親愛なるあなたの泣き顔

 どの国でも大抵の皇族や貴族は子どもを自分の手で育てずに乳母役に預ける。それとはまた別に子どもと同年代の世話係という者に子どもの相手にさせる風習もあった。煌という東の小国家の貴族階級に生を受けたは彼女が10歳になった折に、その風習通り花嫁修業の一環として皇太弟紅徳の第一子、5歳の紅炎に世話係として仕えることになったのだった。

 はぁ、はぁと慌ただしい息遣いと共にたたたと駆ける音が、の鼓膜を揺らした。紅徳から与えられた部屋の中央部分に置いてある腰掛けに腰を下ろし卓上にある古筝を奏でていた彼女であったが、その手を止める。そっと扉の外の気配を窺えば「殿下!お待ちを!」と従者の男たちの焦る声が。
!稽古を終えたぞ」
トントンと素早く扉を叩き、の返事も待たずに開けられた扉からは、輝く赤い髪を風に煽られてぴょこぴょこと跳ねさせ、走ったことから頬を上気させた紅炎が。「殿下、女人の部屋に入る時は返事を待たねば!」そう黒惇の慌てる声が扉の外から聞こえる中で、彼女は喜んで紅炎を招き入れ礼をした。外で待機している黒惇に「いつものことでございます」と微笑みながら。彼女は自分よりも年下の皇子が可愛くて仕方がなかったのだ。
「今日はいつもより帝王学を進められたんだ」
「流石は紅炎様でございます!は紅炎様のお稽古が終るのを待ちわびておりました」
少し鋭利でありながらもキラキラと輝く彼の瞳が彼女を見上げる。ぽすんと先程まで彼女が座っていた腰掛けに腰を下ろした彼が「古筝を弾いていたのか」と目の前にあるそれを指差す。はいと頷いた彼女に「の古筝は好きなんだ。聞かせてくれ」と小さな笑みを見せる紅炎。
「本当に紅炎様は古筝が好きですね」
「ああ。お前の細い指がいっぱい動いているのが面白いのだ」
紅炎の隣に腰を下ろした彼女はこくりと頷く彼に声を上げて笑った。音色が好きではなくて、指が動いている様が好きなのか。何がおかしいのだと不思議そうに首を傾げる紅炎にはまだ「ふふふ」と笑い声が出てしまうのを抑える。
「そこはお世辞でも“音色が素晴らしいからだ”と仰らないと女性は怒りますよ」
「まだの音色は宮廷楽団には劣るからな。俺は本当のことを言ったんだ」
紅炎の世話係として女性に対する礼儀作法も身に着けさせなければならない彼女は、優しく紅炎に諭す。実際のところ彼女は紅炎がどんな理由であれ彼女の古筝を好きだと言った時点で嬉しかったのだが、他の女性であれば指がどうたら、と言われてしまえば少し機嫌を悪くすることもあるだろう。
皇子としてそこは避けねば、と思った故の行動であったが、彼はふんと自信満々な様子での古筝を評価した。それに彼女はむっとして唇を尖らせる。5歳である紅炎よりも年上であると言ってもまだまだ彼女も子ども、自尊心を少しばかり傷付けられた様子であったが、本当のことであったので「精進します」と頷く。
「早く」
「はいはい、分かりました。皇子はせっかちでいらっしゃる」
の膝に頭を乗せて横たわった紅炎を見下ろして彼女は微笑んだ。彼はこうして彼女の膝枕をしてもらいながら古筝を聞くというのが好きだったから。そしてまた彼女もこうして彼が姉のように接して甘えてくれるのが幸せで。少し弾きにくい体勢ではあるが、それを気にせず彼女は指で弦を弾いた。
それは以前吟遊詩人が宮中の広間で珍しく演奏した曲。も紅炎の背後で聞かせてもらった曲は、貴族の男が異国の娘に心を奪われ恋わずらうものだ。切なさや甘さ、そして恋愛に対する幸福感を演奏する彼女のことを紅炎はじっと見つめ聴いていた。
――あら。
ちらりとが古筝から紅炎に視線をやったところ、彼は微睡んでいた。先程まで勉学に励んでいたのだから幼いその身には疲労が溜まっていたのかもしれない。そっと演奏を終了させた彼女は眠そうに瞬きを繰り返している彼の頭を撫でた。
「午睡しましょうか」
「ああ」
体温の高い紅炎の頭が膝の上にあるだけでにも眠気が襲ってくる。小さく頷いた彼は「の膝も好きだ」と寝言のように呟いて眠りについた。それにふにゃりと笑った彼女もまた数分後に夢の中に落ちていった。


 そして月日は経ち、10年弱。は18歳、紅炎は13歳となった。この頃になれば紅炎は白徳帝や太子らと共に戦争へと赴くようになってしまい、は彼が呉や凱との戦争へ向かう度に無事に帰ってきて欲しいと思う。それを気にかけた紅炎が、戦の度に帰国する際の道で彼女のために花を摘んで帰ってきてくれた。それは彼がまだ花を摘む余裕があったという証であった。
、帰った」
「紅炎様!おかえりなさいませ。ご無事で何より…」
今回も凱との戦に赴いていた紅炎が帰って来た。此度の戦は苦しいと聞いていたことから、彼が大きな怪我も無い様子で帰って来たことにはほっと胸を撫で下ろした。しかしぽつんと覇気なくのもとにやってきた彼はぐっと彼女の腰に手を回し額を肩にぐりぐりと擦りつける。
もうと同じ背の高さになった彼の身体を支え、背を撫でる彼女。昔から、紅炎は何かを心に溜め込んでいる時にはこうしていた。よく知っている彼の癖に、彼女はどうされたのですと問いかける。
「俺は、白雄殿下をお守りすることもできなかった…」
そこで漸く彼女は、彼から花をもらっていないことに気が付いた。今回の凱との戦ではそれ程余裕がなかったのだろう。そんな中、彼が凱の兵士たちに囲まれながらもこうして大きな怪我もなく帰って来れたのは奇跡だと思った。しかし、太子である白雄は左腕に大きな傷を負ったらしい。
床で安静にしている白雄のもとに見舞った彼は、それを自分の失態と捕え責任を感じているのだろう。
「まあ、ですけど話ではお倒れになった白雄様をお守りしたと聞いておりますよ。私は紅炎様がこうしてご無事に帰って来てくださり嬉しいです」
未だにの肩に額を押し当て顔を上げてくれない彼。こうして彼が弱い部分を見せてくれるのはいつもであった。従者たちにも弟たちにも上に立つ者として彼は気を張り、白雄たちに対しては忠誠を誓う立場として役に立てる者であろうと精進しつづけている。
それゆえ彼女はずっと昔から決めていたのだ、周りが何と言おうが彼女だけは紅炎にとって安息の地となれる存在であろうと。長年彼に仕えるうちに、彼女は彼に対しておこがましくも弟のように愛しさを感じていた。そんな彼に厳しい言葉をかけることなど出来ないし、したくない。
――紅炎、本当は血筋に重いとか軽いとかないんだよ。
自責の念に駆られる紅炎にそう言ってくれた白雄。その言葉は今後皇帝となられる方にしては優しすぎる。だが、家族を想う心の強さが伝わるそれに、は心を打たれた。白雄にとっても紅炎は大切な存在であり、自分の命と同じように大切なのだと。ただ、今は白雄が彼に教えてくれた“秘密”を感情豊かで激情に走りやすい彼にもゆっくりで良いから分かってもらえれば、と彼女は思った。
「お優しい白雄殿下…。紅炎様にも、殿下の言葉の意味が分かる時が来ますよ」
「殿下もお前も言っている意味が分からん」
俺より白雄様の方が尊い命なのに。そう肩口で不満を漏らす彼に、そんな悲しいことを仰らないでと頭を撫でながら囁いた。
「殿下が死んだら、私も後を追います」
「…それは困る」
「だって、私にとってはあなた様のお命が一番尊いんですもの。他の者だってそうです」
顔は見えなくても、彼女が静かに語る言葉に、腰に回っていた彼の手がぐぐぐと圧力を加えてきて、彼が自分の中でこの感情と折り合いをつけている様子が窺えた。
大丈夫、今はまだ幼くて理解できないかもしれないけれど、白雄と同じように優しく清らかな心を持つ彼のことだ、きっと白雄の言葉を理解できる時が来る。


 いつの間にか春は二度過ぎていった。
呉や凱との戦が無い時には紅炎と共に中庭に咲き誇る桜を眺めたけれど、その美しい景色の中に佇む彼はいつの間にか身体がしっかりしていて少年から青年へと成長しつつあった。
頭一つ分よりも背が高くなった彼を見上げて、彼女はほうと息を吐く。
「いつの間にか皇子に背を抜かれてしまいましたね。昔はこーんなに可愛らしかったのに」
「当たり前だろう、男なのだからお前より低いなど…考えるだけで絶望する」
昔の紅炎の愛らしさを思い出して手でどれくらいの身長であったかと示す彼女。にこにこと笑っている彼女に、紅炎はふんと鼻を鳴らして笑った。いつまでもお前の背を抜けないことほど、体裁の悪いことはないなと。その言葉に彼女はそれもそうだと納得する。
もともと幼少の砌より彼は将来美丈夫になるだろうと確信していた彼女であったが、こうして背も高くなり身体もしっかりし、瞳は以前よりもさらに鋭く細くなったが威厳と知性を併せ持った輝きを放ち、すっと筋が通った綺麗な鼻、そして何より昔はぽこぽこと柔らかかった頬から無駄な肉が落ち、精悍な顔立ちとなっている彼に心を奪われぬ女子は中々にいないだろうと我がことのように誇らしくなる。
「ですが、今でも私にとっては紅炎様は愛らしい方ですよ」
「お前よりも背が高く情の見えぬ顔の男が愛らしいのか」
にっこりと下から彼を見上げれば、途端に彼は意味が分からないと言うように微かに眉間に皺を寄せた。それに、彼女はええと頷く。もう何年も彼の傍で彼を見てきたというのに今更彼の表情から情の変化が分からぬような観察はしていない。
「紅炎様はご自分が思っていらっしゃるよりも表情豊かでいらっしゃいます。紅炎様の瞳程雄弁に語る瞳を私は知りません」
「そうか」
彼女の慈顔を見下ろした彼は静かに頷く。確かに昔と比べたら本当に彼の表面上は落ち着いてしまったが、それでも彼女は彼の感情の機微を察することは出来る。そんな彼女からしてみれば、彼は感情も表情も豊かだ。歴史を研究する時は途端に情熱を目に宿すし、白雄たちを見上げる時には敬愛の念が籠っている。目は口ほどに言うとはよく言ったものだ。
ひらりと落ちる桜の花びらを手に取った彼は、それを手で弄ぶ。その顔を見上げて、彼女は小さく笑った。
――今は眠気と戦っているお顔だわ。


2016/02/16
タイトル:fynch
手ブロネタ。大好きな皇子を甘やかしたい世話係の話。

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