炎が蝕む。赤い炎が、あの人を蝕むのだ。あの人を蝕んだあの赤い炎を、この人が身にまとう。酷い、ことだと思う。だけど、この人は何も悪くない。悪くないのに、今でも自責の念に囚われている。
この人が悪いというなら、あの時その場にいたのに何も出来なかった私の方が余程、害悪だった。
つい先日から暮らし始めた棟が轟々とした炎に飲み込まれる様を、ぱちぱちと火が爆ぜて空気を熱く撫でる様を、焦げた匂いがそこら中に充満する様を見たは、ただその瞳にその炎が焼き付いて離れなかった。
――今でも、目を閉じると瞼の裏にあの炎が爆ぜる。

ぼくの孤独がきみだった


 夜、は一人寝所で巻物を読み耽っていた。既に夕餉も食べ終えた所で、あとは最近夫になった白雄をまつだけだ。りんりんりん、と鈴虫が鳴く声が外から聞こえるのがまた雅であったが、少しばかり彼女は緊張していた。
なぜなら、白雄が帰ってきたら私の所に来るようにと玉艶から昼間のうちに約束をしていたから。今ではなく、夜ではないといけない理由を聞きたかったが、彼女は義理の母でもあり煌帝国で一等尊い女性。そんな彼女に疑問を発することができる筈もなく、また幼い頃からまるで自分の母のように接してきてくれた彼女に不信感など何も抱いていないは、「白雄が寝所にあなたがいなかったら驚くでしょうから」という言葉を聞いて、単純にも頷いてしまった。
しかし、どうにも最近白雄は玉艶に対して少しばかりぎこちない、と彼女は思う。一月前に白徳帝が敗残兵に命を奪われてからというもの、彼は今度は自分が一手にこの国を導くことになると自覚している為だろうか、と一緒にいても表情険しい時があった。
今はまだ第一皇太子という身であるが、実質この国の頂点として彼は今国にかかわるすべての業務を担っている。既に皇帝になっているようなものであった。そして、紅炎が第二の迷宮攻略から帰還し次第、彼は皇帝となる。
巻物を読んでいるのに、次第に頭の中はその内容よりも、白雄のことを考えてしまう。それもそうだ、まだ結婚初夜から数日しか経っていないのだから。この国の愁いを晴らすように行われた盛大な婚儀。民を不安にさせない為に予定より早く彼らは婚儀を迎えた。それでも、と彼女は巻物から目を離して宙を見やる。
――どうして白雄様は私と契りを結ばなかったのでしょう…。
ぼんやりとそんなことを考えてしまうのだ。寝台に腰かけて物思いに沈むのは、今に始まったことではない。乳母からは婚儀の日程が早まった時から、夜伽のことについて教え込まれた。初めてで右も左も分からぬ生娘に勉学のごとく教え込む彼女に、は羞恥心を覚えながらもそれは義務なのだと理解できた。
男性に自分の裸体を見せるのは恥ずかしい。もしも、自分の裸体を見て、白雄ががっかりしたらと思うと胸がぎゅっと苦しくなる。そんな悩み事を抱えているを、彼は感じ取っているのかいないのか、未だに一線を越えない。
それでも、父王を失った悲しみを、どうにかして和らげ、支えになりたいと思うのだ。傲慢かもしれないけれど、一時だけでも良い、彼にそれを忘れてもらいたかった。
「なぜいつも口づけだけなのでしょう…」
「お前が大事で大事で、どうすれば良いか分からないからだよ」
「は、白雄様!」
つい、口からぽろりと零れた言葉に応える声。その持ち主は彼女の愛しい夫であった。ふふ、と笑いながら寝所に入って来た彼に、途端に彼女は顔を赤くして、今の言葉を聞かれてしまったのかと慌てる。今の彼の顔に、影は感じられなかった。顔を隠したいのに先に礼をした彼女を腕に閉じ込める彼のせいで、彼女は更に顔を赤くして小さな悲鳴を上げる。
耳元でくつくつと笑う彼に、彼女は今にも心臓が壊れそうであった。
「ほら、抱擁しただけではこんなに心臓を酷使させているから、これ以上のことをしてしまえばお前の心臓が壊れやしないかって心配なんだよ」
「は、白雄様は意地悪です」
ぴったりと身体が密着した状態では彼の顔を見ることもままならない。その為彼女は素直に彼の胸元に頬を寄せて目を閉じる。確かに彼女の心臓はばくばくとまるで太鼓のように大きな音を立てているのに、白雄の胸からは一定の速度の心音しか聞こえない。
――私のことをからかうなんて、意地悪。昔はそんな方ではなかったのに…。
ついつい唇が尖りかけた彼女だったが、額に優しく口づけを落とす彼に心臓が飛び跳ね目を見開く。
「は、くゆうさま!私、お母様に呼ばれているのです」
「――母上に?」
頬へとまた口づけをする際に、見つめてくるその瞳に益々心臓はうるさく木霊し、頬だけではなく首までも熱くなる。だが、言わなければならないことを伝えれば、彼は途端に顔を離し、微かに表情を曇らせた。
――ああ、やっぱり…。
いつもはにこやかにの話を聞いてくれる彼だというのに、彼女の話をする時だけこうして微かに目を鋭くさせる。それに、心が少し沈む。
「どうして?」
「おなごだけの内緒話がしたいと仰っていました」
声音は優しいのに、目が笑っていない白雄に、玉艶から伝えられた言葉をそのまま伝える。女子だけ、と言うのだからきっと彼女は白徳にも言えないようなことを自分に話してくれるのではないか、と多少期待していただったが、白雄の言葉にもしかしたら今日は行けないのかもしれないと思った。
本当なら夜伽をするような時間帯に夫の母のもとへ向かうなど、市井の者はしないだろうし、乳母が聞いたら「まあ!何てことを…」と呆れるだろう。
「妬けるな…」
抱きしめる力をぎゅっと強くした彼の声は少しばかり固い。やはり、行けないのか。そう思ったが、そっと離された身体に彼女はきょとんと彼を見上げる。
「遅くならないうちに帰っておいで。それまで俺も起きているから」
「白雄様…!ありがとうございます」
仕方ない、というように微笑んだ彼に、は自分の表情が途端に明るくなるのが分かった。忙しい彼が唯一ゆっくりできる時間に、自分がいないことを申し訳なく思いながらも、義母と仲良く内緒話をしてもらえるなんてことが嬉しくて、相反する気持ちが心の中で鬩ぎ合う。
「では、もう一つ」
油断していたの唇に落とされた口づけは、の頭の中を真っ白にするには十分すぎる威力を持っていた。気を付けて行っておいで。そう言われるがまま、従者を付けられて彼女は赤い顔のままぼんやりと玉艶の棟へと向かった。

安らぎを与えるというハーブティーを飲みながら、玉艶と二人で談笑する。談笑と言うよりは、まだ白徳が生きていた過去を懐古しているようだった。
「そうしたら、陛下は何と仰ったと思いますか?」
「――分かりませんわ、お義母様」
「そうよねぇ…」
女官たちもいないのに声を潜めて、それでいて懐かしそうに話す玉艶に、は眦を柔らかくした。内緒話をするように小声で教えてくれた内容に、目を見開き玉艶を見やる。そうすれば、彼女も信じられないでしょう、と言うように微笑んだ。
まさか、そんなことを、あの白徳帝が言うなんて、と良い意味で驚いた彼女は違う話題になった所でまたもや玉艶に驚かされる。
「白雄はあなたのことが大事で仕方がないようね…。この調子だと、子が生まれるのもそう遠くなさそうで安心です」
実の母にまで嫉妬するようだから、と笑う彼女には何と言えばよいのか迷うが、未だに彼には口づけまでしかされていない。夜伽など、夢のまた夢のようであった。その原因はにあるのだろうが、彼がゆっくり進めていきたいと言うのであれば、彼女はそれに従うつもりだし、その言葉に多少安心した気もする。それでも、それは国にとっては致命傷であろう。彼女は正直なことを玉艶に言った。
「実は、まだ一度も…」
夜伽を命じられていないのです、その言葉は続けられなかったが、玉艶はそれで気付いたようだった。まぁ、と声を上げた彼女だったが、を安堵させるように微笑む。
「焦らなくても、白雄はのことがとても好きなようだから大丈夫ですよ。子などその延長線上のものなのだから」
「お義母様……」
敬愛する義母の言葉に、はじんと胸に温かいものが溢れるのを感じた。少しばかり不安になっていた気持ちがその言葉でとかされ、自分に自信を持てば良いのだと思えるようになって。
その後も、は玉艶と会話に花を咲かせていた。女官が淹れてくれた三度目の茶も冷え、そろそろ帰らねばと玉艶に声をかけようという所で、何かが焦げるような臭いが鼻を突く。
「お義母様…何か、変な香りが…」
「あら、本当…何でしょう…?」
徐々に際立つその匂いに玉艶が腰を上げた所だった。外から「玉艶様!様!」と叫ぶ女官たちの悲鳴が響く。何事かと思えば、顔を青ざめさせた女官たちが揃って「火事でございます!」と金切り声を上げる。その火はどこから出たのか分からないが、恐ろしい程に早く屋敷を燃やし始めているという。
「急いで逃げましょう、
「は、はい。白雄様たちは…!」
さっと顔色を変えて腰を上げた玉艶に、も頷き扉へと向かうが、頭に過ったのは部屋で待つと言っていた白雄やその付近に棟がある白蓮と白龍の顔。今すぐに知らせに行かねば、と思うに対してしかし玉艶は首を横に振った。
「あの子たちは私たちよりも足が速いのだから、私たちは先に白瑛を連れ出し、外へ行かねば心配されるでしょう」
「――そう、ですね…」
ここよりも奥まった場所にいる白雄たちは自分たちで逃げられるでしょう、という結論に至った彼女は外で待機していた玉艶付きの武官たち全てに声をかける。
「私たちのことは良いから、白雄たちの所へ行きなさい!」
「御意!」
一度礼をした彼らは目付きを鋭くさせ、白雄たちの棟の方へと走っていった。彼らの俊敏な動きには少しばかり安堵したが、彼らの足でも白雄の棟に着くのは暫くかかるだろう。
私たちも行きましょう、と険しい顔をした玉艶に頷き彼女は白瑛の棟へと駆けた。
 母上!兄上!遠くから聞こえる、幼い姫の切迫した声に、は白瑛様!と応えた。
「白瑛!ああ、良かった。どこにも怪我がないようね」
「母上…、お姉様…!ああ、良かった…」
彼女の声に最後の力を振り絞った玉艶が、家族を探して彷徨っている彼女を見つけ、その胸に閉じ込めた。傍で彼女を守っていた幼い李青瞬は玉艶とが来たことで安堵したのか目が潤んでいる。しかし、他の武官たちが此処にいても危険だからと、先を急かした。
すぐ後ろで、轟々と火の手が上がっているのが見える。パチパチ、と爆ぜながら肌を舐るように魔の手を伸ばしてくるオレンジ色の炎。まるで悪夢のようであった。
数日前から暮らし始めたが、それでも此処には暮らし始める前から何度も訪れていた。白雄に会い心を通わせた思い出、玉艶と午後の時間を過ごした穏やかな日々、彼の兄弟たちに歓迎されたことも、彼女にとっての大切な思い出が音を立てて燃えていく。
――あの棟は、初めて紅炎様とお会いしたところ。あの傍の池の橋で、よく白雄様と一緒に鯉に餌を与えた。
ああ、ああ。視界に入る愛しいものたちが、炎に飲み込まれ、煙を上げ、木の焼ける臭いを放つ。
「泣くのはおよしなさい、。私たちはいかなる時でも、動揺を民に見せてはならないのですよ」
「はい、お母様……」
悲しい。そう思ったら、知らぬ間に涙が頬を伝っていた。優しく窘めた玉艶の目にも涙が盛り上がっていたが、それでも彼女はただ前だけを見て、安全な所を目指している。よりも長い間禁城にいる彼女のことだ、以上に深い悲しみに落とされている筈なのに、それでも気丈に振る舞っていた。
 漸く屋敷の外へと出て来られたたちは、安堵の溜息を吐いて辺りを見渡す。だが、そこには白雄たちの姿がない。
「そこの者、白雄様たちは…?」
阿鼻叫喚の中、それでも懸命に火を消そうと試みる者たち。その中の一人を捕まえたは、彼の口からまだいらっしゃらない、という言葉を聞いて一瞬頭の中が真っ白になった。
「それはどういうことです!お母様の武官たちだって向かっていったというのに」
「――火事の中何かがあったのかもしれませぬ。今、私の部下たちも屋敷の中に入っていきました」
ただの火事、と見せかけて謀略ではないのか。それを仄めかしたのは、玉艶を見つけて駆け寄って来た一人の老将軍。それに気付いた彼女は一度収まりかけた動悸が再び騒がしくなるのが分かった。
――もしも、この火事が白雄様たちを暗殺する為に放たれた火だったら…。
ぞっと心が冷えた。彼らがたちよりも先に避難できる筈だったのに、それでも未だ炎の中にいる理由。向かって行った玉艶の部下たちも、その敵に足止めをされて彼らを外に連れ出せていないのかもしれない。
「ご安心なさいませ、この椀敏めが必ずやお三方をお連れしましょう。老躯であっても未だ部下たちには負けませぬ」
「――お、お待ちなさい」
皺だらけで恐ろしい風貌でありながらも、安堵させるように微笑んだ彼。その言葉に、は目を見開いた。既に屋敷は炎で覆われていて、とても人が入れる状態ではない。今から突入するなど、死にに行くのと同じである。
それでも、彼が水をかぶり残りの部下たちと共に炎の中に飛び込んでいくのを、彼女は止めることが出来なかった。彼らの目に、ただ白雄たちの尊い命をお守りする、という信念は宿っても、怯えの心が無かったから。

 ああ、それでもとうとう椀敏とその部下たちは白雄たちを連れてこなかった。兄上、白龍。不安を露わにした声で彼らを呼んだ白瑛。その直後、一部の柱が支え切れなくなった屋根が崩れ落ちる。ドシャァ、と轟く音、巻き散る火の粉。
白蓮様、と叫んだのは数人の文官たちに身体を押さえつけられている紅明。兄がいない今、私が行くしかないと言って炎の中に飛び込もうとした彼の身体を、彼らはずっと押さえつけていた。彼の顔が絶望で歪む。
もう駄目だと思った。たった数日前に夫となった白雄、そしてその兄弟とはもう会えないのだと、絶望に打ちひしがれた時だった。の身体は崩れ落ちた。周囲の者たちが口々にその身を案じる中、彼女の耳には何も届かなかった。ただ、彼らの足の隙間から、小さなものがこちらに向かって駆けてくるのが目に入る。
まるで瞳孔が開いたようだった。まだ誰もそれには気付いていない。だが、あれは紛れもなく、白龍であった。
「はくりゅうさま」
様!?」
力を失った筈の身体にもう一度力が漲る。ただ、彼だけを見て走るに、最初は気が触れた皇太子妃をお止めせよ、と男たちがその背を負う。だが、火の粉が飛び交う中を駆けるその小さな体躯に向かって一直線で向かう彼女に気付いた者たちが、皇子だ!!と声を上げた。
「白龍様、白龍様!!」
を見て安堵から張りつめていた糸が切れたのか、どしゃりと彼の身体は地面へと倒れる。血だらけで走って来た彼の顔は酷い火傷で覆われていた。誰かに切り付けられたのであれば、あんな風に懸命に走れまい。その憶測から、彼女は、この血は彼を生かす為に誰かが流したのだと気付いた。はすぐさま彼を抱きかかえた。
「白龍様……!!白雄様は?白蓮様は…?」
どうして一緒ではないのです。そう気を失った彼に問いかける。ぼろぼろと彼の顔に落ちる多量の涙。すぐさまやって来た医官たちによって白龍は丁重に抱えられる。もまた、ここにいては危ないと、すぐさま他の者たちによって避難させられた。
腕を引かれる中、彼女は背後の屋敷を振り返った。轟々と音を立てて燃え盛る我が家。まだ、我が家なんて思う程長く暮らしていなかった。それでも、大切な記憶があり、これから自分の家になっていくのだと思っていたそこが、音を立てて火に舐られている様子を見ると涙が止まらなかった。
あの中に、まだ白雄と白蓮がいる。白龍だけが逃げ延びて来たということは、彼らは白龍を逃がす為に自分たちの命を投げ出したのだろう。
――あの人たちは、白龍様を生かすために亡くなったのだ。
ただ、涙が流れる。きっと、あの血は白雄か白蓮のものだろうと心のどこかで思っていた。
「白雄様……、白雄様……」
――私の夫。私の片割れ。この国の未来の皇帝。
立ち尽くして、屋敷を眺める。隣で玉艶と白瑛が何か言った気がした。だけど、何も聞こえない。彼女の五感は全て、目の前の炎へと奪われていた。充満する焦げ臭さ、轟々と屋敷を燃やす音、肌を刺す熱、炎の橙色の輝き。ああ、悪夢のようだ。
――………悪夢よ。
ただただ、は立ち尽くした。

翌朝、漸く鎮火した棟。燻ぶった黒煙が空高く昇っていく。今まで感じていなかった肌寒さを漸く感じた彼女はぶるりと身体を震わせた。隣に立つ陽栄が肩に温かな布をかけてくれる。ありがとう、と言うべきだった。けれど、空っぽの心ではそんな感謝の言葉を紡ぐことが出来ない。
周囲の者たちが瓦礫の中から、どうにかして皇子二人の遺体を探すべく尽力している中、の世界は音もなく、色も薄くなっていた。だが、耳に届く風を切る音。鋭い音のそれは、徐々にこちらに近づいてくる。あれは、と陽栄が声を上げた。
は、その声に誘われて空を見上げる。初めは、黒い炎が飛んできているのかと思った。だが、違う。あれは人ならざる者の姿をした紅炎であった。幼い姿であったが険しい顔で、黒い炎のような髪と尾を風に煽らせて、こちらに一直線に向かってくる。
「酷い――……、紅炎殿…なぜ」
様…?」
迷宮へと遠征していた彼がこの火事に間に合う訳がないと分かっていた。だから、それはもう責められないし、その場にいなかった彼を責めるのはとても残酷なことだと分かっていた。だけど、だけど。
――どうしてあの人を殺した炎を身にまとっているの。
を見つけ、その目の前に飛び降りた彼。瞬時に、平生の彼へと姿を変える。どういう仕組みでそんなことが出来るのか分からない。ただ、彼女は青ざめた顔で、彼を見上げた。
「妃殿下、白雄殿下たちは……」
一瞬口を開くことを躊躇った様子の彼が、意を決した様子で言葉を紡ぐ。両者にとって、残酷な質問であった。の脳裏にあの炎が蘇る。到底口にすることは出来なかった。今でもまだ信じられないのだ、彼らが亡くなったことなど。昨夜交わしたあの言葉が、最後の会話だったなどと、信じたくなかった。
だが、彼はが虚ろな瞳で見上げていることで、その事実に気付いたようだった。震える拳を握り締めて、彼が激高を耐えているのが分かった。
「…間に合わず、申し訳ございません」
「――お止めになって、紅炎殿」
周囲に多くの者たちがいる中、膝をついた彼のやらんとしたことが分かって、慌てて止める。皇子である彼が、簡単に額づいて良い筈がなかった。だが、それ程までに彼が自分を責めているのだと、気づく。
――酷いのは、私の方だ。
こんなに紅炎が自分を責めているというのに、彼が身にまとう炎に勝手に絶望して、彼を責めるなんて。は、膝を付いて拳を合わせている彼と同じ目線になるように腰を屈めて、恐る恐る肩に手を置いた。
「白龍皇子は生きております。酷い火傷を負って、今は医官たちによって治療を受けておりますが…」
だから、もうそんなに自分を責めないで。とまでは言葉を紡げなかった。ただ、彼に涙を見せれば、今度こそ彼は自責の念から何をするか分からない、と思った彼女は立ち上がってくるりと背を向ける。だが、震える肩に彼は気付いたかもしれない。
「非礼をお許しください」
彼の顔も見ずに、背を向けた彼女は足早にその場を去った。ただただ、この頬に流れる涙を紅炎に見せてはならぬと、白雄に囁かれたような気がしたから。

 それからの日々は、ただ抜け殻のように過ごした。白龍の見舞いに行く以外は、新しく与えられた住居から出ずに、ただぼんやりと一日を徒に過ごす。以前はあんなに好きだった管弦を奏でることも、舞踏も、生け花も
何も出来ない。
窓の外を眺めていたら、小鳥が囀りながら青空を自由に飛んでいる。
、そんなに目を開けていると干からびてしまうよ」
「まあ、白雄様ったら」
そんな言葉が聞こえたような気がして、ぱっと振り返ってみてもそこには彼はいない。ただ、空虚な空間が広がるだけだった。
 数か月、そのようにして過ごした。しかし、紅徳が次期皇帝に決まったという報せを聞いた時には、全身が震え陽栄に叫んでいた。
「なぜ、白龍様ではないのです!もとは白雄様が皇太子であられたのだから、彼が――」
様…!どうか落ち着きくださいませ…」
カッと頭に上った血は、「彼が亡くなったのだから」という言葉を頭に浮かべた所で、急激に落ちていく。ついにはぐらりと傾いた身体に、彼は慌てて彼女を支え椅子に座らせた。
「おかわいそうな白龍様…何とお労しい……」
顔を手で覆って、今もなお目覚めることのない白龍に眉を寄せる。本来であれば白龍が次期皇帝となってもおかしくはない。だが、今幼帝を出してしまえば国が混乱することは分かり切っていた。苦肉の策だったのだろう。紅徳が皇帝として選ばれるのも無理はない。
 それが分かってはいても、城から大勢の民に皇帝として手を振る紅徳を見ているのは、酷くこの国の軌道を捻じ曲げられているような気がしてならなかった。そして、正式に皇太子として立っている紅炎を見て、は漸く白雄が本当に死んだのだと理解した。
――なぜ私はあの時、白雄様のもとに行かなかったのでしょう。
共に生きて二人が老齢となるまで、穏やかとは言えなくとも暮らして良ければそれでよかった。それが無理なら、あの時、あの場で共に死ぬべきであった。
玉艶が紅徳の皇后として子どもたちの身を守るのだ、と白瑛と白龍に諭す様をぼんやりと眺める。
――白雄様……。
瞑目すれば、世界は暗転する。

 ただ、あの人とだけ添い遂げたい。そう思っていたのに、は紅徳に蹂躙された。
病室でぱちり、とは目を覚ます。確か、毒を飲んで自害を図った筈だったのにと思った彼女はそれが途中で何者かによって妨げられたのだと理解した。
すぐさまが起きたことを察知してやって来た女官と医官たち。身体の具合を聞かれ、無事であったことを喜ぶ彼らに、は何と言って良いのか分からなかった。
「紅炎様が様の異変にお気づきになったのですよ」
「あの時、閣下が来てくださらなかったらどうなっていたか」
口々にそう言う彼らに、彼女はああと納得した。もう既に彼は戦争から帰還していたのか。陽栄は大丈夫だろうか。あの人は、苛烈な部分があるから。なんて、自分の胸の中にある確信から目を逸らす。
「酷い、紅炎殿………」
だけど、それ以上無視することは出来なかった。なぜ、生かしたのだろう。彼は陽栄に渡した文を見たはずだ。簡潔ではあれどの心境を綴ったその文を読めば、彼だってそのまま逝かせてくれただろうに。
――本当に、酷い人。死にたいと分かっているのに、それでもこの地獄を生きろと言うのだから。
ぴちち、と外で小鳥が囀る。そこにノックの音が響いた。虚ろな瞳を扉へ向ければ、そこには紅炎がいた。途端、今までの彼との思い出と、紅徳に夜伽を命じられた時のことが頭の中に巡って目頭が熱くなった。
「酷いお方…、紅炎殿」
様」
頬を伝った涙に、彼はただ彼女を見つめるだけだ。
――紅炎殿は覚えているかしら。
がまだこの禁城に来るようになって間もない頃、他の貴族の姫君たちに心無い言葉を投げられ、薄暗い荒れ果てた屋敷で一人泣いていたことを。あの時のは、ただただ悲しかった。
だが、そこにやって来た紅炎に、拙い言葉で励まされて白雄の所まで行くことが出来た。
は、紅炎に対してしっかりと家族の情を感じていた。とても大事なのだ。白雄には敵わなくとも、その兄弟と同じくらいには大切であった。それ故、大事にしたいという気持ちと相反するように、酷いと思うのだ。
「俺があなたの生きる理由になります」
はっと、その声に意識が夢うつつな状態から覚める。その言葉はまるで、今もなおの心の中にある「死にたい」という気持ちを見透かしているようで。しかし、見つめた彼の瞳には思い出した。彼もまた、と同じように家族を失ったのだと。俺ではあなたの生きる理由にはなり得ませんかと訊ねる彼の残酷なこと。
――私には、まだかけがえのない人たちが、沢山いるわ。
涙が次から次へと溢れる。今までそんなことを忘れて、ただ生きて来たのだと彼が思い出させた。責めるでもなく、励ますでもなく、ただ請うた彼。
「俺があなたを守る。だから、もう泣かないでください。――あなたは、美しい」
「――紅、炎殿……っ!」
寝台の横に立った彼に外から差し込んだ光が燦々と降り注ぐ。その言葉に、声に胸が震えた。あの時、を救ったその言葉をまた、彼が与えてくれた。
夫以外の者に身体を蹂躙され、生きる意味を失いかけた彼女を掬い上げるその言葉。真っ直ぐに突き刺さるその黄金の瞳は、の黒く汚れた心を浄化するように浸透していく。
――生きていて良いのでしょうか。
そう思った彼女に、白雄に相応しいと紡ぐ彼の唇。彼の全てが、を受け入れてくれている。その言葉に、は心を縛り付けていた鎖が、ぼろぼろと錆びて崩れていくのを感じた。彼がの生を願う。彼が、が唯一愛した人を見上げる時のようにを見つめるのなら、生きたいと思った。強く生きねばならないと分かった。
「愚かな私を許してください、紅炎殿」
「良いのです。俺はあなたの忠実な友であり、家族なのだから」
だから、もう誰も失いたくない。彼がそう口にしたわけではないが、には彼の唇がそう動いたように見えた。残酷な仕打ちを行ったを許すと言う彼に、は瞑目する。
世界はそれでも暗転しない。今はただ、目を閉じていても眩い光が入って来る。

2017/04/11
◇あとがき◇
わたさん。お待たせしました!未亡人シリーズで、白雄さんとの思い出になります。原作の進み方を少し弄りましたが、納得できる内容になっていれば幸いです。このシリーズ割と鬱仕様なので、幸せだった時もあったんだよ、ということを表現できていたら嬉しいです。

inserted by FC2 system