00 始まりの夜

「ゴホッゴホッ」
自分の荒い息が耳に届く。先程煙を吸ったからだろうか、咳が止まらない。
始終頬を伝う雫を拭い去る気にはなれず、そのまま白いワンピースが汚れるのも気にせず、木々の間を走り続ける。
月光が漏れる林の外には、満月がまるで太陽のように闃然たる夜の海を照らしていた。濃紺と白い輝きのコントラストは目を奪うもので、この夜に溶けて無くなってしまえば良いのに。そんなふうに思ってしまう。
ふと満月を見て思い出した。今は亡き母がよく歌っていた「月の光」がこの光景に当て嵌まって、震える声で口ずさむ。
そのまま、煤で汚れた身を清めるために、冷たい海に足を進める。本当にこのまま人魚姫のように、海の藻屑になってしまえたら。きっと辛さも悲しみも全て消えるのに。


 月光が辺りの木々を照らし濃密な影を作る。時刻はとうに十二時を過ぎていた。
己から発せられる微かな血の香が何と無く不快で、眉間に皺がよる。ゴトーと待ち合わせをする場所は、まだここから少し離れているけど、ゆっくりと移動する。先に、ある村で何人か殺してきたのだが、自分とは関係なく、何か慌ただしさが漂っていた。まあ別にそんなのどうでも良いんだけど。いつもの通り、彼の思考は至ってシンプルだ。そういえば満月が照らしているこの林を通り抜ければ、海があるのを思い出した。何度か仕事でこの村を訪れていたおかげでここの地形には少し詳しい。村の騒々しさとは打って変わり、辺りは静寂が流れどこか寂漠とした空間をつくっていた。
「?」
もうすぐ海に出るという所で、常人なら聞き取れないに違いない、この夜にとけてしまいそうに儚い歌声が鼓膜を揺する。それに息を潜め、林から出た。
目の前には、彼の有名な画家が描いたかのような海が広がっている。海面は穏やかな波をうち、海面に反射した満月の光がまるで月の道のようで。
確かに、歌詞のようにこの道を渡って月まで歩いて行けそうな気がした。だが何よりも心を引き付けたのは、海に浸かっている女の歌声だった。
消え入りそうな程小さく、澄んだそれは、まるでカナリア。彼女はあの月の道を、身体が濡れるのも気にせず沖に向かう。俺には気付いていないのか、未だ小さくメロディを口ずさんでいる。そうだ、この歌の名は「月の光」だと気付く。
まるで、彼女はこのまま海と一体になろうとしてるかのようで、何故か心を掻きたてられた。既に彼女の金色の髪が波間に揺らめいていて、肩まで浸かっている。気付けば俺も服が濡れるのを気にせず、彼女の腕を掴んでいた。
「だれ?」
振り返った彼女は突然の来訪者に驚きを隠せず目を見開き、だがそれとは関係なしに煤に汚れた頬には幾重にも涙が伝っている。そんな彼女を見て何かに心臓を捕まれた気分になった。
「死のうとしてたでしょ」
彼女の問には答えず、彼女を岸まで引っ張っていき、問い詰める。今の時期はまだ暖かい秋だったけれど、彼女の身体は水に体温を奪われ冷たくなっている。
一体何故自分がこの少女を助けたのか分からない。だが確かにあの時の歌声が俺を捕らえたのは間違いない。
「…違います。顔を洗おうとしていただけで…」
そう言う彼女の声は先に歌っていたように澄んでいて綺麗だったが、それがどこか嘘を孕んでいるのは分かる。
髪と同じ色彩の睫毛が憂愁で伏せられている様は、婉然たる気品を含みながら、たやすくこの月光が照らす夜に消えてしまいそうな儚さがある。
どこかの盗賊ではないが、彼女を奪ってしまいたくなった。水に濡れて身体に張り付いた白のワンピースが彼女の華奢な身体を強調し、こんな弱々しいものなど簡単に壊せるのだろうと誰かが呟く。
未だ彼女の頬に付いている煤に、確か先の村で何か焦げ臭い匂いがしていた事を思い出す。
白皙の肌にその煤はとても目立つ。それに手を伸ばしかけた時、少し離れた所から跫音が聞こえ林を振り返った。
「その娘をこっちに渡せ!」
林から沢山出てきた先の村人の一人が俺に向かって要求を投げ掛ける。
「…逃げてください。あなたは何も関係ありませんから」
彼女はどこか諦めた風にそう言って村人の元へ行こうとする。その瞬間に俺の心は決まった。この女を家に連れて帰ってしまおう。更々彼らに渡す気はなく、彼女の折れてしまいそうな腕を掴み、村人に問う。
「どうして?」
途端、彼らは勢いよくまくし立てた。
「その娘が魔女だからだ!」
「その娘の母親が歌で村人をおびき寄せ殺したのさ!」
「母親が魔女なんだからその娘だって魔女に違いねえ!!」
なるほど、これは今まで俺がこの村で殺した人間が、彼女の母親の手によってなされた殺人だと勘違いをしているのか。
中世ではあるまいし、今時魔女狩りだなんて古臭い。だが、この村人達は彼女が魔女だと信じて疑わないらしい。
確かに彼女の声は他人を惑わす程の美しさだ。それこそ本当に魔女なのだと信じてしまいそうになるくらい。
「母親の方はさっき家ごと焼き殺したが、よくもまあ逃げおおせたもんだ」
「さあ早くその魔女をよこせ!!」
それで彼女は煤で汚れていたのかと漸く気付いた。
狂気を孕んだ村人達の声に、苛立ちが湧く。謂れのない罪で彼女の母親と彼女はこんな目に会ったのか。
「な、何を」
喫驚の色を浮かべた彼女を片腕で抱き上げ、村人に寄る。怪訝に思ったが引かない彼らの一人を軽く蹴り飛ばした。
「てめぇ何すんだ!」
「魔女の味方をすんなんてお前も殺してやる!!」
「あっそ」
きっと彼らは彼女と毎日を過ごしていたのだろう。彼女にとって大切な人達だったのだろう。だから捕らえられたらどうなるかも承知で、彼女は自ら捕まりにいこうとしたに相違ない。
ふつふつと何かが沸く。何もかも彼女から奪いさって俺の傍だけに閉じ込めたい。そうすれば彼女は俺しか頼る者がいなくなる。
襲い掛かって来る彼らを右手で素早く殺していく。
「やめて!やめて!!」
きっと彼女にはぐるぐる動く視界が早過ぎて何も解らないだろうに、その端を飛ぶ赤がそうさせるのだろうか。
最後の一人になった所でふと動きを止める。
「お願いだから!やめて…っ」
「ひいぃ…っ!や、やめろぉ!娘を返せ!!」
どうやらこの中年の男は彼女の父親らしい。だが、この団体に入っていたという事は同じく彼女を殺そうとしていたという事だ。そしてきっと妻も殺したのだろう。
「お父さんは何も悪くないの!お願いだから…やめて…っ」
必死に俺に縋り付いて、涙を流し懇願する彼女はやはり美しく、そしてやはり俺は無慈悲で、俺は彼女の父親を殺した。
「いやあああ…っ」
真っ赤に染まる視界を隠すように彼女は両手で目を覆った。そのまま泣きじゃくる彼女を抱え、ゴトーのいる場所まで移動する。
飛行船がある所に来る頃には彼女は泣き止んでいた。だがそのブラウンの瞳はどこか虚ろだ。
もう君に頼れる者は誰もいない。縋り付く相手は俺にしかいないのだ。そうやって彼女から全てを奪って、自分だけのものにして。
嬉々とした感情が心を占める。

「俺だけのカナリアになって」
「…はい」
彼女を壊したのは俺だけど、俺も彼女もどこか狂っていた。

――終わりから全てが始まった


2012/02/18

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