚ました安室が温かい手で撫でて宥めてくれた。何度も大丈夫だと繰り返す彼に、は暫くして落ち着いた。はぁ、と吐き出した吐息は思ったより熱くて。もしかしたら微熱なのかもしれない。
――漸く、こうなるに至った原因を思い出した。あの時、銃口を向けられた安室を見て咄嗟に身体が動いたのだ。ただの銃弾だと思った。しかし、想像とは違い海楼石の銃弾だったようで。だから、今こんなにも肩が痛むのだ。
傷みが落ち着いて安室を見上げれば、彼は少しばかり目の下に隈を作っていた。もしかして、一晩中看病してくれていたのだろうか。彼の少し疲れた様子に、は驚いた。だが、それ以上に気になることが一つ。
――どうしてそんなに瞳を揺らしているんですか。そう訊こうとした所に、白衣を着た初老の男が入ってきた。
「良かった、目が覚めたか。2日間寝ていたんだよ」
「2日…」
どうやら一晩だと思っていたが、それ以上に寝続けていたようだった。温くなった氷枕を新しい物と代えられて、ひんやりした心地に安心する。銃に撃たれてその後手術をしたが、それから目が覚めるまでに2日かかったのだ、と彼が言った。
「脈拍も血圧も正常値だ。傷口も化膿した様子はない」
「そうですか…」
医師であろう彼の言葉にほっとする。それなら、じきに動けるようになるだろう。ちらり、と安室に視線を向ければ何故か彼の表情は暗い。
「ただ、可哀想だけど少し痕が残ってしまうだろうね…」
その言葉に、安室の瞳に陰りが差す。ああ、それで。先程から浮かない様子の安室に合点がいって瞳を閉じる。暫く入院して安静にしていれば大丈夫だよ。そう言って出て行った彼。そっと目を開けて安室を見上げれば、じっと真顔でこちらを見つめてくる。
別に安室さんのせいじゃないのに。私が勝手に動いてしまっただけだ。
「傷位どうってことないですよ」
「――“くらい”?っ僕を守ろうとしてお前が血を流した時の僕の気持ちが分かるか!?」
寝台に上半身を乗り出した安室がどんと枕元に腕を突き、目を見開いてを見下ろす。慰めようとしてかけた言葉は、逆に彼の琴線に触れてしまったようだった。
常より少し乱暴な口調になった彼が、それにはっとして一度瞑目する。感情を荒げたことを悔いているようだった。
まさか、彼がここまで怒ってくれるとは思ってもみなかった。吃驚するが、それと同時に胸の奥が暖かくなる。
嬉しいなぁ、安室さんに怪我が無くて良かった。せっかくが庇ったのに、彼に怪我があったら意味が無い。
怒られているから、彼の無事を安心してしまったことを隠すけど。バレたらまた怒られそうだし。
「どうして、能力者に弱点があることを教えてくれなかったんだい?」
「ごめんなさい、忘れてたんです」
咎めるようにを見る彼の瞳に、は彼の世界に来てしまった時のことを思い出した。最初は、ただ単に弱点を教えるのが嫌だったから言わなかった。悪魔の実は無くとも海楼石と同じ成分をした物があるかもしれないから、と。だけど彼と共に暮らしていくうちに安全なことが当たり前になってしまっていた。それ故、能力者にも弱点があるのだと言うことを忘れていた。そのせいで、彼に今回こんなにも心配をかけさせてしまったわけだが。
眉を寄せて、触れるか触れないかの加減で包帯を巻かれた肩を指先で撫でる安室。くすぐったい、とは思ったが彼の沈痛な面持ちに肩から腕、手首、手へと彼の指が辿るのを黙って享受した。
「海賊なんだから、傷つくことは当たり前ですよ」
「でも、君は女性だ。嫁の貰い手が無くなるじゃないか」
海賊は一般人とは違って戦いの中に身を投じている。が戦ったのは今回が初めてだったが、それは言わないでおいた。海賊は傷を負っても気にしない。寧ろ身体に傷があることを誇る者たちも少なくない。女性の海賊はそうではないだろうけれど。
それに、彼が心配している嫁の貰い手などは別に気にしない。顔に傷ができたわけではないのだし、その傷を含めて愛してくれる男を見つければ良いだけだ。大体、結婚しないという手だってある。そう彼に伝えれば、彼は漸く小さく笑った。
「見つからなかったら、僕の所においで」
少しばかりいつもの様子に戻った彼に、よろしくお願いしますと笑う。きっとそんな日は来ないだろうけれど、彼のその言葉は嬉しかった。彼もそれは分かっている筈だ。だって、と安室は住む世界が違う。今回はお互いに相手の世界を行き来してしまったけれど自分の世界を捨てられるわけがないし、2人の関係はそんな甘いものではない。
「――が望むなら、僕は絶対に助けに行くよ」
しかし、朝日に照らされた彼の微笑みに、心臓が一つ歪に跳ねた。その言葉は、じわじわと胸に優しい温もりを広げていく。何故か、は分からなかった。だが、今はその笑みを瞳に焼き付けたい。
それを知っているのは、と壁際で受話器が外れたまま目を開いていた黒い電伝虫だけだった。


 が銃で撃たれたという報告を彼女が世話になっている家の夫から貰った白ひげは、彼女が入院している病室に黒電伝虫(盗聴器)を置いておけと医師に指示していた。あの可愛い一人娘と共にいる男の本音を聞きたいと思っていたからだ。
大事な一人娘が一か月前に突然姿を消し、一カ月経ったこの前、突然連絡をしてきた時には驚いたものだ。彼女の話では別の世界に行ってそこで生きていたと言うのだから。どうやら、その世界で世話になった男を誤って連れてきてしまったらしく、今はラシャドー島で共に同じ家で世話になっているようだ。
直前まで聞こえていた2人の会話に笑みを浮かべて、黒電伝虫の受話器を置いた。それに対して、忌々しそうに眉を寄せているのは彼女の上司でもあり保護者でもあるマルコだ。
「あの娘は、もしかしたらもう巣立っちまうかもしれねェなァ」
「オヤジ、俺は許さねェよい。そんなどこの馬の骨とも知れねェ奴に…」
電伝虫で聞いていた彼らの会話。それは恋人たちが醸し出す甘い雰囲気など無かった。だが、2人ともお互いのことを大切に思っているのは確かだ。友情だろうが、家族愛だろうが、異性としての愛だろうが、あの娘が新たな成長の一歩を踏み出すことは悪くない。何より、海賊の癖に戦うことや死ぬことを恐れて、今まで戦うということをしてこなかった彼女が、誰かを守る為に動いたのは大きな成長だ。それに寂しさを覚えるものの、白ひげが一番に望んでいることは子どもたちが良い方向へ育っていくことだった。
マルコは一番近くで彼女を見守ってきていたから、まだまだ受け入れ難いようだが。どうせ、に守られた挙句彼女に傷を負わせたことが気に入らないのだろう。グララララ、と息子の嫉妬心を笑えば、彼は「笑い事じゃねぇよい」と怒り出した。
次の新月にあちらの世界に行ってしまっても、白ひげはいつでもあの娘が帰って来れる家を用意しておくつもりだし、あの男と共にこの世界に留まるなら2人とも受け入れるつもりだった。愛する娘が幸せなら、どちらでも良い。


 一週間以上経って、は退院した。その頃にはもう自由に腕を回せるようにもなって、以前と変わらぬ生活が出来るようになっていた。入院している間はディライラやジャコブ、安室が献身的に世話をしてくれ、また町の者たちも何度か彼女を見舞いに来てくれた。
「先生、お世話になりました」
「ああ、無事完治して良かったよ」
病院の玄関まで見送りに来てくれた医師に頭を下げる。彼のおかげで傷痕は最小限に収まっていたのだ。彼の腕の良さが無ければ、きっともっと酷い痕が残っていたに違いない。彼はそんなを見て口ひげを揺らして朗らかに笑っている。お、と彼が声を上げの背後に目を向けたことによっては振り返った。
「さっき退院するって連絡が来て驚いたんだけど」
「ごめんなさい、大丈夫そうだからもう良いかなって」
急いで来たのかはぁ、と大きく息を吐く安室。そんな彼に微笑んで、言い訳をした。何日も病室で安静にしていることが退屈だったのだ。まあ良いけどね、と頷いた彼に歩み寄る。
「先生、ありがとうございました」
「ああ、気を付けてな」
再度彼に礼を言って手を振る。横では安室が小さくお辞儀していた。にこにこと笑ってくれている医師に手を振りながら、は安室と共に帰路に着いた。
――新月まで、あと10日。


11:僕たちを結びつけるもの
2015/06/19
一部、高尾滋作『マダム・プティ』をパロディ。

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