10 何よりも愛しい吐息

 私が花屋を営み始めてから半年経った。私が降り立ったこの村の人達は皆が優しかった。都会じゃないからだろうか、村の皆で一緒に元気に暮らしていこうという気構えのここの人達は、私が口を利けなくても、突然現れた余所者だとしても、お金がないと知っても、花屋を営みたいと言えば役所にまで連れて行ってくれて色々な相談に乗ってくれた。
初めの一か月は、十年程前に生まれたばかりの娘を病気で亡くしたというご夫妻のお宅にご厚意で住まわせてもらっていた。ちゃんとしたお店が出来るまではここにいなさい。そう言ってくれた優しいアルバート夫妻に思わず涙が出たほど。
住まわせてもらっている身分なので家事などを積極的に手伝った。その傍ら、役所に行ってお金をいくらまで借りるか、利子はどれくらいで何年かけて返済するのか、そういったことを着々と進めていった。
そしてこの村に来てから一か月と少しで私の花屋は完成した。お世話になった彼らの家からそんなに遠くない所に作られたお店は、ここらの家に比べたら遥かに小さいけれど可愛らしい外見をしていた。


 そしてようやく半年経ってこの花屋も軌道に乗ってきた。最初の頃は花を入荷して売るだけで精一杯だったけれど、最近では小さな庭で育てたチューリップやパンジーなども店頭に並ぶ位までには落ち着いてきた。
ちゃん、今日もお花を貰いに来たわ」
『いらっしゃいませ、ジュリーさん』
入口からひょこりと顔を覗かせたのはお世話になったアルバート夫人だ。にこにこと笑いながら入ってきた彼女は店内に並べられている個々の花から、私がデザインしたブーケに目を移していく。どれにしようかしら。そう呟く彼女が言うには、今日は旦那さんの誕生日で、テーブルの上に飾る花がほしくて私の店に来てくれたらしい。それは張り切ってお祝いしなくてはならない。そう思った私はどれでも好きなお花を選んでくださいと伝えた。彼女が選んだ花で立派なブーケを作ろうと思ったのだ。
赤、ピンク、黄色、と選ばれていく花を見ながら、じゃあ花を引き立てる為に緑も加えようと鋏で余分な茎を落としていく。
「あら、可愛らしい。ありがとう、ちゃん」
『いいえ、ブラムさんによろしくと伝えてください』
代金を払おうとした彼女の手を制してブーケを渡す。悪いわ、と眉を下げる彼女に首を振って否定する。あれだけお世話になったんだから、これくらいお礼をさせてもらいたい。これでもまだまだ足りないのだから。
私のその気持ちが伝わったのか、彼女はもう一度ありがとうと言って笑った。
「また今度ご飯を食べに来てね。あの人もちゃんに会いたがっているから」
『はい、ありがとうございます』
入口まで彼女を見送って手を振り去っていく彼女に同じように手を振りかえした。


 まだ、私の声は戻ってこない。常連さんの一人に良い医者を紹介しようと言われて、休日を利用して少し都会に近いその町へ行きその医者を訪ねたが、彼が言うには精神的なことが大きいらしい。
人は稀に、心理的ショックやストレスなどから声が出なくなり、話せなくなることがあるらしい。私は失声症という病気であるようだ。そう言われて思い出したのは、クロロという男に攫われて、あの小さな男に拷問をされたこと。今思い出しても恐ろしくて気分が悪くなる。確かにあんな経験をしたら声が出なくなってもおかしくないと思う。
こればかりはカウンセリングか自然治癒しかない。そう言われた私はその日、気を落として自宅へ帰った。


 少しでもあの頃の自分に戻れるかもしれないと、思っていたのだがそう簡単にはいかないようだ。気長にこの病気と付き合っていくしかないのだろう。庭に咲いている花に水をやりながらそんなことを考える。
もう、どれくらい歌を歌っていないだろうか。自分にとってはとても特別な「月の光」も、歌わなければ忘れてしまうような気がして、少し怖い。


 それからまた一か月経った。相変わらず生活は決して楽とはいえないものだけれど、徐々に増え始めた常連さんにその日の料理をおすそ分けしてもらったり、周りの人達に宣伝してくれたりという恵まれた暮らしをしていた。
「じゃあね、ちゃん」
『ありがとうございました』
この村では珍しい、十代の女の子がお使いで花を買っていったのを見送る。夕焼けの中に彼女がいなくなって、さて仕事の続き。とくるりとうしろを向いて、棚の中を整理していく。今月はいつもより多くの人が買いに来てくれたから少しは豪華なご飯を作れるかも。そう思ってるんるんと片づける。
ちりん、とドアベルが鳴り、客が来たのだと気付く。振り返ろうとするより前に、その声が私の鼓膜を揺らした。
「やっと、見つけた」
ばっと振り返ったそこには、忘れもしない、何よりも愛しい人。
『――イルミ様……』
仕事がなかったのか、ラフなシャツとジーンズという出で立ちの彼。顔に落ちてきた髪を鬱陶しそうに掻き上げて彼は、私に近づいた。
「勝手にいなくなって。あんな手紙で俺が納得できるとでも思ったの?」
『あ、の…それは…』
彼は読唇術が使えるのか、私が紙にペンを走らせようとするのを必要ないと手で制した。
つかつかと歩み寄る彼に、目を向けることが出来ない。それもそうだ、ずっとあの屋敷で世話をされていたのにその礼も疎かに、たった手紙を三枚書いただけで何も言わずに彼の元から逃げてきてしまった。
だって、捨てられるのが怖かったのだ。どうせ捨てられてしまうのなら、自分から姿を消したかった。
「どれだけ探したと思ってるの?ああ、まあ良いや。とにかく――」
会いたかった。そう呟いた彼の言葉が信じられなくて、えっと顔を上げる。しかし、彼に抱きしめられて彼の顔は見えなくなってしまう。どうして、どうして私が抱きしめられているのだろう。私はただの唄人だ。彼に声を捧げるだけの人間でしかなかった筈。私は、こんなことを許されるような人間ではないのに。
『イルミ様……』
だけど、この歓喜の涙を抑えることは出来ない。ぽろぽろと涙が零れ落ちる。あの選択を後悔したことはなかった。むしろ、それが一番良い選択だったと信じてすらいた。だけど、彼を想わない日は一日とてなかった。声も、香りも、姿も追えないこの日々が寂しかった。
会いたくて仕方が無かった。無機質な声の中に隠れている優しさを感じたくてたまらなかった。
「声が出ないとか俺には関係なかったのに、どうして何も言わずにいなくなったの?」
声が無くても、俺はを愛しているのに。
抱きしめながら呟いたその言葉に、私は益々涙が止まらなかった。私は望んでいいのだろうか。声がないのに、彼の為に唄うことも出来ないのに、この手をこの人に伸ばして良いのだろうか。それは、許されるのだろうか。
そっと、彼の背中に腕を伸ばしてみた。広い背中にぎゅっと、しがみ付いてみれば益々強くなる抱擁。
許された。この人に、手を伸ばして縋りつくことを許された。私は嗚咽を堪えずに泣いた。声が無くても愛してくれると言ったこの人に、必死にしがみついた、もう、離れたくない。私は愛されることを許された。ずっと、ずっと、愛してほしかった人に愛してもらえる。
は俺のこと、今でも愛してくれてるの?」
確かめるように囁いた彼。当たり前だ、彼のことは一番に愛している。世界の誰よりも、愛しくて大切な存在。
その気持ちが伝わるようにぶんぶんと頷く。
だけど、これでは駄目だ。ちゃんと言葉にして、彼に伝えたい。
『愛してます』
『愛してます。誰よりも、あなたのことを』
彼の目を見つめて、一生懸命声を出そうとするけど、出てくるのは吐息だけ。だけど彼は笑ってくれた。微笑んで、私の唇に触れるだけのキスをした。

「――知ってる」


2013/09/28

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