08 何よりも大切な、彼との約束

 目覚めたそこは、見慣れている私の部屋の天井でもなく、自然公園の上に広がっている空でもなく。視界いっぱいに広がる本の山がある部屋のベッドに私は寝かされていた。
「起きたか」
「!!あ、あなたは……」
聞こえた声にがばっと勢いよく身を起こし、扉に寄りかかり腕を組んでいるクロロを見た。先程の朗らかな好青年の口調ではなく、人の上に立ち威圧することに慣れているそれで話す彼に、じわりと嫌な汗が手のひらに浮かぶ。
「イルミ専用のカナリアらしいな」
「……どこでそれを…」
全てを見透かしたような冷淡な闇色の瞳に見つめられて、ぞくりと背筋が慄く。――この人は、たぶんイルミ様と同じ性質の人。咄嗟にそう思い、私はじり、と後ずさった。
「お前の声は美しい。俺のために唄え」
後ずさったとしても壁しかなく焦る私の顎をくいと持ち上げ、美しくも冷たい表情をした彼に見下ろされる。私がはいと言うようにご丁寧に気絶しない程度の殺気を向けて、彼は冷笑した。彼の殺気に押しつぶされそうになり、がたがたと肩を震わせながら震える唇を開く。ここは彼の言う通り唄っておいた方が良いだろう。そうすればきっと命までは取らない筈だ。そう頭では分かっているのに、そうすれば私はきっと助かるのに、どうして。
「私は…イルミ様にしか唄いません…」
「そうか…」
「あ゛あっ…!!」
瞬間、頬に走る鋭い痛みと熱に、彼が平手打ちをしたのだと気付いた。その衝撃でベッドに倒れた私を冷淡な瞳が見下ろす。
――怖い。怖い!イルミ様、助けて!!
「フェイタン、喜べ。生きの良い獲物だ」
「すぐ吐きそうよ」
いつの間にか扉から現れた小柄な男に、クロロが笑いかける。その笑みは残虐性を帯びていて、私は恐怖と苦痛で身体を震わせた。
「壊すなよ」
「分かてるよ」
「や、ぁ!」
ニヤァと楽しげに目を細めた黒尽くめの男が私の腕を骨が軋むほどに握り締め彼の部屋から引っ張り連れ出す。どうやったって格の違う彼に抵抗らしい抵抗も出来ずに、壁が黒く鉄臭い部屋に乱暴に投げ入れられた。地面にうつ伏せに転がった衝撃で膝と手のひらに鈍い痛みを感じて、目線を上げる。黒い、と思っていたのは間違いだった。これは、大量に鮮血が飛び散って乾いて、を何度も繰り返した末に出来た色だった。鉄臭い匂いは、私の以前の者たちの血だったのだ。
「ぁ……」
それをまざまざと見せつけられて、身体が慄然としてがたがた震える。
「さて、お楽しみの時間よ」
「いやぁ!」
壁と同じように赤黒い椅子にロープで私の身体を縛り付けようとする黒尽くめの小男から離れようと手足を必死に動かすけれど、抵抗するなというように鳩尾に拳を入れられて悶絶する。ゲホッゴホッ、と喘ぐことを抑える術は無く口の端から唾液がこぼれ、地面に落ちる。何も防御を出来ずに受け入れた彼の拳によって、私の身体は小刻みに痙攣していた。ぐったりと動けなくなった私の身体をあっという間に頑丈なロープで二重三重に巻きつけていく。すっかり身体が固定された時には、私はどうやっても逃げられない状況にあって、これから襲いかかる恐怖と苦痛にぼろぼろと涙を流した。
「団長のために唄う言えば早く解放されるよ」
訛った会話の仕方で彼が私に優しく囁く。けれど、顔は私を痛めつけることが出来て本当に嬉しいというもので、全くそんな気は無いのだと容易に分かる。がちがちと歯を鳴らしながらもふるふると首を横に振れば、より一層彼の喜色は増して「そうじゃなきゃ楽しくないね」と笑った。
――怖い、痛い。私は今から拷問をされるのだ。クロロという男のために唄うと言わない限り、私は苦痛を与えられ続ける。こんなにも、それが怖くて今すぐにでも逃げ出したいのに、イルミ様との約束を破ることの方が恐ろしくて苦しいだなんて。
「まずは爪ね。良い声で鳴くよ」
肘かけに固定されている私の手に冷たくて骨ばった指を這わせ、爪の先を掴まれる。剥される、と思った瞬間には耐えがたい激痛と灼熱が指先に走って、私は苦痛の叫びを上げた。


 ふと、飛行船の窓から外を眺めていると、いつも俺の為に健気に鳴くあの彼女の声が聞こえた気がした。ちら、と視線を横にずらしても彼女がいるわけでも無く。当たり前の事なのに何故か少しそれが不快感を催し、俺は傍に控えているゴトーにコーヒーを頼んだ。
「どうぞ」
「ん」
コトリと小さな音を立ててテーブルに置かれたカップを手に取る。それは彼女が可愛らしいと気に入ってた桃の花の模様が描かれていて、よく愛用しているものだ。それを口元に持っていこうとしたのに、するりと手元から離れてそのティーカップは無残にもパリンと音を立てて割れてしまった。
「――お怪我はありませんか、イルミ様?」
「ああ…うん。大丈夫」
すぐさま割れたティーカップと零れたコーヒーを片づけ始めた彼に大丈夫と頷きながらも、俺は胸の内に違和感を覚える。
――手がしびれたわけでも無く、力が抜けたわけでも無く。何ら身体に異常がみられないのに俺の手から落ちてしまった、彼女のお気に入りのティーカップ。
「…………」
飛行船から覗く空は、不機嫌で今にも雨が降り出しそうだった。遠く離れた場所でゴロゴロと雷が鳴っていて、ちり、と曇天に走る青白い光がどうしようもなく俺の不安を煽る。
――
心の中で彼女の名前を呼ぶ。今頃彼女は執事たちと一緒に街で楽しくショッピングしている筈だ。
出かける間際に見た笑顔は俺の家に来てから初めての外出に嬉しさを抑えきれていなくて。そんな彼女が何か危険な目に合っているなんてありえないのだ。そう思っているのに、どうしてこんなにも彼女の様子が気になってしまうのか。


 足音を立てずに足早に歩く。頭を占めるのはどす黒い怒りと殺意、そして最後に見た彼女の笑顔。
様が何者かに攫われました!!』
先程かかってきた緊急の電話の言葉は俺をこうさせるには十分だった。依頼が終っていたということもあり、すぐにミルキに彼女のGPSを探知させ彼女の居場所を掴んだ。それは、彼女がいる筈の所から遠く離れている。彼女が自分の足で行けるわけがない。
しかしゾルディック家の執事を殺して彼女を攫って行くとは中々の手練れだということが分かる。何にせよ、自分の物を勝手に奪われて笑っていられるほど俺は優しくない。
GPSが指していた居場所に到着して、どんっとドアを蹴破って中に入る。こんなことをする奴らにはとても心当たりがあった。
「何だ、早かったな」
「どういうつもり?人のものに勝手に手出すなんて」
大破した扉を踏みつけながら、彼――クロロに近づく。彼を合わせてこのアジトにいるのは女一人と男四人の五人。そこに彼女の姿は見られない。円をしたところ、地下に彼女の気配を感じることが出来た。
臨戦態勢に入って今すぐにでも攻撃が出来る状況にある四人とは違って、クロロはゆったりと足を組んで座ったままだ。その様子が俺の怒りを煽る。
「今回はあの娘の勝ちだな」
「は?」
つかつかと歩み寄る俺に殺気を向ける四人。しかし、彼らにまあ待てというように出された腕。それを見た彼らは素直に数歩下がる。
彼の一言一言がどれだけ俺を苛立たせるのか分かっているのだろうか。目の前にいる彼を殺気の籠った目で見下ろす。彼はそれにふっと笑って口を開いた。
「なに、俺にもその唄声を聴かせてもらいたくてな。だが中々うんと言わないものだから少しばかり拷問した」
彼の言葉を聞いた一人の黒尽くめのチビがニヤリと目を細めた。それを見た瞬間、俺の拳はクロロの顔面を殴っていた。避けようと思えば避けれた筈だ。しかしそれをしなかったのは俺の怒りを少しでも納めようとするためか。今すぐにでも殺してやりたい。
「お前らしくもないな。まだ話は続くんだ、訊け。あの女は拷問したにもかかわらず唄うことは拒絶し続けた」
一体全体どんな約束をしたんだか。そう呟く彼のことを無視して地下へ続く階段を下りていく。彼女のいる部屋を乱暴に開けて、その惨劇に目を見開いた。
彼女の両手両足の爪が全部剥されている。流れた血は時間が経って乾いたのか指先は赤黒く染まっている。
彼女は気を失っていた。殴られた痕が見える頬には涙が流れた形跡がありありと残っていた。
…」
椅子に縛られている状態から解放すべくロープを切る。手足首には青紫の痣が出来ていた。
彼女は一般人だ。念も何も使えないひ弱な彼女が、これ程までの拷問を受けながら頷かなかったのは、俺が彼女に自分以外に唄うなと約束をさせたから。
そっと、ぼろぼろになった彼女を抱える。どうしようもなく腹が立った。自分にも、クロロにも。赤黒く血生臭いこの部屋から出て上の階へ行く。先程と同じ所にクロロは座って読書をしていた。
「今度の依頼から8割増しだから」
「はは、それは困ったな」
本から目も上げずに笑った彼に殺意が沸いたが、今は彼を殴ることよりも彼女の傷の手当の方が先だ。俺へ敵意の目を向ける他の四人は無視をしてそのまま忌々しいアジトから出た。

――早く助けに来れなくて、ごめん。


2013/09/28

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