大学の帰り道。生活費を下ろしたはそれを鞄の中にしっかりとしまい込んで歩いていた。つい、るんるんと浮かれてしまうのは最近は試験勉強で中々行けていなかったポアロが目的地だから。梓と共通の話題で盛り上がれるのも楽しいし、ポアロ自慢のカフェラテを味わうのもまた楽しい。
コツコツとヒールを響かせて足取り軽く歩いている折のこと。後ろからドンッと衝撃が走り彼女は転びそうになったがたたらを踏むだけで済んだ。
だが、肩からかけていたバッグが力強く引っ張られて思わず手を放してしまった。
「あっ!?」
脱兎のごとく駆け抜けていく黒ずくめの後ろ姿に、は愕然とした。ひったくりだ。
だが、あの鞄の中には生活費が入っている。先ほど引き出した数万円が入っているのだ。今日はその生活費で少しリッチな夕食を作るつもりだった。というより沖矢と一緒に作るつもりだった。
彼との楽しいひと時が目の前から去っていく景色が見え、の目つきは鋭くなる。
「ひったくりです!誰か、捕まえて!!」
そう叫ぶと同時に彼女も駆け出す。鞄を奪われてから彼女が駆け出すまで、たった1秒だったがその差は大きい。相手は体格からして男だ。ぶつかる人々を押しのけて先へ進もうとしている。
彼女も人にぶつからないように駆けるが、それでもヒールというのが痛い。
「ああっ、もう!!」
この事態を理解していない人々は男を捕まえようとしない。自分も犯人には追い付けない。「こうなったら…」ぽつりと呟いた彼女は足を止めてパンプスを脱いで手に持つ。幸いにも彼女と犯人までの間には誰も歩いていない。
左右に体を揺らしながら走る犯人に狙いを定めて大きく振りかぶる。ブンッと風を切って一直線に飛ぶパンプスはゴツッと鈍い音を立てて犯人の頭にぶつかった。見間違いでなければヒールがめり込んでいた。
「っしゃ!!」
「これ、ちょっと持っててください」
「えっ?」
瞬間、思わずガッツポーズをした彼女の横を爽やかな風が駆け抜けていく。微かに香る男性ものの香水に、揺れる金髪。彼女の足元にはビニール袋に入っている食料品たちが。
「え、もしかして」
よろめいた犯人は体制を立て直しているが、車が行きかう交差点に足を阻まれどちらに足を向けるか逡巡している。その間に金髪の男性はぐっと距離を縮めた。犯人よりも素早く走り、人を避け、慌てて左の路地に飛び込んだ犯人を追ってその道へ迷わず飛び込む彼。
は片足は裸足でありながらも、慌てて彼が置いて行った荷物を持ってそちらへ小走りで近づく。
「ぐあっ、チクショウ!!離せ!!」
「まさか。このまま警察に渡しますよ」
路地裏から聞こえる声に、彼女はたどたどしく駆けつけるが、向かいの交差点からこの騒ぎを聞きつけて走ってきた警官に手を振る。どうやら誰かが警察に連絡をしてくれていたみたいだ。
「こっちです!お巡りさん!」
「ひったくり犯はここですか!?」
手錠を手にして眉間に皺を寄せている彼に、路地裏を指さす。警官が入った後に、そろりと覗き込めば、そこには警官にひったくり犯を渡している金髪で褐色肌の男性がいた。
「良かった。あなたの鞄は無事に取り戻せましたよ。念のため中身を確認してください」
「あ、ありがとうございます」
受け取った鞄と交換で食料品を彼に渡す。すぐさま鞄を開いて銀行の封筒の中を確認すれば、しっかり引き落とした時と同じ金額が入っていた。それにほっと胸を撫でおろす。ほかにも無くなっているものはない。
改めて彼にお礼を言おうと顔を上げれば、男性のグレーがかった瞳とかち合う。あ、この顔は。
「先ほど拾っておきました。どうぞ」
全速力で走っていたというのに、のパンプスを拾っていた彼がポケットからハンカチを取り出して、跪いて彼女の脚を持ち上げて拭く。ぽかんと間抜け面を晒した彼女はハッとして「すみません!」と悲鳴を上げた。
間抜け面を晒している間にきれいにされた足をパンプスの中に入れてもらってしまった彼女は顔を赤くしたまま立ち上がった彼の顔から目を離せない。これが噂の安室透。顔が良すぎる。蚊の鳴くような声でありがとうございますと言うのが精一杯であった。
「――僕の顔に何か付いてますか?」
「顔が良い…(すみません、ビックリしちゃって)」
きょとんと眼を瞬かせる彼に、は無意識に本音を駄々洩れにしてしまった。
「…本音と建て前が逆ですよ」
「!?え、ああっ…!すみません、本当にありがとうございました。」
の心を読んでくすりと笑った彼に自分の過ちを理解して彼女は更に顔を赤くした。側では駆けつけてくれた警官が犯人を連行する為に準備をしてくれているというのに。白けた視線を貰っていそうである。
――は、恥ずかしい。とてつもないイケメンとは言え、この男のコードネームはバーボンだ。
気を付けないと。心の中で咳払いをして、彼女はもう一度頭を下げた。
「咄嗟に追いかけられるなんて勇気があると思いますが、女性なんですからあまり無茶をしたら駄目ですよ」
「は、はい。気を付けます」
ふうと一息ついた彼の言うことはごもっともだ。怪我でもしたら大変ですから。なんてもう一言付け加えられてしまえば、脳裏に沖矢の姿が浮かぶ。きっと彼も同じように言うだろう。
「それでは、僕は店に戻らないといけないので」
「あ、本当にありがとうございました!」
思わず「安室さん」と呼びそうになったのを、何とか誤魔化し彼女は去っていく彼を見送った。名前を聞いていないのに呼んでしまったら、きっとこの先ずっと疑惑の目で見られ続けるだろう。
「それでは、あなたも一緒に署まで来て話を聞かせていただけますか?」
「はい。お願いします」
漸くパトカーが到着して、犯人がそれに乗せられる。フードを被った男の顔がちらりと見えた所で、彼女の背中にぞくりと悪寒が走った。
もし、この男がひったくりだけでなく、追っていた私にまで暴行していたらどうなっていただろう。
ぞくりと震える体に、は改めて安室に心の中で感謝した。あの人が何の為にこの街に来たのか本当のところは分からないが、それでも彼女を助けてくれたことには変わりない。

2019/1/5

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