02 捕らえて離さない

 毎日のようには俺だけのために鳴く。
決まって月光が差し込む窓辺のソフアで唄うように促される彼女は、月の光に照らされて青白く光り輝いていた。
今にも失ってしまいそうな感覚に襲われる程儚くて、まるで月から降下してきた妖精のよう。
その幽艶たる姿には低俗な情香はなく、神秘的な色を放っていた。
唄い終わって、少し照れ臭そうにはにかむ彼女をベッドに導く。
時刻はもう既に十時を回っている。早く寝かせなくては身体の弱い彼女は風邪を引いてしまうかもしれない。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
とろりと飴色の瞳を揺らめかせ、髪の毛と同じ金色の睫毛でその瞳を隠す。そして彼女は眠りに落ちた。
先程まで十分に長かった蝋燭はすでに輝きを失い、月光だけがこの部屋を照らしている。
きっと、否、絶対に彼女は知らない。
この部屋には元々電気は通っていたが、イルミの命によってそれが全て外されたという事を。
それが、闇の中では何も見えない彼女が、外へ逃げ出す事が出来ないようにするための歪んだ愛執だという事も。
「おやすみ、
もう一度、夢の世界にいる彼女に小さく呟く。彼女を見つめる瞳は彼の常と違って少し穏やかだ。
パタンと静かに閉じられた扉の隙間からは淡いオレンジの光が漏れていた。


 最近、嫌にイル兄の機嫌が良い気がしてならない。
多少反抗的な態度を取っても、なぜか許される事がある。
まあイル兄に反抗するなんて滅多にできないけど。そんなことをしたら確実に殺されてしまう。
イル兄の機嫌が良いなんて、親父がにっこり笑うくらい気味の悪いものだが、その原因はわからない。
強いて言えば、最近部屋から出てこない時間が増えたと思う。
ブタ君程ではないが、日に日にイル兄は部屋に戻る時間が早くなる。
二週間程前からは朝食を自室で食べるようになり―まあ我が家では朝食に家族全員が集まる事自体が珍しい事だが―必ずいるのは夕食時だけだ。
一緒にいると気詰まりでプレッシャーがかかるからいない方が嬉しいのだが、もし将来ミルキみたいにオタクになったらと想像してみると、とても恐ろしかった。
ないない、ありえないくらいに怖い。
「キル、何じっとこっち見てんの」
「ひ…っ、べ、別に何も」
食事中、無意識にイル兄の顔を見ていたらしく、咎められて情けなく喉がひくりと鳴る。
ふうんと、さほど気にした様子もないイル兄に、こっそり溜め息をはいた。
ったく、心臓に悪いったらありゃしねえよ。
手元に視線を落とし、カチャリとナイフとフォークを置いた。
「ごちそーさん」
「早いわね」
「どーせお子様向けのテレビでも見るんだろ」
「うるせー、ブタ」
「な!兄貴に向かってブタとは何だ!!」
「うるさい、ミルキ。キル、ちゃんとトレーニングしろよ」
「へいへい」
家族の小言は軽く右から左に受け流し、がたりと席を立つ。
部屋に着いてからも何もせずに、ソファに横になった。
食後で熱を発する身体を冷ますために開け放った窓から、秋風が入り頬を撫でるのが気持ちいい。
満腹感もあり、冴えていたのがとろりとした思考に変わっていき、瞼がゆるゆると落ちてくる。
「――――♪」
「―?」
夢の中に片足を突っ込んでいた頃に、眠気から俺を引っこ抜く程の歌声が鼓膜を揺らす。
少しでも動いたら消えてしまいそうなその声を感じ取る為に、そろりと音をたてずに起き上がった。
まるで敵と対峙している時のように、全身の感覚がびりびりとその細い声に揺さ振られる。
女の歌声は上の階からのものだ。誰かが歌番組を見ているのだろうかと、テレビのチャンネルを何回も替えるが、歌番組さえやっていない。
いったい誰が、とまた窓辺まで急いでいき、身を乗り出して上を見る。
すると、少し離れた窓辺に白く細い指がかけられているのを見付けた。
こんな身を切るように唄う声に、ぎゅっと心臓を掴まれた気分だった。
だが、あの場所は。
「寒いから窓閉めなよ」
「そうですね」
よく見知った兄の声が上から降ってくる。それに対して女の応える声も共に。
もしや自分が聞いていた事があの兄に知られたのでは、と先とはまた違った意味で心臓を掴まれる。
ぱたんと窓を閉める音が闇夜に響き、自分も開け放ったままの窓をそうっと閉めた。
先までは熱かったはずの身体が今は酷く冷えており、どれだけ長い間彼女の歌声に聴き入っていたのか思い知らされる。
まるで聴く者の魂を奪うような、あの悲哀なる歌声。
イル兄はあの声の為に部屋に篭るようになったのだろう。
確かに一度聴いたら中毒になってしまいそうな程に哀切な唄声だった。
「月の光に―」
自分で歌ってみて気付く。彼女のとは全く響きが異なるということに。
ぼすんとベッドに横になり目を閉じる。頭の中には、暗がりで小さく唄うあの女の声が流れていた。
月光に照らされた彼女の指の爪がきらきらと輝いて、それが瞼から離れない。
きっと夢の中にまで現れてきて、また俺の心を捕らえるのだろう。
それでも構わない。そんなふうに思いながら意識を手放した。


2012/2/24

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