09 何よりも大切な、彼との約束

 は一週間前に目を覚ました。それは俺にとってはとても喜ばしいことだった。しかし、彼女に会うことを拒絶された。今まで繋がっていた部屋の扉から彼女に会いに行こうとしたのに、ノブが回らない。そんなこと今までに一度も無かった。彼女が俺を受け入れなかったことなど、無かった。だからだろうか、思っていたよりも俺は傷ついたらしかった。だって、何か心臓がぎしぎし言っている。ガチャガチャと小さな音を立てて、開くことを許さない扉。こんな物、開けようと思えば簡単に開けられる。だけど、そうしなかったのは彼女が扉の向こうで泣いているのが分かったから。開けたら二度と彼女は心を開いてくれない気がして。
彼女の顔を見たかった。けれど、俺は何故か拒絶されている。何で?すぐに助けにいかなかったから?何度も扉越しに彼女に話しかけた。
「まだ傷は痛む?」
「どうしてここを開けてくれないの?」
、ご飯ちゃんと食べてる?」
そのどれにも彼女は返事をしない。しかし、時間がかかっても必ずゴトーから届けられる彼女の手紙。爪が生えてこなくて痛いだろうに、彼女は俺の言葉の逐一に反応して返事をくれた。だけど、決して俺とは話そうとしなかった。

彼女に会うことが許されているゴトーとキルアが憎たらしかった。


 こんこん、とノックをしてからキルア、と声をかける。そうすれば、十分な時間をかけてから扉がそっと開かれた。足の爪が無いのだ、時間がかかっても仕方がない。
イルミが仕事でいない時間を見計らってここに来るのはもう二週間目だ。杖を付いてひょこひょこと歩く彼女をすっと横抱きにして持ち上げる。そうすれば彼女は目を見開いて、それからごめんねと口パクをした。
彼女は目を覚ましてから一度も口を利いていない。俺が喋るのに対して筆話で返す。今までとの会話のテンポが違って当初は慣れなかったけど、流石に二週間も続けていたら慣れてきた。
「手と足の具合は前より良くなったみたいだな」
『ええ、ゴトーさんたちが良くしてくれるから』
右頬にあった痣も今はもうすっかりなくなっていて、あとは手足の爪が完全に生えてこれば以前の彼女に戻る。それなのに、目覚めてからずっと彼女は落ち込んでいた。見ず知らずの奴に攫われてこんな拷問を受けてきたのだから心に傷が残っても仕方がない。だけどそれはあの時の出来事に対してではなく、また別の事柄に対するもののような気がして。
「なぁ、イル兄の唄聴いてないから最近苛々してんだ。俺の特訓の時だって――」
言葉を言いかけてちらりと横の彼女を見て、ぎょっと目を見開いた。が肩を震わせ泣いている。声を出さずにただ、涙を流し震えている彼女に俺は慌てるしかない。どうしていきなり泣き出したんだ。
「ごめん。急にどうしたんだよ?」
泣いている彼女がどうすれば泣き止んでくれるのか分からなくておろおろしながら彼女の肩を擦る。何か悪いことでも言っただろうか。直前の自分の言葉を思い出しても彼女を傷付けるような言葉は言っていない。もしくはふと拷問された時のことを思いだしてしまったのか。
『私、イルミ様に捨てられるわ』
彼女が震える手で書いた字は歪んでいた。ぽたぽた、と紙の上に涙が落ちる。
「どうしてだよ?イル兄がのこと捨てるなんてありえねぇって」
益々涙を流し始めた彼女を下から覗き込んで彼女の妄想がいかにありえないかということを力説する。は可哀想だけど俺と同じくらいイル兄に執着されているだとか、イル兄は今もに会えなくてストレス発散に俺やミルキを使っているだとか、だけどこの部屋に無理やり入ってこないだろ?とか。一生懸命彼女にイル兄がどれだけ彼女のことを大切に思っているかを教える。きっと、彼女は自分に自信がなくて気付いていないし、彼もそういう感情に疎いから。
――だから、泣くなよ。俺まで悲しくなってくる。
『だって、私はイルミ様のためだけの唄人なのに』
そこまで書いて彼女の手が止まる。なのに、どうしたんだよ。その先を書くのがよっぽど勇気がいるのか彼女の手は中々動かない。しかし、そろそろと動いて書かれたその言葉に俺は言葉を失った。
『声が出ないの』
ばっと彼女を見上げると、彼女は顔を覆って泣いていた。そうか、彼女がずっと隠したかったこと、それは声。どんなにイルミにここを開けてと言われても、どんなに彼の失意を向けられようとも、彼女は捨てられないために、必死にそのことを隠していたのだ。
彼女にとって声が出ないのは、生きている存在理由がないのと一緒だ。俺はそうは思わないけれど、彼女は彼に唄うためだけに生きていると思い込んでいる節があるから。
俺は耐えきれずに彼女を抱きしめた。彼女はずっと、目を覚ました時から捨てられるという不安に苛まれ続けていたのか。
「俺、声が出なくてもが好きだよ」
よしよしと彼女の背中を撫でながら彼女に囁く。苦しかった。彼女が苦しんでいるのに、それを助けることも出来ない自分が。普通の人間より力を持っているのに、こんな時に何も出来ない無力な自分。そんなんじゃ、何の意味もなかった。


 が目を覚ましてからもう一か月以上経つ。その間俺は一度も彼女と会えなかった。この数日は仕事で別大陸に出かけていたから彼女の気配さえ感じられていない。早く部屋に戻って、扉の外からでも彼女に話しかけたい。
?」
こんこん、とノックをしても返事が返ってこないのは当たり前。いつもは俺がノックをすると扉のすぐ横にちょこんと座っている彼女の気配があるのだが、今日は部屋から彼女の気配さえしない。
「……」
迷わず鍵がかかった扉を壊して中に入る。そこに彼女の姿はない。
きょろきょろと部屋の中を見回して何か手がかりになる物はないかと探す。ふと、テーブルの上に置いてある一通の手紙が目に入った。
それに近づいて見ると宛名の所に「イルミ様へ」と彼女の字で綴られている。
ペーパーナイフで封を切り、中身を確認する。三枚の紙が入っており、小さな、しかし丁寧な彼女の文字で埋め尽くされていた。
そこには今までこの屋敷で世話になったことへの礼と、俺への想い、そして一つの真実が綴られていた。最後の方になってくると字がぼやけて見辛いが、これは涙を流しながら書いたのだろう。

『今までありがとうございました。愛しています、イルミ様』

手紙をぐしゃりと握りつぶす。彼女は何を勝手にさよならをしているのだ。俺が、彼女を簡単に逃がすとでも思っているのか。

「馬鹿


 ゴウンゴウンと飛行船の音が響く。これから俺は仕事に向かう。
「なぁ、本当に良かったのかよ」
しかし、俺が座っているソファの横にはの姿が。ええ、と頷いた彼女は少し寂しそうだったけれど、自分で選んだこの道を後悔しているようではないようだ。
これから俺が向かう場所の途中までで良いから連れて行ってほしいと彼女は言っていた。イルミも誰も知り合いのいない場所で一から、やり直すのだと。
「でもどうやって暮らしてくんだよ?その…金銭面とか…」
『最初は借金でもしてお花屋をするわ。小さい頃からお花が好きだったから』
これから困難に立ち向かいに行くというのに、彼女はその不安が無いのだろうか。俺なら花屋くらい作ってやれるよ。そう言おうとしたけど、そんなことをしたら彼に感付かれてしまうだろうし、まず彼女の大人としての矜持がそれを許さないだろう。そういう人間なのだ。彼女は、誰かに頼らないと簡単に死んでしまいそうなのに、一人で立って歩こうとする。
『あ、ここなんて人柄が暖かそう』
彼女が飛行船の窓から地上を見下ろす。そこは都会でもなく田舎すぎでもない土地だった。畑や家が程良い間隔で広がっている。
「本当にここで良いのか?」
もうちょっと良い場所があるかも。彼女を繋ぎとめようとする言葉は頭の中でぐるぐる回るけれど、それが出てくることはない。
――ああ、もう二度と会えないのだろうか。
『うん。たまにで良いから遊びに来てね。キルアのこと、待ってるから』
やめてくれよ、そういうの。余計に悲しくなるだろ。
徐々に降下していく飛行船。この飛行船が地面に降りたら、そこで彼女とはお別れ。柔らかい飴色の瞳に込められた強い意志を見ると、何も言えなくなる。
ゆっくりと飛行船が地面に到着したのを感じる。彼女もそれに気付いたのか、俺を見て眉尻を下げて笑った。
『キルアが、会いに来て。美味しいご飯作れるように練習しておくから』
彼女はそう紙に書いて俺のことを抱きしめた。彼女の温もりとほのかなシャンプーの香りが俺を包む。
「絶対、会いに行くから…」
だから、さようならじゃなくて、またねって言って。消え入りそうになる声を出して、彼女の背に手を伸ばす。うん、と頷いた彼女の振動が伝わる。


『またね、キルア』
彼女はそうにっこりと笑って飛行船から下りて行った。窓から下にいる彼女に手を振る。風邪ひくなよ、変な男に捕まるなよ、ご飯ちゃんと食べろよ。そういう思いを込めて手を振る。彼女は俺に向かって眉間の皺を伸ばすような仕草をした。きっと、俺の眉間に皺が寄っていたのだろう。その仕草が無邪気で、俺はまた悲しくなった。そんな俺には非情なほどに早く上昇していく飛行船。彼女はずっと下で手を振っていてくれた。飛行船が雲に隠れるまで、ずっと、ずっと、手を振り続けていてくれた。


2013/09/28

inserted by FC2 system