脈打つ赤がきこえる

 白龍と戦争を起こす。そう決まった時に、ができることは何一つ無かった。紅玉や紅覇、武官たちのように戦い紅炎の手足になることも、紅明のように戦略を考え紅炎の頭脳となることも出来ない。ただ、無力な娘であった。紅炎を好きになり旅をすると決めたあの頃と全く変わっていないことに彼女は絶望した。
――私には、何ができる…?
それでも何か出来ることはある筈だと彼女が必死に頭を働かせ考え付いたのが、お守りを作ることであった。時間の関係から紅炎、紅玉、紅明、紅覇の四人の分しか作ることは出来なかった。しかし、その中にはずっとが大切にしていた水晶の欠片が入っている。魔道士たちにもその水晶に魔力を込めてもらい、彼女だけではなく皆の想いを詰め込んでもらった。
「どうか、お気を付けて…」
殿…、ありがとうございます。どうか兄王様を頼みます」
「ありがとぉ…、炎兄の傍でもそんなしみったれた顔しないでよ…」
、私……」
紅明、紅覇、紅玉に順番に手渡していくお守り。それを握りしめた紅明と紅覇はの硬い表情を見てそっと微笑んだ。だが、紅玉はふるふると震えてぐっと胸の前でお守りを握りしめる。その姿には彼女と初めて会った時のことを思い出していた。あの時、紅玉が「この国がの故郷になれば良いのよ」と励ましてくれたおかげで、今のはここにいる。彼女がのことを受け止めてくれたから、彼女はどうにかこの世界を受け止めることができ、紅炎とも向き合うことができた。全部、全部、彼女が支えてくれたから。
は自分よりも背の高い彼女に手を伸ばし抱きしめた。それにびくりと肩を震わせる彼女。皆、死なないで無事に帰ってきてほしい。の願いはそれだけだ。包み込んだ彼女の身体から香る淡い香りに、は胸をぐっと掴まれ涙を一筋流した。
「何があっても、生きて帰ってきて…」
…、私、…行ってくるわぁ…!」
ぎゅうっと彼女の身体を抱きしめれば、彼女もの背中に手を回してその抱擁を受け入れた。涙声になったと紅玉に彼らは気付いていただろう。だが彼らは別れの時が来るまで、がこの世界で最初にできた大切な友でもあり、義妹でもある彼女のことを抱きしめることを見守っていてくれた。


 だが、そのお守りも結局何の役にも立たなかった。ぽつん、と自室に一人佇むはぼんやりと窓の外を眺めていた。その生気のない瞳には、平穏を取り戻した筈の景色が灰色に映る。
――紅炎が投降した翌日のことであった。
 紅炎の傍で戦況を見守っていただったが、紅覇と紅玉が白龍のもとまで辿り着く最終局面で、白龍が頼りにしたシンドバッドのおかげで戦況はあっという間に覆された。彼女は紅炎に縋りついて彼が生きることを願った。それでも、彼は最後まで煢然とし前を見続けているから。縋りつくさえ優しくも厳しい手で振り解いて一人で投降した彼。その時の彼の瞳の実直さを思い出して、彼女は身を震わせた。どうして、あの人が。
未だに紅明と紅覇、紅玉とは会えていない。紅明は敵の一撃を腹部に受けて魔道士たちが懸命に治癒魔法を行なったおかげで命は取り留めたが、未だに意識はなく面会することは叶わない。紅覇と紅玉に至っては。ぎり、と彼女は拳を握りしめた。ぼんやりと見ている窓硝子に、シンドバッドの微笑みが映る。
それは幻影だったが、彼女は彼の笑みに憎悪が溢れた。どちらも身を拘束され、本人たちの口から聞いたわけでは無く紅覇の従者たちから聞いた話であったが、突然紅玉が紅覇の背後を取り声高らかに「我はシンドバッドである」と宣言したという。その時の紅覇を、彼女は見ていない。だが、その時の絶望を察することはできる。
――許せない。どうして、あなたはそんなに残酷なの。
どん、と窓を叩く。彼女はぎゅっと眉を寄せて酷くやつれた顔をしている自分が硝子に映っているのが分かった。

 紅覇と紅玉が、幼い頃に不遇の身であったことは彼らの口から少しだけ聞かせてもらったことがあった。その時の彼女は、こんなことも話してくれるようになった程、彼らと近付くことができたのだと嬉しくて。それと同時に、少し寂しくなって。
『だけど、僕は炎兄と明兄と出会って前を向くことができたんだ』
『あの時、紅炎お兄様とジュダルちゃんが私を引っ張ってくれたから…』
その二人は同じように紅炎たちに助けられたと思っている。そして実際にそうだったのだろう。同じ時にその話を聞いたわけでもないのに、紅炎を尊敬しそんな彼の役に立ちたいと思っている彼らは、互いの身の上もあってよく気にしているようだった。似た者同士で、紅覇は紅玉のことを気にかけていたし、彼女もまた紅覇のことを同年でありながらも兄として慕っていたのだ。
――それをシンドバッドさんはめちゃくちゃにした。
の頬に涙が伝う。紅玉はいったいどれほど傷付いただろう、紅覇はあの時どれほど絶望したか。自ら身内を滅ぼした紅玉の心の悲鳴はいか程か。信じていた。彼のことを友人だと思っていた。だけどあの時、バルバッドの沿岸にロック鳥に乗って声を張り上げた彼を見た瞬間、彼女は彼との友情に、直らない所まで亀裂が入ったことに気が付いた。
――もう、あなたのことを友人とは思えません。
は、心の中に渦巻くどす黒い感情を見過ごすことは出来なかった。


 何とかして紅炎や弟妹たちに面会ができないものかと画策していた彼女だったが、それは二日目に幕を下ろした。シンドバッドが滞在する城に呼び寄せられたのである。断ることも許されず、彼女は彼の元へ行くために馬車に乗せられた。
――酷い、なんで、どうして。
会えなくても裁きを下されるまで、紅炎の傍にいたいと思っていた。彼の后であるがどうして彼の傍から離れられよう。たとえ、宮中で簒奪者の正室と汚名を着せられたとしても、逃げるわけにはいかなかった。それをシンドバッドが彼女の手から取り上げる。
――これ以上、私から何を奪えば満足なの。
ぐぐと握りしめた拳で座った状態の自分の足を叩きつける。怒りが噴き出して、何かに当たらないと我慢できなかった。怒り以上に強烈なものは苦痛だ。それゆえ、彼女は自分の足に痛みを与えることで、怒りに燃え焦げそうになる意識から逃れようとした。
様…?な、――おやめください!」
「はっ、は、う…!!」
だが、何かを叩きつける音に気が付いた女官が部屋に入ってきて、驚愕に目を見開く。すぐに彼女たちによっては羽交い絞めにされて自分の身体を傷付けることは叶わなくなった。何かで気を逸らさないと、黒い鳥がちらりと彼女の側を羽ばたく幻影を見てしまうというのに。彼女はぎり、と唇を噛み締めた。

 紅炎に投降を求めた時とは違って、シンドバッドはのことを温かく迎え入れてくれた。
「良く来てくれた、殿」
「――!!」
公的な立場として述べられた彼の言葉に身体がわなわな震えて、彼に対する汚くどす黒い感情が溢れ出し彼女の脳内で数多の言葉が暴れ回った。なんで、そんな風に笑うの。カッと見開いた彼女の眼には微笑を浮かべた彼が映って。口を開けば、すぐにでも彼に口汚く罵るだろうことは分かったは、余計なことを言わないために唇をぎゅっと引き結び怒りと恨みに燃え上がり震える身体で彼に礼をした。
――この人が、何もしなければ。
シンドバッドに対して何も言うことができずに怨念が籠った眼差しを向けるを、神妙な顔をして見つめる七人将。ジャーファルとヤムライハの重苦しい表情を見た彼女は、それが正しいと思った。今の彼女は彼らの友人ではなく七海連合に新たに加盟した煌帝国の中で、内紛を起こした敗戦の将の后。
もう、あの頃のように優しい眼差しを受けることもないのだ。
 滞在の間は、と与えられた部屋に彼女は閉じこもった。部屋には武器になるような物は一つも置かれていない。それに、彼女は自分の身体を見下ろす。
様、夕餉はどちらでお召し上がりになりますか?」
「部屋で食べます…」
シンドリアから連れてこられた女官が部屋にやって来て、言外にたまには部屋の外へ、と伝えるがそれでも彼女は外に出て七海連合の者たちと食べる気は起きなかった。寧ろ、そんなところで自分が彼らと共に食事をとることを考えることすら、胃がムカムカしてくる。だって、彼らはが最も愛して精神の拠り所としている紅炎を追い詰めたシンドバッドの仲間だ。そんな人たちと共に食事をするなんて、彼への裏切り行為でしかない。
彼女の顔も見る事すらせず、ただは宮中を出る際に唯一持ち出すことができた紅炎の冠を見つめていた。女官の退出する声と共にぱたん、と閉まる扉にそっと伏せていた瞳を上げて扉を見やる。にだって分かっている、彼女が何も悪くないということくらい。だが、は弱いから周囲に対して怒りをまき散らすことしかできないのだ。

 紅炎が斬首されたという伝令が禁城から離れた場所にいるに伝わったのは、彼の斬首からの数時間後のことであった。
様……」
「一人にしてください」
紅炎の死を伝えた武官の男に手を振る。目の前が真っ暗になった。もう、この世界に紅炎はいない。そう思うだけで生きる気力を失くす。強制的にシンドバッドのもとに連れてこられたせいで紅炎の死に目にも会えなかった。別れの言葉だって、何一つ。
ボロボロと彼女の両目から涙が溢れて彼の冠に落ちて弾けた。それをぎゅっと胸に抱きしめる。目を閉じれば、すぐにでも彼と顔を合わせることが出来るのに、もう彼は数時間も前にこの世界で呼吸をすることを止めた。
「こ、うえ、んさん……っ!!」
嗚咽が押さえきれずに、喉から次から次へと溢れる。熱の塊がぐっと詰まって、上手く息ができない。このまま死んでしまえたら良かった。比喩でもなんでもなくにとって、紅炎は世界であった。彼がをこの世界に呼び寄せた張本人であり彼女を守り慈しみ愛してくれた。彼の為に世界を旅した彼女にとって、全てが紅炎へと繋がる。そんな彼がもうに小さな笑み一つ向けてくれない。
コンコン、と扉が鳴る音に彼女は涙を流しながらその方向を向いた。一人にしてって言ったのに、一体誰が。返事をしなかっただったが、それにもかかわらずその扉は開かれる。その扉から現れた人物に彼女はガタリと勢いよく椅子から立ち上がった。
「シンドバッドさん……!!」
、」
もうは怒りと悲しみを抑えることは出来なかった。ずかずかと彼に歩んで、ぶるぶる震える腕で彼の胸倉を掴んで揺さぶる。何で、紅炎さんの最期を共に過ごさせてくれなかったんですか。下から泣きながら睨み上げる彼女に、シンドバッドは君には見せたくなかったんだと冷静に言い、肩に手を置く。
「い、い、今更何を言ってるんですか!?あなたは、私の大切な人を奪っておきながら、そんな善人面をして…!!」
「練紅炎を君から奪ったのは白龍帝だ。俺は彼に手を貸しただけだよ」
怒りで頭の中で彼に言いたい言葉が溢れすぎて口が上手く回らない。頭に上った血はぐるぐると怒りを身体中にまき散らして。目の前にいるシンドバッドの穏やかな瞳は、彼女にとってはただ憎しみを煽る仇以外ではなく。わなわな震える唇を開けばもう、自分でも何を言っているか分からなかった。
「…そんなの詭弁ですよ…シンドバッドさんが白龍くんに手を貸したからあの人は死んだんですよ!」
「ああ、そうなるな。だが、あれが被害を最小に留める方法だったんだ」
の激情に対して穏やかな様子で語る彼の表情に、ぶちりと頭の中で何かが切れた。ぐわっと頭に上りきった血に、一瞬視界が真っ白になって。
「嫌いです!嫌い!シンドバッドさんなんてもう――」
――」
「呼ばないで!」
だけど出てくるのは幼稚な言葉だけ。憎かった。白龍に手を貸したシンドバッドが。紅玉と紅覇を追い詰めた彼のことが。間接的に紅炎を死へと追いやり、紅明を傷付けた、それら全てに。
――白龍くんが死ねば良かったのに……!
の口から出てくるのは、擦れた言葉。最低だ。は自分でも最低だと思った。だが彼女はそうでも思わないとやっていられなかった。煌帝国の者たちは8割が紅炎に帰属していたというのに。シンドバッドがそれをめちゃくちゃにして、あの尊い命を奪ったのだ。
、君にだって分かっている筈だ。世界のためなら個人の犠牲など小さなことだということくらい…。俺は戦争の無い世界を作るために、あの男を犠牲にした。それは今まで紅炎がやっていたこととそう変わらない」
シンドバッドの言葉にはぎゅっと目を閉じて首を横に振った。分かっている。シンドバッドと紅炎が目指していたものが、手段は違えど似たものだったことぐらい。だけど、頭でそれを分かっていても心は、感情は納得しない。だから苦しみが永遠に続くのだ。それを抑える術を、は知らない。
「あなたを殺して私も死にます」
「…!」
シンドバッドの足を引っ掻けて床へと押し倒す。その胴体に跨り首に手をかける彼女に、彼は微かに目を見開いてふっと笑った。それに彼女の眉がぎゅっと寄る。どうして、そんな顔をするの。
「では友としてアドバイスをしてやろう。そんな細腕では俺の首は絞められんよ。もっと食事を取って力をつけねば」
――それに、復讐を果たしてもお腹の中の子が可哀想だ。せっかくここに宿ったのに、母親がいなくては。
彼の言葉を無視してぐっと腕に力を込めた彼女だったが、変わらず話し続ける彼の言葉に目を見開く。今、何て。瞬間的に緩んだの腕を掴んでそっと首から離させる彼。そこにはの手の平がくっきりと赤く痕を残していた。
――嘘だ。子どもってどういうこと。
動揺を露わにするに、シンドバッドはゆったりと微笑んだ。
「ヤムライハの話ではまだ小さいが、君の中には新しい生命が宿っているんだよ」
の下で真っ直ぐ見上げてくる彼の瞳の強さにびくりと肩を跳ねさせ、彼女は彼からふらふらと退いた。そのまま力が抜けて床にへたり込めば、彼は起き上がってのことを見下ろす。
「だから、俺を殺したいならもっと元気になって、子が独り立ち出来るようになってからおいで」
その言葉に、何も返せなかった。ただただ、俯いて床を見つめる彼女にシンドバッドは静かに部屋から出て行った。何で、今更。そっと、手を自分の腹部に押し当てる。何も感じない。ただ、自分の温もりが伝わって来るだけで。
そろそろ、と目線を上げて窓から外を見上げる。そこには青い空に煌々と輝く太陽が。その暖かな日差しがを照らし出す。それに、勝手に涙が溢れた。
「酷い………ひどい…」
床に蹲って腹部を抱える。にはそこに紅炎の子どもがいるなんて分からない。何も感じられない。それなのに、シンドバッドは確かにいると言う。既に死んでしまった紅炎の命の欠片がそこにあると。
――酷い、こんなものを残していって……。
これではいつまで経っても紅炎を忘れることなんて出来ない。ずっと、ずっとほしくて堪らなかった彼との子など。彼の面影があるその子を腕に抱けばもう、きっとは一生彼に囚われたままだ。いつまで経ってもこの苦しみから逃れることは出来ない。
「紅炎さん……っ」
の口から溢れる嗚咽。酷過ぎる。あなたの子どもを残していくなんて。どうして、私たちの傍にいてくれなかったの。父親の顔すら知らずに成長する我が子のことを思うと胸が張り裂けんばかりに傷んだ。


 それから暫くして、シンドバッドはシンドリアへと帰ることになった。勿論、七海連合の者たちもそれぞれの国へと戻ることに。はシンドバッドに「簒奪者の后という身分では宮中に身を置きずらいだろう」などと強制的に連れられて来られたが、このシンドリア特有の暖かな気候にも、鮮やかな草木花にも、何一つ心は躍らなかった。
ただ、ただ、毎日紅炎の形見である冠を手に持ち眺めるばかりの日々が過ぎていくだけで。子を産む為に栄養を取らねばならないという義務感から、食事は欠かさなかったが肉体面での健康が良い方向へと向かうのに合わせて、少しずつの心は暗くなっていく。
――このままではいけないのは分かっていた。
宮殿で子を産み、暫くすれば職を与えようと言ってくれたシンドバッド。彼への憎しみはの中に残っているけれど、この腹の中にいる子を思えばシンドバッドを殺して自分も死ぬなんてことは出来なかった。だが、ここで産んでどうする。
ぼんやりと、夜のシンドリアの空を見上げる。夜空は煌帝国と同じそれなのに、建物や植物が違うだけで見慣れない景色へと変わって。ただ、無性に寂しかった。煌帝国の宮中で未だ一人で頑張っているだろう紅玉にも、どこかの島へと流された紅明と紅覇にも会えないことが。、と呼んでくれた紅炎の瞳を見つめることすらできないことが。
――逃げないと。帰らないと。
衝動的には寝台から立ち上がった。の居場所はシンドリアではない。紅炎が、大切にしてきた白龍と戦ってまで守ろうとした煌帝国なのだ。
そっとまだまだ脹らんでいない腹部を擦っては窓の下を見下ろす。この子は、煌帝国で産みたい。外には数人の衛兵が見張っている。どうしようか、と思ったであったが、不自由ないようにとシンドバッドから渡された硬貨が机の中にあることを思い出して、それを全て取り出した。
 部屋から抜け出して、衛兵に見つかる旅にその硬貨を渡して見逃すようにと命じた。そのままはあはあと息を乱して時々走りながらも早歩きで港へと向かう。夜の街は色恋に頬を染める男女や、日頃の疲れを酒で癒す者たちで賑わっていた。それを見る度に心はズキズキと痛む。形は違えど、紅炎とだってお互いを想い合っていた。
「紅炎さん……」
会いたい。自分の耳にすら届かないような、小さな言葉。周囲の者たちが楽しんでいるその空間を無心で抜けた彼女は、漸く辿り着いた誰もいない港に無性に泣きたくなった。船がいくつも泊まっている中で、どこかしらの貨物船に乗り込んでこの国を出ようと画策する。問題は、どこ船が煌帝国の近くの国に行くか。
きょろきょろ、と周囲を見渡して当たりをつける彼女。失敗すれば、きっとシンドバッドに連れ戻されて閉じ込められる。そういう恐怖もあって、彼女の心臓はどくどくと緊張に喚いた。
「   」
ふと、幻聴が聞こえた。それは聞こえる筈もないものだ。だって、今の声は、と呼ぶその声は。
「こんな夜更けに丸腰の女一人で、お前は本当に危機感が死滅しているな」
背後から聞こえたそれは、紅炎のものだ。嘘だ。なんで。震える身体は固まって、後ろを見ることが出来ない。見るのが恐ろしかった。だって、振り返ってそこに誰もいなかったら。もしも、シンドバッドの声を悲しみのあまりに紅炎のものとして聞きとっていたら。ガタガタと震える腕。それを、逞しい手がそっと掴んだ。
よく知っている、手の形だった。
、待たせたな」
「こ、こうえ、んさ……」
がゆっくりと振り返ったその視線の先には、旅装束の紅炎がいた。すっぽりとフードをかぶって周囲の者から顔が見えずらくしている彼だったが、にははっきりとその顔が見える。
――嘘。幽霊じゃない?生きてる?どうして?なんで、ここに。
頭の中で抱えきれない程の言葉が暴れ回って。胸は歓喜で締め付けられて今にも破裂してしまいそうに痛んで。唇から言葉が出ない代わりに、の瞳からはぼろぼろと涙が溢れた。それを、彼の右手がそっと拭う。その手の温かさに、は漸く目の前にいるのが紅炎なのだと実感できた。
「紅炎さん…!」
「お前を探すのに時間がかかった」
何度も彼の名を呼んで涙を流すを、優しく片手で抱きしめる彼の胸元にぎゅっと縋りついた。
――良かった。生きていてくれて、良かった。良かった……!
思いはそれだけで。ただただ彼の生存に安堵して視界がぐらぐらと歪む。彼女は瞬きするのが恐ろしかった。だって、瞬きした瞬間に彼が消えていたら。これがただの幻想だったらどうしよう。
「紅炎さん…っ、愛してます、愛しています……」
「俺もだ、。だが、何もかも失った俺についてくるのか」
口から自然と溢れ出す言葉は、彼への愛。彼の胸に顔を埋めて、ずっぽりと身体を隠される。それに、涙が出る程安堵した。この触れている身体は確かに紅炎のものだ。血が巡り、心臓は音を立てている。
だが、紅炎の言葉に現実に引き戻される。お前は、ここにいた方が幸せなのでは、という彼。それに目を見開く。確かに紅炎は皇子という立場を失い、身体も満足に動かせないようになってしまって、生きていくには苦労するだろう。
――だけど、それがなんなの。
ぶわり、と再び溢れ出した涙。の腹には彼の子どもがいる。今はまだ命の躍動さえ聞こえないけれど、いずれそれを感じられる時が来る。その時、傍にいてほしいのはシンドバッドではなく、紅炎だった。彼だけだった。どんなに苦しむとしても、が求めているのはただ一人。
「当たり前じゃないですか…あなたの傍にいさせてください」
ぐっと眉を寄せて彼を見上げる。震える唇で、彼に伝えるのはが一番望んでいることだ。
――だって、だって、世界で一番愛しい人。私は、あなた以外に愛されたくない。
そっと、彼の手を取って自分の腹部へと持っていく。ここに。彼の目を見つめて、そう言葉を紡ごうとしたを、目を見開いた紅炎はかき抱いた。
「愛している。お前を、誰よりも」
その言葉に、温もりに、片腕とは思えない力強さに、は声を上げて泣いた。ただただ、嬉しかった。この腹に彼の子がいることは、言葉が無くとも伝わっていて。彼から与えられる愛情が、世界で一番の幸福で。
これからどんなに辛い試練が待ち受けていたとしても、どんなに乗り越えられないような困難が二人の前に立ちはだかったとしても、彼と二人、そして将来生まれるだろう子がいると思えば、必ず乗り越えていける筈だとは思った。

――死ぬまで、あなたと一緒にいたい。


2016/01/29


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