05 彼女の心の雨を止ますことが出来るのは彼だけなのだ。

 さあさあ、と降る雨が窓から眺めることができる。今日は唯一の趣味である読書もできないのねと泣き続ける灰色の雨雲を見上げ、そっと溜息を吐く。
そろりと足を移動させソファに座り込み、無機質だが感情が見え隠れする瞳を持つ彼の事を思い浮かべた。
今日は生憎の雨だがそんな事も気にすることなく、イルミは朝早く仕事へと向かっていった。順調に仕事が進めば正午過ぎには帰ってくると言っていたが、今はその正午をとっくに過ぎて針は1と6を指している。もう1時半、と帰ってこない隣の部屋の主のことを思い、は胸が痛くなる。
きっと仕事の後に用事が入ってしまい帰ってくるのが遅くなっているだけなのだ。きっともうすぐ帰ってくる。
そう信じていても、自身の鼓動は段々と無視が出来ない程にどくどくと音を大きくさせて、不安は募るばかりだ。
こんな、彼が今まで仕事に予想以上の時間をかけることなどなかった。痛む胸を押さえながら、は祈るように目蓋を閉じる。
もしかしたら、と最悪の事態を考えてしまう度にそんな事はありえないと否定するが、彼は暗殺一家の長男として仕事を請け負っているのだから、人に恨まれることは多いだろう。
もしその中の誰かに傷つけられたら?嗚呼、そんな恐ろしいことは考えるべきではない。そう分かっていながらもぐるぐると思考の海は渦巻いて彼女を飲み込もうとする。
時間が経つのがこんなにも長くて恐ろしいものだとは今まで考えもしなかった彼女は、早く無事に帰ってきてくださいと泣き続ける空に祈り続けた。
今にも閉じた目蓋から零れ落ちそうになる涙をどうにかして堪えながら、どんな音も聞き漏らさないように隣の部屋へ通じる扉に意識を集中させる。
これだけ集中しても愛しいあの人がすぐに帰ってくる筈は無いが、彼女が祈り続けてから30分後に彼は隣の部屋から顔を覗かせた。
「ただいま」
「イルミ様」
がたりと普段ならたてぬような大きな音をあげて彼女はソファから立ち上がる。彼女はたっと彼の元まで小走りで近づきその瞳を覗き込み、次いで彼の腕に巻かれた包帯に気が付き、目元を歪めた。
「これ?最後の悪あがきでやられちゃった」
「そんな……」
持ち上げられたその腕の箇所に労わるようにそっと触れて、彼女ははらはらと涙を流し始めた。ほろりと頬から離れた涙は彼の腕に巻かれた包帯へと吸い込まれていき、水滴の痕が残る。
「なんでが泣くの?」
ぽつりと呟かれた言葉が、しとしと降り続く雨の音楽が聞こえる閑寂とした部屋に響く。彼は怪我をしていない方の手でその頬に流れる涙を掬ってやり、彼女を見つめる。
「あなたが傷つくのが怖いのです」
未だはらはらと涙をこぼす彼女から発せられた思いもしない言葉に彼は少し目を見開く。
こんなの、暗殺稼業なんてやってたら軽い方だよ。大丈夫だとアピールする為に彼が述べた言葉で、また涙が溢れさせる彼女に内心彼は珍しく焦った。
「それでも…やはり、イルミ様が元気な姿でないと、私は嫌なのです……」
自分の心を探るように言葉を選んでいる彼女に、イルミは普段なら絶対に言わないことを自然と口にしていた。
「…ごめん」
ぽろりと口から出た言葉に彼女だけでなく彼も驚いた。きょとん、と彼を見上げる彼女の瞳からは驚きの余りに涙が止まってもう流れることはない。
「あれ?」
「イルミ様が謝るなんて……」
言った本人が小首を傾げている様子を見て、は思わず口元が緩んだ。今まで泣いてたくせに、なんて言葉を彼から貰ったが、彼女はさして気にならないようである。
その彼女の様子を視界に入れて、彼女が泣きやんだことには変わりないのだから、彼はまあ良いかと妥協する。


 初めて彼女を見た時、とても華奢だと感じた。目が悪く――部屋が暗いことも相まって――足元が覚束ないくせに、彼女の脚は細いヒールのパンプスを履いていた。そんな華奢な作りで彼女の細い身体を支えられるのかと思っていたが、案の定彼女はたまに転ぶ。
それでも彼女は泣かない。むしろ幸せそうに笑うからそれが酷く痛々しくて、俺はその姿を直視できない事が度々あった。
「もっと低くて頑丈な靴を履けば良いじゃん」
いつだったか、自分の身体を顧みない彼女に多少怒りを交えてそう言うと、彼女は心底嬉しそうに、イルミ様がくれた物ですからと返した。
そんなもの、何でも代わりは利くものなのに。
「ちぇっ、なんでイル兄がそんなに特別なんだよ」
こんなに歩きづらい靴を履かされて、誰かがついていないとふらふらとして危なっかしいのに。転んで怪我をするかもしれないのに。
彼女がそこまで自分の兄を懸想しているのが少し不満で。自分の身体を大事にしない彼女が苛立たしくて、むすっとして彼女を見上げた。
「キルアも特別」
そうすれば、彼女はそれら全てを見透かしたようなように、目を緩く細めて俺の額をつんと人差し指で押す。その微笑があまりにも彼女の目と同じように甘い色をしているものだから、思わず赤くなった。
心臓が耳元でどきどきと脈打ってうるさい。なんだこれ、胸が苦しくて、息をするのが辛い。
「どうしたの?」
「…な、んでもない」
しゃがんで目線を合わせてくるは、泣きそうになるくらいに綺麗で、視線を合わせていることが出来なかった。
心臓がきゅうってなって痛い。どうしたんだよ、俺。はやく治まれ。そう心の中で唱え続けるけど、彼女が傍にいるのかと思うと、余計に苦しくなる。
ああ、もう。俺はいったいどうしたんだ。


2012/04/12

inserted by FC2 system