たった一つの、俺の桎梏

 紅炎がまた戦争へ向かうらしい。最近では宮中にいることの方が少なくなってしまった彼。第一皇子として国を守り、導き、大きくしていこうとする姿に、は何も言えなかった。姿を遠くからしか見ることは出来なくても、言葉で表されなくても、彼が白徳大帝と白雄の志を受けとめ、そして彼らの代わりではなく自分の意志でこの世界を一つにせんとしているのが分かった。その背中から、滲み出る決意に心が震えることが何度あったことか。
 紅炎が西方での戦争に向かう一週間前のことであった。その日はたまたまは屋敷から出て、中庭で季節の花々を眺めていた。椅子に座って従者が淹れたお茶を飲みながら、ほうと息を吐く。この中庭には、必要最低限の人しか入れないようにしている為、大勢よりも孤独を好む彼女にとっては落ち着くひと時であった。
小鳥のさえずり、花の蜜の香り、時々飛んでくる蝶や小さな羽虫が立てる羽音。それらに微睡みかけていた折、ざっと足音が聞こえた。はっとして立ち上がり、目に入った人物に拳を合わせる。
様」
「紅炎殿…」
拳を合わせる彼は、少し見ないうちにまた身長が伸びているようだった。遠目からでは分からなかったが、もうきっと白雄の背を超えているだろう。
それもそうだろう、彼はもう二十歳なのだから。紅炎と静かに話しながら彼女は思った。細く鋭い瞳も、生き生きと咲き乱れる椿のように赤い髪も、声だって、その性格も全てが白雄と同じ訳ではないのに。それでも彼女は、何故か彼を白雄と重ねてしまう。
血筋でも容姿でも、年々白雄に似てきている白龍の方が、白雄と重ねやすいだろうに、彼よりも紅炎の方が何故か白雄に似ていると思ってしまうのだ。
「あと一週間で俺はまた帝都を発ちます」
「どうか、お怪我をされませんよう…」
思わず「寂しくなります」と口に出そうになった彼女だったが、それを心の内に留めて、彼の身を案じる。人ひとり分開けて立ち、池の鯉を眺めていた彼にはきっとそんな心の声は聞こえない筈だった。
「また、明日も来ます」
それなのに、を見やった彼の言葉。思わず目を見開く。見つめる彼の瞳はいつも通り、黄金色をしていて光の加減によって、本当にどの宝石だって勝てやしない輝きを放っていた。その中に、何か他の光が輝くのが分かる。光ではなく、穏やかな温もりのような。だが、はっとして彼女は意識を取り戻した。
「もう、そんなに頻繁に来ていただかなくても大丈夫。心無い者たちに、第一皇子は故第一皇子の后にご執心だと噂されてしまいます」
ちらり、と彼女は中庭の外に目をやった。この周辺に人影はちらほらしか見えないが、宮廷の者たちは噂話が大の好物である。もともと紅炎は昔から月に何度ものもとを訪れてくれていたが、それはまだ彼が幼かったから特に見とがめられることもなかった。
だが、今では彼は立派な偉丈夫。官僚たちや他の皇族からの信頼や期待が厚く、将来が楽しみだと言われている彼が、連日故第一皇子の后のもとに足しげく通っている、などと噂されたら彼の汚点になる。だからもう、戦争から無事に帰って来れるよう、戦争だけに意識を向けてほしかった。
「構いません。本当のことなのだから」
表情が乏しい彼だが、を見つめるその瞳には先ほどと同じように穏やかな明かりが灯っている。彼女はそれから目を離すことが出来なかった。
――それは、いったいどういう……。
がぼんやりと彼を見上げる中、池で悠々と泳ぐ鯉がぱちゃんと水音を立てた。

 紅炎が戦争に出てから三日が立った夜。此度は華安平原を通り過ぎた先にある国で戦争を起こすらしく、二月もあれば帰ってこられると言う。
従者――陽栄に寝支度を整えてもらっている最中のことであった、コンコンと扉が叩かれる。こんな夜分に誰が。そう思えば、入って来たのは皇帝付き女官の中でも高位の者であった。
「皇帝陛下がお呼びです」
「まぁ…。なぜこのような時間帯に?」
その言葉に驚いたであったが、女官はそれには答えず急ぎ身支度を整えてくださいませ、と表情を動かさずに後ろに控えていた女官たちを部屋に招き入れ、折角下したの髪を再度結い上げ化粧を施していく。
数人がかりで身支度を行った為あっという間に出来上がった彼女は、戸惑ったように陽栄を見やった。
「俺も共に参りましょう」
「いえ、従者の方はもう休まれよと陛下から承っております」
「しかし、」
「陛下のお言葉に逆らうのですか?」
咄嗟に前に出た彼だったが、女官の冷徹な言葉にぐっと詰まり眉を寄せる。女官と従者であれば従者の方が身分は上だが、今この女官には皇帝からの言葉という武器がある。逆らうことは出来なかった。彼の心配げな眼差しを受けた彼女は、彼を安心させるように微笑んだ。きっと、何か大事な話があるのだろう、と。
「陽栄、あなたはもうお休みなさい。では、行ってきます」
様…」
部屋に佇む彼を流し見、彼女は女官に囲まれ流されるままに外に出る。拳を合わせた彼がちらりと見えたが、女官たちの歩みは早く、はあっという間に自分の棟から遠ざかった。

 扉を開けられた瞬間に漂う香と酒の匂いに、は悟った。寝台の上に寝そべりこちらを見やる男はこの国で一番偉い人間だ。紅炎と同じ赤い髪を持ち、彼よりも長い髭を寝台の上に垂らしている。その目に宿るほの暗い炎。
「何を固まっているのです。お入りなさいませ」
扉の前で立ち竦む彼女に、後ろから小さな声でありながらも冷徹な叱責が耳元に飛ばされる。
――入りたくない。
頭の中は真っ白だった。だが、入らないという選択肢はない。皇帝が手招くなら、それに従わねばならない。愚かなことにも、彼女は此処に来るまで、全くその可能性を見いだせなかった。彼女は白雄の后であったし、彼が亡くなっても彼の妻として暮らしていた為に、皇帝から夜伽を命じられるとは露ほども考えていなかった。
 酷く耳鳴りがする。キンキンと痛む耳の傍で、自分の恐怖に喚く心臓の音がうるさく響く。極度の緊張と恐怖から瞬きの回数が減っていたことにも気づかずに、彼女は自分の上に跨る男から目を離せなかった。
紅炎が執着するのも分かる、と男が言った。しゃがれて、低く、痰が絡んだような声。白徳とは正反対のような、紅炎がこの男の息子であることが不思議なような。脂肪で膨らんだその手が自分の身体に触れたことで、そんな淡い思考は弾け飛んだ。
「――へ、へいか、どうかお止め、ください」
逆らうことも、拒むことも許されない。それでも、本能が叫んだ。この男に蹂躙されたくないと、必死で抵抗を始める。身体をまさぐる手に、鳥肌が立ち涙が溢れた。たすけてと勝手に唇が紡ぐ。それでも周囲にいる女官たちは冷めた目で、ただ静かにそこに佇む。この野蛮な行為が、ただ何てことはない日常以下のものであるかのように、ただの空気のように、見やるだけ。
「お許しを…っ、白雄さま、はくゆうさま」
身体を揺さぶられる度に引きつった声が零れる。嫌だ、助けてほしい。愛してほしい。このような行為を望んだのはただ一人であった。子を残したいと求めたのは、彼一人であった。だが、その彼はもうここにはいない。あの優しい彼の腕に抱かれることもなく、この数年間を清く孤独に生きてきた。
彼の子を産むことは叶わなかった。だが、それでも一生彼を想って生きていくのだと思った。后であったのはたった数日だったが、それでも、それまでの年月を彼と共に許嫁として生きていたのだ、その時の思いで、これからもずっと彼だけに操を立てていけると。
恐怖、嫌悪、苦痛、絶望。表す言葉は数多あれど、の心の内を言葉で表すのは不可能だった。髪を振り乱して泣きじゃくる彼女に男の生暖かい息が降りかかる。
――白雄様、白雄様…!!!
どんなに彼に助けを求めても、彼は白い靄の先にいる。彼は数年前にあの大火で死んでいるのだから。自分の身体の上に散らばる赤髪は紅炎のものよりも色素が薄く、より業火に似ていた。あの大火で夫を奪われたのに、今度は自分の身体を奪われたのだと彼女は恐怖の奥底で感じた。
助けてほしい人はもうこの世にいない。涙が溢れた。きっと、彼が生きていたらこんな仕打ちを許さないだろう。白雄様。涙で滲む世界で、ただ青く輝く髪を持ったあの方だけを探した。だけど、いるわけがない。分かっている。それでも彼を求めた。だがもういない。
「    」
暗く深い絶望に叩き落された彼女は、その時誰かの名を叫んだ。ちらりと脳裏に霞むあの瞳。黄金に輝く、たった一つの癒しの光。それは、生きている者の名だった。
世界があの黄金に染まれば良かったのに。


 後宮の中でも滅多に人が寄り付かない所がある。それは、まだ后がいない白徳の為に選ばれた后候補の者が病で亡くなり、主を失った棟。それだけの事実であればまだ人々は気にせずにこの棟に新しい者を招き入れただろう。しかし、時々誰もいないというのに泣き声がするのだという。
「本当にあの姫は病で亡くなったのか」
「誰かに毒殺された恨みで夜な夜な泣いているのでは」
噂好きの女官がそういったことを周囲の者に伝え広めていけば、もうこの屋敷は幽霊屋敷ということになってしまい、古くから死者の魂を信じる嫌いのある煌の者たちは途端に恐れ、この棟に近づかなくなってしまった。
 宮廷とは思えない、荒れた様子の棟。草は生えたいところに生え、紅炎の膝まで伸びている。それを避けつつ、彼は屋敷に近づいていく。女官たちが立てた噂など馬鹿馬鹿しいにも程がある。誰もいないなら鳴き声だって聞こえない。誰かが見えない所で泣いていた声が彼女たちをそう勘違いさせたのだろう、と。
鋭い瞳を光らせて紅炎は不遜に鼻を鳴らした。
「白雄殿もこんな度胸試しなどに貴重な休みを使わずとも…」
独り言ちてしまうのは、多忙の身である白雄までもが紅明の提案という名の無礼な遊び――幽霊屋敷に入って、何か証明となる物を持って帰って来るというもの――に付き合わされているからだ。自分だけならまだしも、白雄や白蓮までとなると紅炎は頭が痛くなる。
普段は政務に忙しく、外では呉や凱と戦いに身を置いている彼の休日に、少しでもそれらのことを忘れられるようなことがあればと紅炎が呟いたのがきっかけであった。それを聞いてしまった紅明に、あれよあれよという間に口車に乗せられ――普段はあんなに腰が重いというのにどういうことだと紅炎が呆れたことは言うまでもない――結局度胸試しを行うこととなった。
厳正な順番決めの時に紅炎が一番になってしまった為、今彼は一人でここにいるが、一つ隣の棟に彼らは待機している。
――幽霊などいるものか。
そう思っていた所、何か小さな音が聞こえる。風の音でも、何もいない池の水音でもない。ぴたりと足を止め、音の出どころを探る紅炎はそれが屋敷の中から聞こえることに気付いた。
足音を立てずに屋敷に近づくにつれて、その音が確かに聞こえるようになる。それはすすり泣いているようであった。
――紅明め、下手な小細工を…。
弟の仕掛けた罠に思わず笑いそうになった彼だったが、ここで通り過ぎては後で彼に笑われかねないと思い、音の出どころへ近づく。
色あせた窓から中を覗き込もうと思ったがそれはやめて扉に近づく。半開きのそこから見える中は薄暗く、すすり泣きも聞こえる為、見るからに女官たちが怯えそうだった。
ギィ、と錆びた音を立てて開いた扉から中に入り、部屋を見渡す。
「誰だ、そこ、に……」
紅明に頼まれた女官が泣いているふりをしているだけだろうと思っていた。それなのに、そこにいたのは、この国では滅多に見ることがない金の髪を持つ少女。紅炎と同い年の、白雄の許嫁が隅で蹲り顔を覆っていた。それに身体が硬直する。
そろそろ、と袖を顔から離したは紅炎の顔を見てくしゃりと顔を歪めた。その目に盛り上がる涙の塊に、紅炎はぎょっと目を見開く。泣かれる。女官や親族の者以外の女性と滅多に関わり合いになることがない紅炎にとって、女性に泣かれるということは未知の体験であり、どうすれば良いのか分からない。その上、彼女は白雄の許嫁ときた。どうにかせねばいけないのに、ぐすぐすと泣いている彼女を前に彼の頭は真っ白になる。
 戦い方は幼い頃から習い、今では師範を打ち負かす程に熟知している。剣の使い方だって、兵法だって、この国を守る術なら、紅炎はよく知っていた。だが、どんなにそれらに通じていようとも女を笑顔にする方法など知らない。
頭に浮かぶ言葉が無い彼だったが、そのまま彼女にそっと近づく。
「……どうしてこのような所に…?」
「白雄様に、お会い、したくて……でもっ、ご令嬢たちに…」
心臓がうるさく喚く。赤くなった頬と鼻に涙の筋が通って、眉をぎゅっと寄せている彼女。傍に寄って見た彼女の泣き顔は憐憫の情を煽る。最後の方の言葉は嗚咽で聞こえにくかったが、どうやら他の貴族の娘たちに「醜いレームの者のくせに煌の真似事をして、全く似合ってもいない。なぜこんな娘が白雄様の許嫁なのか」ということを言われたようだった。
そこで人気のない此処――彼女は最近宮廷に出入りするようになったからこの噂を知らなかったのだろう――に逃げ込んできたのか、と紅炎は冷静ぶった頭の中で納得した。それと同時に、そんな心無い言葉を彼女に突き刺した、顔も分からぬ令嬢たちに憤る。
――似合っていないなど、阿呆にもほどがある。
彼女が身に着けている着物は、全てが彼女の為だけに誂えられた物だ。柔らかい光を放つ金の髪に、真珠の肌に、空のような、海のような瞳に似合うように。たとえ彼女の為に作られた着物でなくとも、彼女が着れば何でも彼女の為に作られたと思うだろう。
だが、紅炎にはそれを言葉にする術が無かった。涙を流し続ける彼女に、口を開いては閉じる。こんな時に白雄殿下がいてくれれば、とさえ思う。だが、この場には自分しかいないのだ。
――あなたには、笑顔が似合う。笑ってほしい。
「あなたは美しい」
それは、やっかみです。膝をついて不器用に言葉を続ける彼に、彼女は俯いていた顔を持ち上げる。美しい、などと女性に言うのは初めてだった。こんな言葉を言うこと自体に羞恥心が疼くが、それよりもただ彼女に笑ってほしいという気持ちが強かった。
――あなたに泣かれると、どうすれば良いのか分からなくなる。
じっと力強く、忍耐強く彼女の瞳を見つめて、伝われと念じた。
様は、白雄殿下に相応しい。心の捻くれた者たちの、言葉などに、俯く必要などありません」
愚直に、ただ不器用に、それでも実直な眼差しを向ける紅炎に彼女は目を見開いた。泣き止んだ、と彼が思った瞬間、再びぼろぼろと彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「な、何か悪いことを言いましたか」
「いえ、いえ…」
ほっと安心したのも束の間、再び焦りだす心に紅炎は表面上はあまり変わらず彼女を見つめる。だが、彼女は首を弱弱しく振る。ただ、嬉しかったのだと。それに尚更彼は混乱した。
――白雄殿下……。
今すぐにでも彼のもとに彼女を連れていきたかった。悲しくても嬉しくても泣く、女という生き物の性質が全く分からない彼はただ彼女に手を差し出すことしか出来ない。
「こんな薄暗い所ではなく、殿下の隣に行きましょう」
「こ、こんな、みっともない顔では…」
「殿下はそんなに器量の狭い男に見えますか?」
戸惑うの手を掴んで立ち上がる。柔らかい涙に濡れて、余計に、少しでも力を入れれば折れてしまいそうな手だと思った。恥ずかしくて彼の所に行けない、と首を横に振る彼女に紅炎は自然と口元に笑みが浮かぶのが分かる。彼女なら、彼がそんなことを気にするような男ではないと分かっているだろうに。
きっと、涙に濡れた彼女のことを本気で心配して、彼女の杞憂を笑い飛ばし、心の中で静かに彼女を傷つけた者たちに憤る、そんな彼を。
美しさとは容姿だけではなく、身の内から滲むものである。素直に許嫁を愛するその心があるから、ただ一人の男しか見ていないからこそ、
「あなたは美しい」
――だから、自信を持って彼の隣に立てば良い。ただ、笑っていてくれれば、それで良いのだ。


 青空の下、馬上から見える帝都に、漸く戦争から帰って来たのだ、と紅炎は思った。戦はやはり疲れる。白徳帝と白雄の志を受け継いで世界から戦を無くしたいと思い、精力的に動いてはいるがやはり住み慣れた土地を見ると落ち着くものがある。
 紅炎を先頭にした行進に、外に出ている街の者たちは拳を合わせて、紅炎たちを出迎える。その間を進みながらも、紅炎の瞳はただ帝都の先にある禁城を見ていた。予定よりも早まった帰還にまずは皇帝へ報告をしなければならないと冷静に考えながらも、脳裏には出立する前に見たの顔を思い出す。
困ったような、それでいて嬉しそうなはにかみ。紅炎と同年でありながらも、彼女は白雄の許嫁として育てられてきたおかげか、他の令嬢たちと比べてみても落ち着きがある。もともとの性質がそうなのかもしれない。
そんなことを考えつつ、紅炎は禁城に着いてから戦の勝利報告をし、の棟に向かっていた。幽霊屋敷と噂されていたそこに住む彼女。昔は色あせていた棟全体も、今では華やかさと落ち着きを兼ね揃えた上品な仕立てになっている。そこはもう、幽霊屋敷などとは思われないだろう。彼女が住み始めてから、泣き声が聞こえなくなったというのだから。
――息災だっただろうか。
会う度に向けられる、少しの哀愁が含まれる彼女の笑みを思い浮かべる。他の者から見てもそうだが、紅炎からするとさらに、彼女は儚い人だった。
の棟に入ると、女官が腰を低くし拳を合わせる。その間を通り過ぎ――その際、一人の女官に彼女の居場所を聞いた所、寝所にいると言われて――中庭に行こうとしていた足を彼女の寝所へと向ける。
今はまだ太陽が真上にある時間帯だ。寝るには早いし、起きてないにしては遅い。規則正しい生活を送っている彼女にしては珍しい居場所に、ざわりと胸が騒ぐ。具合でも悪いのか。
寝所の前で扉を守っている男を目に入れて、紅炎は彼に鋭い瞳を向けた。
はどうした」
「――今は具合が悪い為、寝ておられます……」
従者の彼の答えに彼は表情を変えずにそうかと頷いた。
だが、この男は嘘を吐いていると直感的に分かる。紅炎を前にしているからかもしれないが、どうにも表情がぎこちない。視線を動かすことはなくとも、扉の先に意識を向けている様子でありながらも、紅炎に何かを伝えようかと葛藤しているようだった。
「どいていろ」
彼を押しのけた所、「いけません」と弱弱しい声がかけられる。何がいけないのか。隠し通せぬ嘘を吐いたのはお前だ、と紅炎は扉を開いた。
最初に目に入ったのは、寝台の上に横たわっているの寝顔だった。だが、寝顔だと感じたのは一瞬で、その手に握り締められている小瓶、苦しそうに寄せられた眉、喉をかきむしったような赤い爪痕、それらを見た瞬間に悟る。
「お茶を――」
「今すぐに紅明の所から魔導士と医官長を連れてこい!」
「えっ、は、はい!」
気を利かせたつもりで来ただろう女官に怒鳴りつけて、紅炎は壁際に立っている陽栄にギロリと殺気の籠った視線を向けた。足早に近づいて、射殺さんあまりに見下ろせば、彼は青ざめた顔でありながらも紅炎を見上げる。
「毒を飲ませたのはお前か」
「――はい」
「…そうか。では死ね」
頷いた男に、紅炎は一瞬たりとも目を逸らさずに鞘から躊躇せず剣を抜いた。ギラリ、と光る刃に身を震わせた彼。しかし紅炎が腕を持ち上げた直後、見計らったように、身じろいだ陽栄の懐からころんと巻物が落ちた。戦場では絶対に余所見をしない彼であったがちらり、と転がった方向を見やる。
「………」
剣を振り上げて尚逃げ出す様子がなかった彼に、紅炎は彼を切るよりも先に、その巻物を拾い上げ中を確認した。
『これをお読みになっているということは、きっともう私は毒を飲んで死んでいるのでしょう。どうか陽栄を処罰するのはお止めくださいませ。私が願った結果でございます。もうこれ以上、白雄様を裏切ってまで、のうのうと生きていくことはできません。』
その言葉が綴られた先には、簡潔に皇帝から夜伽を命じられたことが書かれていた。だが言葉は簡潔でも、抑えきれぬ感情の荒波が、震える文字に宿り、滲む字には彼女の悲しみが付きまとう。
ぐしゃり、とその紙を握り締めて紅炎はのもとに足を向ける。ぐぐぐ、と力を込めた拳から巻物が悲鳴を上げ、芯が折れた。燃えるように、怒りが腹の底から湧いてくるのが、彼には分かった。
彼女の青白い顔には苦悶の色が浮かびあがっているが、どことなく現世の辛苦から解き放たれたような、そんな表情をしているような気がする。
――目を閉じれば、思い出せる。その穏やかな情の中にも愛しさを込められた笑みを向けられるのは、白雄一人だった。愛の言葉も、彼女の真心も、その清廉潔白の身も、その命全てが白雄の為だけの存在であった。
それを、蹂躙するなど、あってはならぬことであった。
貝殻を模した引手の箪笥をどんと蹴り倒し剣で叩き切る。中にしまわれていた宝石や真珠がバラバラと飛び散り、視界に色が瞬いた。白い輝き。虹色に光を放つ宝石たち。
「で、殿下!お止めください!!」
見の内を焼け爛れさせる怒りをぶつけるが如く、破壊行為を繰り出す紅炎に陽栄は悲痛な悲鳴を上げた。もう、これ以上失いたくない、と。ギラギラと猛獣のように鋭い殺意の炎を孕んだ瞳が陽栄に突き刺さる。
何もかも壊してしまいたかった。この男も、この部屋も、全て。彼女が愛したものを、すべて切り捨てたかった。
――たった一人の、俺の…
「まだ亡くなってはおりませぬ!まだ様のルフはそこにあります…!」
「殿下、今から緊急の治療を施します」
しかし、そこに切りこんできたのは紅明から派遣された魔導士たちと、医官長。彼らはの有様を見て眉を寄せたが、その目に希望は残っている。
「ああ……、まだ、ご存命なのですか…」
今まで壁に凭れていた身体がずるり、と床に崩れ落ちる音がする。良かった…、そう言った男は彼女に毒を渡した張本人だ。だが、その頬に伝う涙を見た紅炎は先ほどまでの恐ろしい激高が徐々に収まっていくのを感じた。
握り締めていた剣から力を抜いて、彼は鞘にそれを戻す。
「…………」
――様。
それは、この場で言えぬ言葉であった。紅炎が言うことは許されない、呼び名。じっと、彼女が甦生される様子を最後まで眺めていた彼は、彼女が無事に息を吹き返し医務室へと運ばれていったのを見送ってなお、その場に一人居続けた。


 ぴちち、と小鳥の囀りが聞こえる。燦々と降り注ぐ太陽の下を歩く紅炎は、医務室の前に部下たちを残してその中へと入っていった。
一番大きな部屋の中央に置かれた寝台に身を横たえている、青の瞳を持つ女。ぼんやりと宙を見ていたその目が、紅炎を捕らえる。
「酷いお方…、紅炎殿」
様」
途端、はらはらと彼女の瞳から流れ落ちる涙。自分を責めるその言葉に、紅炎はただ彼女を見つめることしかできない。全く同じだ。あの頃の、幼い時分の、薄暗闇で泣いていた彼女と、それを見つけてしまった時の自分。しかし、眉を寄せて嗚咽を堪えている彼女を見やる紅炎の眼差しはあの時とは違い、確固とした決意がある。
「俺があなたの生きる理由になります」
死んで彼のもとに逝きたかったと言う彼女のなんと残酷なことか。あの大火で、家族を失った悲しみを、憤りを、また紅炎たちに味わえと言うのか。もう、そんなものは味わいたくない。言葉にせずとも、義理の家族でも共にありたいと思う彼の気持ちをその声音に乗せる。
俺では、あなたの生きる理由にはなり得ませんか。そう訊ねる彼に、彼女はぎゅっと瞑った目からぼろぼろと涙を溢れさせながらも、首を横に振った。
「俺があなたを守る。だから、もう泣かないでください。――あなたは、美しい」
「――紅、炎殿……っ!」
その言葉に彼女が目を見開いて、身体を震わせた。彼女は覚えているだろうか、あの時の幼心に拙い言葉で慰めた自分のことを。
――何度汚れたって、何度死に近づいても、何度だって人は立ち直れる。その身を清浄に保つのは、肉体だけではなく、精神も必要なのだ。
彼女の瞳を覗き込めば、記憶の中にいる、懐かしいかの人がこちらを見ているような錯覚を起こす。だけど、もう彼はいない。彼の代わりに、今度は紅炎が彼女を支えなければならなかった。
――あなたが今でもまだ白雄を想うのなら、
「あなたは白雄殿下に相応しいです」
ただ、笑ってほしい。


2017/04/19
◇あとがき◇
溥由さん、今回はリクエストありがとうございました!かなり可哀そうな目に合わせてしまいましたが、最終的にはハッピーエンド(?)です。このシリーズは丁度更新したいと思っていたので、リクエストしていただきとても嬉しかったです。これからもよろしくお願いします。

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