モビー・ディック号の甲板にて、白ひげといつも通り何ら変わらぬ日常を話していた所に、鋭い殺気を感じた。やばい。バレた。は背後から迫りくる怒気に身を震わせる。同じくそれに気付いて「また何かしたのか」と笑う白ひげに急遽挨拶をして、逃げようと足をそれから離れるように動かすが、それを逃してもらえるわけもなくがしっと思い切り肩を掴まれた。
「よお、。お前俺に何か言うことあるだろい?」
「ひっ」
ギギギ…と油が切れた機械のような音を出しながら首を回し背後へと振り返れば、そこにはの上司である1番隊隊長のマルコが額に青筋を立てて彼女を見下ろしていた。
彼の怒気に当てられて思い出すのは昨夜のこと。
――そう、昨夜は4番隊隊長のサッチに誘われて、は彼と共にマルコの高価な秘蔵酒を隠れて飲んだのだ。は酒に弱くものの数杯でダウンしてしまったが、サッチはそんな彼女を見ながら楽しそうにその酒を飲んでいた。
それがバレたのだ。マルコの怒りは尤もである。しかし、は「サッチ隊長の方が飲んでました!!」と叫び、火事場の馬鹿力で彼の手から逃れて走り出した。
――捕まったら拳骨だけじゃすまない!!
待てよい!と独特の語尾を荒げながら、追いかけてくるマルコにはひええと情けない悲鳴を上げる。ドタバタと人を縫うように逃げるに、周りの男達は気を付けろと叫んだり、またマルコ隊長を怒らせたのか、と笑った。当の本人はマルコの怒りが怖くて――それなら最初から彼の酒を飲まなければ良かったのだが――それどころではないのだが。チラチラと、男達の間から見える特徴的な頭を振り返り確認しつつ、どこに逃げ込めば彼が入ってこれないか、とこれまでにない程頭を回転させた。
――ええとマルコ隊長が入って来れない所は。私の部屋、駄目壊される!サッチ隊長は無理。オヤジの部屋…は入る前に捕まりそう。じゃあ…。
「サッチ隊長が誘ったんです!私、断れなくて!!」
「結局は共犯者だろうがよい!まずお前をシバいてからサッチをシバく!」
「あわわわわ」
ついに彼の拳骨を食らうことは決定してしまったようで、何が何でもは逃げたいと思った。漸く目の前にやって来た女風呂の扉を勢いよく開けて中に駆け込む。ここならマルコ隊長も入って来られないに違いない。そう思って油断していたが、今の時刻はまだ午後4時。ナースたちが風呂に入るにはまだ早い時間帯だ。実際誰一人としてこの場にいない。それを見越していたのだろう、バンッと勢い良く開けられた扉には顔面蒼白になった。
「マママママルコ隊長ここ女風呂ですよ!?」
「そうだねい、でも今は誰もいないようだからねい」
ギラギラと怒りに眼を光らせている彼に、ずさささと後ずさる。逃げ場など無いに等しく、彼との距離を取る為に湯気が上がる浴室にまで入っていく。
何を言われても止まる気はない彼はがしっとの胴体を掴んで、ある程度湯が溜まっている浴槽へと投げ込んだ。バシャアンと激しい水音が響く。
――あっ、お湯、拙い。
能力者であるにとって水は身体の力を奪うもの。ぐっしょりと濡れた洋服が身体に張り付いて気持ち悪いと思う間も無くマルコがその頭に覇気を込めたゲンコツを落した。
「いっだ!!!!マルコ隊長ごめんなさい許して!」
「あれは中々手に入らない酒なんだよい。それをお前たちは…」
力が抜けて湯に浸かった状態のの頬を掴みギリギリと捻り上げるマルコ。通常であったら能力のおかげで痛みを感じることがないも、彼の覇気の前では無防備でその痛覚を甘受するしかない。ほっぺ千切れる!!
痛い痛いと涙を流すがそれでも彼は止めてくれるわけでもなく。せめてこのお湯だけでもなくなれば、と手探りで浴槽の栓を探して、それを引き抜いた。
「ひぇっ!?」
!?」
――しかしその瞬間、何故か身体が水の流れと共に排水管に吸い込まれていく感覚がした。にゅるり、とマルコの手から解き放たれたは訳が分からないまま、お湯に流されて吸い込まれる。
空気を吸いこむ間もなく排水管に吸い込まれていったは意識を手放した。


「ゲホッ、ゴホッ」
自分の噎せた声によって、意識を取り戻した。はっとして、周囲を見渡せば白を基調とした個人の浴室だと思われる浴槽には浸かっていた。
――何、ここはどこ。
さっきまでいたモビー・ディック号の浴室とは全く異なる様子に、頭が真っ白になる。だが、身体は正直で、冷たい水が張ってある浴槽に身を沈めている彼女は、はっくしょんと大きな嚔をしてしまった。
「とりあえず、出よ」
ふらつきながらも、赤くなっている頬を擦りながら浴室を出る。ビシャ…と洋服やサンダルから溢れる水が気持ち悪いが、仕方ない。ぎゅ、と服を絞っている所に人の気配が近付いてきた。あ、家主いたんだ。どうしよう!
咄嗟に隠れようかと思ったが如何せん隠れる所などどこにもなく。
「動かないでください、警察を呼びますよ」
バンッと扉を開けて現れたのは、何やら金属製の棒を持った褐色の肌をした青年だった。
ま、拙い。私不審者だって思われている。とにかくけいさつが何だか分からないが、呼ばれたら不味いことは確かだ。誤解を解こうとは慌てて口を開いた。
「わ、私怪しい者じゃありません!ええと、上司の怒りを買って風呂に沈められたら排水管に吸い込まれて、気が付いたらここに…自分でも訳分かんないんですけど、危害は加えません!大丈夫です!」
こうなるに至った経緯を彼に伝えるけれど、彼は疑惑の目を弱めることなくを見ている。例えこの先端に楕円型の鉄球が付いた棒で殴られてもはタテタテの実を食べた盾人間なので死ぬことはないが、それでもこの訳の分からない状態を打破するためには、目の前の人の協力が得られないのは良くないと気付いていた。
だからこそ両手を上げて敵意が無いことを示しているのだが、彼はまだ彼女のことを睨んでいる。
「すみま――っくしゅ!は、へっくち!」
「……上着を脱いで、ポケットを裏返して武器が無いことが確認できたら僕の洋服を貸してあげましょう」
しかし、立て続けに嚔をしたを見て、彼の警戒心は些か和らいだようだった。その上、洋服を貸してくれるという厚待遇には鼻を啜りながらもありがとうございますと礼を述べた。
彼の言う通り、武器を所持していないことを示した彼女は彼からシャツとスキニーパンツを借りた。流石に下着は無いので、仕方なく水気を限りなく無くした状態にしてもう一度身に着けたが、先程よりは遥かにマシになっている。
――良い人で良かった…。
サイズが男性用なので、どうしても腕まくりをしたり裾を折り返したりする必要があったが、にとっては感謝の気持ちしかなかった。リビングにいる彼に促されて椅子に座ると、温かい紅茶を出される。水に浸かった身としてはありがたく、彼女はそれに礼を言って口を付けた。
「で、あなたはさっきのことを本気で言っているんですか?」
「ほ、本気です。私、偉大なる航路にいたんですけど、ここはどこですか?分かったら出ていきます」
紅茶を一口飲んでほうと息を吐いたに、青年はテーブルに頬杖をついた状態で訊ねる。そりゃ、いきなり自分の家の浴室に見知らぬ者が現れたら危険人物と思われても仕方がないことくらい、少しアホだと自覚しているでも分かっていた。
それ故、あまりここに長時間滞在することは避けようと世界地図を見たいと頼む。それに怪訝な眼差しを向けながらも頷いた彼は、の行動に気を付けている様子でありながらも、何やら四角い板のような物を弄り始めた。暗かった板がいきなり光を灯したことに驚き、それに近付く。
「何ですか、これ?」
「パソコンですよ。見たことないんですか?」
当たり前のようにパソコンだと言った彼に、見たことがないと頷く。何だこれは、初めて見る。次々に変わる画面に目を白黒させつつ、彼が表示してくれた世界地図を見て言葉を失った。
これが今僕たちがいる日本、という国です。画面の中央にある小さな島国を指差した彼。それを目を見開いて見つめることしか出来ない。
地図と言えば直筆で書かれた紙。そして全ての航路が載っている訳ではない、というのがの常識だった。しかし、彼はそれを容易く覆す。紙ではないパソコンという物に映る世界地図。
これが世界地図なのか、と呟けばこれに載っていない国など無いに等しいと返された。宇宙から衛星で世界を見渡していますからね。彼の言葉はにとってはチンプンカンプンだ。ぽかん、としているを放って、彼がその地図をどんどん拡大していく。
「そして、ここが現在地の米花町です」
「………」
おかしい。何ここ。偉大なる航路でも、東西南北の海のどれでもない。今までに見たことがない大陸の形ばかりだ。は頭が真っ白になって、ふらふらと彼から離れる。
それに、怪訝な目をした彼にはっと気づき、震える唇を開いた。
「あなた、私のことからかってるんですか?偉大なる航路も、それ以前の北の海も他の海も無いなんておかしいです」
ぐっと、胸を押さえて動悸を落ち着けようとしているに冷静な目を向ける青年は、からかっていませんよと無情にも言い放つ。変な人ですね。あなた、ご職業は?と訊ねる彼に、素直に海賊であることを打ち明けることにした。
「…海賊です。今は大海賊時代だから別におかしくないですよね?それに、私一般人に危害を加えるなんてことはしませんし」
「海賊?あなたみたいな普通の女性が?」
どくどく五月蠅い心臓を落ち着かせるために生唾を飲み込んで事実を伝えれば、彼はそんなことは信じられないとばかりに首を傾げる。その上、「やはり、病院で検査してもらった方が良いかもしれませんね」と一人呟く様子を見て、冷静でいられる程は経験を積んでいなかった。
精神障害があると思われ病院に連れて行かれるか、そのままけいさつとやらに身柄を拘束されるかもしれない。その先はいったいどうなるのだろうか。海賊だと主張するは頭がおかしい人間としてずっと病院に閉じ込められたり、けいさつから海軍に引き渡されるかもしれない。そう思ったら、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。だっと駆けて玄関へと向かう。
「私!頭おかしくないですから!大丈夫です、ありがとうございました!」
濡れたままのサンダルを履いて、扉を乱暴に開けて飛び出す。そのまま廊下を駆けて階段を下りようかと思ったけれど、それよりも前に海がどの方角にあるかを確かめるべく、階段を駆け上がった。
早く、皆の所に帰らないと。焦る気持ちで10、と書かれた階までノンストップで駆け上がって、肩で息をする。
「海、海はどっち…」
梯子を上って建物の最上階にまで到達した。風に煽られて視界を邪魔する髪をぐいと耳にかけてぐるり、と見渡せば、そこは灰色の街並みが視界を埋め尽くす。
――何で、どうして海が見えないの。
何度周囲を見渡しても灰色の建物や一軒家がずらずらと並んでいる景色しか見えない。嘘だ、何ここ。
だっと階段を駆け下りて最下階まで行く。扉を開けて、外に出て、更に唖然とした。道行く四角い箱が高速で走っているし、赤青黄色を順番に発する背の高い金属。
「何、何なの、ここは…いったいどこなの」
の絶望の呟きは車のクラクションに掻き消されていった。


01:境界線を飛び越えて
2015/06/12

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