コンコンと扉がノックされる。ぼんやりとした意識に来訪を知らせる音が大きく響き、はっと目を見開く。窓際で太陽の光を浴びながら、生け花をしていたは持っていた百合の花をそっと机の上に戻した。
「紅炎様がいらっしゃいました」
「はい。お通しして」
立ち上がり、上座から退き膝をつく。静かに入って来た紅炎は無表情ではあったが、を映す瞳には平生のような鋭さがない。拳を合わせるに、彼は立ち上がるように促した。既に女官は持ち場へと戻っていてここにはいない。二人きりのしんとした部屋に、彼の声が響いた。
「あなたをお迎えに上がりました、妃殿下」
「紅炎様――…もう、その呼び方はおやめください…」
拳を合わせてを呼ぶその声。彼女はぐっと胸を締め付けられた。彼がに拳を合わせる必要などどこにもない。眉を寄せて、微かに震える彼女。泣きたい、そんな気持ちを抑えつけていた。それでも彼は拳を合わせ、愚直なまでにを見つめる。その目は、彼女の夫を見上げる時の彼の瞳とよく似ていた。
彼女の夫――練白雄が亡くなってから1年目の朝のこと。

あなたの居ない朝を数える


 婚儀から数日後に夫を亡くしたにとっては幸か不幸か、子を成していなかったという理由から、玉艶の後ろ盾もあり、皇帝に故第一皇子の后として禁城で暮らすことが認められた。今まで第一皇子の后ということで重んじられてきた彼女だったが、紅徳が皇帝となってからは細々と後宮で過ごす他なかった。
手のひらを返したように冷たく扱う者も、腫れものを扱うような者も中にはいたが、紅炎は白雄が亡くなってからも、に良くしてくれた。必ず数日に一回は屋敷に訪れてぽつぽつと話してくれる彼。それが、自責の念からであると彼女は気付いていた。それでも、紅炎との繋がりを断ち切ることはできなかった。彼の言葉が、振る舞いが、白雄の影を少しでも感じさせてくれるから。
 目の前で拳を合わせる彼の手を、恐る恐る解く。彼は今や第一皇子の身となり、などに到底拳を合わせて良い立場ではないから。本来なら、逆の立場なのに。
「紅炎様、もう私のことを妃殿下と呼ぶのはおよしになってください…」
「俺にとってあなたは、いつまでも白雄殿下の后なのです」
妃殿下。そう呼ばれる度に胸が苦しくなる。忘れたいわけではない。いつまでも彼のことを覚えていたい。彼の妻であったと、周りから認められたい。そう思うと、どうしても悲しみと、彼との思い出が溢れ出し、涙が滲むのだ。
「御身はもう、第一皇子という尊い存在なのですから、どうか…」
「――では、二人きりの時だけ。その時だけは、昔のように…ただ紅炎と呼んでください」
薄い壁を作って突き放そうとするのに、彼はそれに優しく触れてとかしてくる。俯きがちだった彼女がはっとして彼を見上げれば、が持っているどの宝石よりも美しい黄金の瞳が彼女を見つめていた。様、と呼んだ彼に、太古の記憶が鮮明に蘇る。
――ただ、将来の夫となる白雄と共に笑い、紅炎が時折話に興じ、すぐ側では白蓮と紅明が象棋で勝負していた、そんな昔の記憶。
ぐっと眉を寄せて微笑む。
「ずるいお方……紅炎殿」
そんな風に言われたら、もう退けられない。あの頃の眩いばかりで、幸せだった記憶を思い起こすなと言う方が無理だった。愛しい記憶を忘れたくない。
静かに頷いた彼女に、紅炎は「行きましょう」と手を差し伸べる。その手は白雄の手より微かに小さかったが、無骨で武人らしい、頼りがいのある手だった。

 差し伸べた自分の手に、そっと乗せられた小さく細い手。微かに触れる彼女の熱に、紅炎はあの輝かしい過去を思い起こした。
――そう、初めはただの幼稚な憧憬だった。
 笛と弦楽器の音が聞こえる。日々の鍛錬を終え、湯浴みを済ませた後のことであった。紅炎の向かう先には皇帝たちが住まう本殿がある。何か催し物でも行っているのか、と角を曲がりちらりと庭先を覗いてみると、そこでは一人の少女が音色に合わせて舞を踊っていた。
静と動を併せ持ち、扇子を動かすその舞はとても神秘的なものに見えた。風に煽られる金の髪、扇子の隙間から見える、海を思わせるコバルトブルーの瞳。煌という小国家や東の地では見ることのない色彩を持つ少女。彼女だけが、まるで御伽噺の中の存在だった。
だが彼女の姿を見た瞬間に、その者が誰なのかということは、彼にはすぐに理解できた。
「(家の姫君、様…)」
二代程昔にレームの政界から姿を消した、有力貴族の末裔。噂では同じ地位の貴族にあらぬ罪を着せられ、亡命にまで至ったとか。現在は煌でお家を再興させ、娘を第一皇子の許嫁にもして政界でも名を上げている家。
余所者のくせに、と悪質な陰口を叩く者もいる中、それでも家は容姿の違いも文化の壁も乗り越えて煌に尽くしている。
それに紅炎は悪く思わなかった。そっと見やる彼女はまさにお家再興の証。将来の第一皇子妃になるに相応しい容姿をしている。両耳の上で飾られている花の装飾品がキラキラと光に反射して、紅炎の瞳を刺す。凛、とした振る舞いで踊る彼女は髪と瞳の色が分からなければ、煌の娘と何ら変わらぬ姿をしていた。名前も、レームのようなものではなく、煌の字を使ったものだ。
「誰です、そこにいるのは」
だが、突然ぴたりと止まった彼女の身体。それに合わせて音色も嫌な余韻を残して止まる。それに、紅炎は目を見開いた。どこにいるかまでは分からないのだろう、動こうとはしないが、誰かが見ているということは感じているらしい。
「姿を現せ」
「殿下、非礼をお許しください」
鞘から剣を抜く音と共に、紅炎が仕える男の声が玲瓏と響く。考える間もなく、拳を合わせその場に膝をつけば、「紅炎か」と安堵した彼の声が。周囲には彼だけではなく、彼の弟妹たちも揃っていた。
「こんな所でどうしたんだ?」
「書庫へ向かう途中、音色に誘われまして…」
上からかけられる優しい響きをした白雄の声に、そっと顔を上げる。ああ、と微笑む彼は後ろに控えている少女へと振り返る。そうすれば、彼女は微笑んで拳を合わせた。
「俺の許嫁だ。名前だけなら紅炎も知っているんじゃないか?」
「はい、存じ上げています」
立ち上がり、を見やれば思いの他若い外見をしていた。先ほどまでの大人びた表情が消えたからだろうか、年相応な顔は紅炎と同年にすら思える。
家のにございます、紅炎様」
「お初にお目にかかります、妃殿下」
「まあ」
互いに挨拶をする際に、数秒見つめ合った。初めて見る、青い瞳。白雄たちも青みがかった黒目をしているが、これほどまでに青い瞳ではない。同じように、彼女もまた自身の瞳を見ていることに彼は気付いた。黄金の瞳もまた、彼女にとっては珍しかったのかもしれない。
妃殿下、という言葉に対して目を丸くした彼女と「気が早いな」と朗らかに笑った白雄。それでも、彼女は嬉しそうに笑った。ふんわりと花が咲いたように笑む彼女に、瞳が吸い寄せられる。そんな彼女を見て、眦を柔らかくする白雄にも、また。二人の仲睦まじい様子に、周りの景色がぼんやりと輪郭が無くなる。ただ、紅炎の瞳に、彼らの姿が眩く映った。
――このお二方をお守りせねば。紅炎の胸の内には新たな思いが生まれた。白雄だけではない、彼女もまた将来、煌という国を大きくする存在であった。
「おい、紅炎も一緒にどうだ?」
お姉さまの舞は素晴らしいのですよ」
ことを静観していた白蓮と白瑛も一旦話がついたことでこちらへと声をかける。彼らからの誘いに紅炎は恐縮したが、窺った白雄が「良いだろう?」とに確認し、彼女もまた快く頷いたことから彼も白雄たちと共に彼女の舞を見ることにした。
 一度は途切れた音色が再びこの場を満たす。その中で、彼女は煌の伝統的な舞を静かに踊る。誇らしげに彼女を見やる白雄に、楽し気な白蓮、うっとりとした様子の白瑛。そんな彼らの隣で、紅炎もまた、を眺めた。この国では到底見ることができない金の髪が宙に舞う様子を。真剣な瞳が時折陽の光に照らされて緑や淡い水色になる様を、飽きることなく見つめていた。
――ああ、このお二方はきっと、絵に描いたような素晴らしい夫婦になる筈だ。
その時の彼はそう信じて疑わなかった。切に、願っていたのだ。

 ガタガタと馬車に揺られる中、隣で静かに窓の外を眺める紅炎。はそっと横目で彼を見やったが、無表情の彼が何を考えているのかは分からなかった。
これから数か月、紅炎と共に国中を視察しに行く彼女。それはただの名目であった。彼女が共に視察に参りたいと玉艶に頼み込んだ時点で、彼女は白雄の残した物を確認したいだけだと気付いていただろう。そして、実際にそうだった。
ただ、彼女は白徳大帝と共に白雄が作ったこの国を見て、彼の影を追いかけたいだけなのだ。
「――……」
白雄様。言葉にすることはなくとも、その名が喉元までせり上がる。呼びたくて仕方がない。呼ばれたくて仕方がない。そっと再び紅炎に目を向ければ、眉を寄せて瞑目している。ああ。無性に彼女は嘆息したくなった。

――青い人たちを失って、その影に囚われているのは、きっと私だけじゃない。彼も、きっと、

あなたの居ない朝を数える


2016/12/02
titled by moss

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