思い出すのは、散る赤の鮮やか

 白龍との戦いの火蓋が切って落とされてから数時間。東西両軍の兵士たちの被害を最小限で抑えて華安平原の戦いは終幕に向かうところだった。既に紅覇と紅玉が魔力を大量に消費しているだろう白龍のもとに向ったと聞き、これで戦が終るのかとはほっと一息吐いた。
そっと窺ったアラジンの顔は冴えない。それもそうだ、彼はこの戦を止めるためにアリババと共に白龍とジュダルのもとに向い、結果としてアリババを失い帰って来たのだから。とてアリババの死に悲しまなかったわけではない。数か月しか共にいなかったけれど、アリババが年の離れたにも明るく接してくれたことには感謝しているし、そんな彼とアラジンの仲睦まじい様子を見ていることも好きだった。ただ、あの屈託のない笑顔を向けてくる、弟のような彼が死んでしまったという事実があまりにも急すぎて現実味がなく、未だに信じられないだけなのだ。ひょっこりと「アラジン、お腹空いたな」なんて彼が顔を出すような気さえする。

 ぼんやりとこの戦の結末を考えている時だった。何やら外がざわざわと騒がしい。ノックもなしに「閣下…!!」と青ざめた形相をする高位の文武官たちが倒れるように入ってくる。
「そ、外に…!沿岸からあの男が…!!」
「!!?」
目を見開き愕然としている彼らの言葉には目を見開いた。あの男とは。ぱっと瞬間的に頭に浮かんだ黒き長髪を持つ王。まさか、まさか。ガタガタと恐怖から震えだした身体に鞭打って、彼女は扉の外に駆けて行くアラジンの背中を追う。
――自分の目を疑った。
王宮の廊下から見えるバルバッドの沿岸に、巨大な鳥に乗った人影。その先頭には悠然と立つシンドバッドがいた。
「私は、七海連合の盟主シンドバッド王だ!!」
拡声器としての役割を持つ魔法道具を使い、盟友たる練白龍帝の要請により煌帝国内の内紛を収めに来たと言う彼。轟くその声には使命感がありありと満ちていたけれど、正直その後の白龍の言葉は聞くに堪えなかった。『己の欲望のために他国を侵略し続ける練紅炎』。そんな人などではないということを彼は知っている筈なのに、どうしてそんな嘘を吐くの。
「シンドバッドさん……」
嘘でしょ。擦れた声が彼女の唇から零れる。膝から力が抜けて地面にへたり込んだそこから、愕然として太陽を背にした彼を見やった。遠目には彼の顔なんて見えない。それなのに、彼女はあの恐ろしい程に輝く瞳がこちらを見ているような気がした。
『故に吾は七海連合と共に練紅炎を討つ!!!練紅炎は偽りの冠を脱ぎ捨て投降せよ!!』
響き渡る白龍の声に、一瞬でこの構図を読み取ってしまった。白龍は鬼倭国にしか頼りがないと思わせて、その実七海連合に力を借りていた。鬼倭国にはどれだけ金属器使いがいるのか分からないが、七海連合だけでも優に煌帝国西軍の所有者の数を上回る。
ぞっとした。最初から白龍はこれが狙いだったのだ。途端に命が惜しくなった者たちによって阿鼻叫喚の場と化した廊下。恐怖におののく貴族や文官たちに、顔が引きつる。なぜ今自分たちの保身ばかり考える。
開ききった扉からやって来る複数人の足音に、ははっと顔を上げた。先頭を行くのは勿論紅炎だ。
「紅炎さん……!!」
震える脚に叱咤して、彼の元に向かう。この場にいる者たち全てが紅炎に絶対の忠誠を込めた瞳で見上げる。もそれに加わりたかった。だけど、身体が固まって上手く動かなくて突っ立っていることしかできない。まるで、自分の身体が自分の意思の下にないような不安定さだ。
「まだやれます。今更旗色を変える者などおりませぬ!!」
「我々は最後まであなた様についていきます…戦いましょう!!!」
紅炎の前に跪き、ギラギラとした目で彼を見上げる彼らはこのまま戦っても自分たちが死ぬことは分かっているだろう。だが、最後まで紅炎を皇帝として命を全うする覚悟を溢れさせていた。白龍につくくらいなら紅炎と共に戦い死を選ぶ。恐ろしい程に紅炎に対して忠義を尽くす彼らにも同じ気持ちであった。だが、何よりもが願うのは彼が生きていること。
「いかがなさいますか!!?紅炎様!!!」
死ぬ覚悟を決めた者たち全ての、何よりも強い視線を一身に受ける紅炎。突き刺さる声と眼差しは彼のために戦うことを望んでいた。の口の中はカラカラになり、心臓に圧力がかかって胸が苦しくなる。恐ろしい程に耳元で心臓がけたたましく喚いていた。
それに対して紅炎は表情を変えずに彼らを見返して、沈黙を作る。その痛い程の沈黙に、の手の平には嫌な汗がじっとりと溢れ出す。だが、それを破るように外からシンドバッドの声が再び響いた。その内容に、わなわなと全身が震える。驚愕に目を見開いた者たちも、きっとと同じ気持ちだっただろう。
首謀者以外の罪は問わない。彼の言葉を要約するとこの一言になる。
――それでは、それではもう。
愕然として紅炎を振り返れば、紅炎の表情は先程と変わってはいないが既に腹を決めた様子。やめて、お願い。彼女は開いた彼の唇に耳を塞ぎたかった。
「俺は、投降する」
やはりそう言った彼に、黒惇と炎彰たちはぐっと眉を寄せ激情に身体を震わせる。彼らは分かっている。紅炎は弟妹や従者、そして紅炎に帰順した者たち全ての命の代わりに自分の命を差し出そうとしていることを。このまま戦っても勝ち目がないことなど戦況を見極める目がある紅炎ならとうに理解している。それゆえ、自分の命一つで全てを終わらせようとしているのだ。にはそんな彼の考えが痛い程理解できた。
「――嫌です。嫌です…!」
一人、外へ向かおうとする紅炎の背中に縋りついて引き留める。これから言うことはとても愚かなことであり、彼の矜持を傷付けるだろう。だが、の口は止まらなかった。ただ、彼に生きることを諦めてほしくない一心だった。
「紅炎さん、逃げてください!地位なんていりません。命があればまたやり直せます…だから、お願い…お願いです」
泣きじゃくるに紅炎は足を止め振り返った。彼女の視界は涙で歪んだけれど、紅炎の厳しい表情がしっかり見える。
、ここで俺が逃げて紅明や紅覇、紅玉の覚悟はどうなる?…お前にも分かっている筈だ、お前は馬鹿ではないからな」
上に立つ者は下の者を守らねばならない。そして一国の前に個人など関係ないのだ。そう静かにに言い聞かせる彼。彼女はそれに瞳から涙を溢れさせることしか出来なかった。全身がガタガタと震えて、頭は真っ白だった。
――私の一言で止まってくれる筈がないと分かっていた。分かっていたけど、願いは捨てきれなかった。どうしてあなたはここまで素晴らしい王なの。酷い王なら自分のことだけを考えて逃げてくれたのに。そっと、の頬を撫でて手を放す彼。待って。行かないで。必死に言葉を紡ごうとするけど、声は擦れてまともな音にもならなかった。
「息災に暮らせ」
そう言って背を向けた彼には手を伸ばした。行かないで欲しい。ここにいてほしい。どうにか投降しないで済む方法を、彼だったら考え付く筈だから。だけど、足が動かない。
「――紅炎さん…!!」
はその場に崩れ落ちて蹲った。


 紅炎が白龍に投降してから三日目。はその間ずっとこの国の法律書を読み進めていた。どうにか、紅炎を助けられる手を探すために。だが、何も無かった。無駄な時間であった。
「…………」
心の中の虚無感に、今にも倒れそうだった。涙すら枯れたように、目が乾燥している。今まで三日三晩寝ずに何かを調べることなどしたことすらなかったから、身体ももう限界で。目の下の隈は相当酷いだろう。ふらふらとした足取りで自室を出る。女官たちが付き添いますとやって来たけれど、「良いです」と断って一人で歩く。一人になりたかった。
向かうは白龍のもと。正統な皇帝としてバルバッドの地に降り立った彼。は随分と前に顔を合わせた時の彼のはにかんだ顔を思い出していた。それでも、心には何の感情も現れない。
近衛兵が控える大きな扉の前に着いた。ふらふらとした足取りでやって来たに彼らは膝を折って礼をするが、多少困惑したようである。
「陛下にお目通りを…」
「皇帝陛下は只今どなたともお会いになりません…」
ぺこりと頭を下げた彼女に、彼らは申し訳なさそうに口にする。なぜ。長く言葉を吐くことすら億劫で端的に言葉を発せば、彼らは「それは…」と口ごもる。どうやら彼ら自身もその理由は教えられていないらしい。
「それより、きちんとお休みになられていますか?」
「お顔の色が優れませんよ…」
常に臣下たちに対しても平等に接してきた彼女を、彼らは心配した。紅炎の后として威厳を持たなければならない立場にとっては、あるまじき行為だったかもしれない。だが、このように自分の身体を案じてくれる者がいるのは単純に嬉しかった。この優しい心を紅炎にも。そこまで考えて彼女はふるふると頭を振る。
「どうしても白龍陛下に申し上げたいことがあるのです」
どうか、仲介してください。目の下に濃い隈を作り顔色悪いに跪かれた近衛兵たちは途端に慌てた。紅炎が反逆者として捕えられたとしても、の身分は変わらずにそのまま――に関して白龍が少なからず官僚や貴族たちに働きかけてくれていたのだろう――だ。もちろん白龍が皇帝になってから彼女の皇太子妃という立場は無くなったが。
どうかお顔を上げくださいませと心底参った様子で狼狽する彼ら。その喧騒に気付いたのか、中から扉が開く。
「どうした?騒々しいな」
「白龍陛下!」
近衛兵ははっと目を見開き、膝をつき彼を見上げる。もまた彼のことを同じように見上げた。だが交わった視線にあの頃のような友好的なものはない。冷え切った瞳と絶望し疲れ果てた瞳。一度瞬きをした彼は「どうぞ」とに扉を開いた。それに、ありがとうございますと再度頭を垂れは彼が促すままに部屋の中に入った。
上座に座った彼が勧めた腰掛けに腰を下ろし、彼を見つめる。
「酷い、顔だ」
「どなたのせいだと…」
無表情のままの顔を見た彼の言葉に、も無表情で返す。もう、体力の限界から表情を作るのさえ労力を要するのだ。その無礼な様子にも白龍は何も言わずにいる。それどころか、話があってきたのではとに話すことを促す彼に彼女は単刀直入に切り出した。これ以上つまらぬことをしている暇もない。今は時間が惜しかった。
「白龍陛下、どうか私も紅炎様と共に断罪なさってください」
「愚かな人だ。…あなたは紅炎に故郷や家族友人全てを奪われたのに、そんな男と結婚しその上一度は助かった命を捨てるなんて」
彼は初めからがそういうことを予知していたかのように表情を動かさなかった。しかし、溜息を吐いた彼の言葉は多少彼女の考えを引き留めようとするような気がある。やはり、が牢獄に入れられなかったのは白龍が心を砕いていてくれたからだったのか。
だが、それは今の話とは別。言外に、なぜ紅炎にそこまで追従するのかと問われているような気がした。あの人を一人で反逆者にしたくはありません。そう呟けば、彼は今までの無表情から一転して激情を露わにした様子でダンッと机に拳を叩きつける。
「…!!なぜあなたはあいつを恨まないんだ!」
「――恨みました、最初は…。だけど、愛してしまったから…、だから許せたんです…。」
白龍陛下、あなただってあの人に昔から愛情が無かったなんて言えますか?思わず出かけたその言葉を彼女は飲み下す。訊かずとも、分かっていた。彼はきっと、紅炎のことを従兄として慕っていた筈だ。全てが狂いだしたのは、彼の父と兄たちが玉艶に葬られてからだろう。その言葉に彼はぐっと眉を寄せ納得していない様子だった。
俺なら許せないと思っているのだろう、と彼女は推測できた。だが、彼女は紅炎の為に許したのではない。自分が前を向いて歩けるように、彼を許したのだ。だからこれは全て自分の為。
「あなたのそれは自己満足だ。あなたがあいつと一緒にいたってどうにもならないのに」
「…分かってます。でも、最後まで共にいさせてください」
白龍の言葉は耳が痛かった。そっとは目を伏せる。彼女は自分でもこの決断が何の意味もないことを分かっていた。だが、紅炎の傍にいたいのだ。最後まで后として夫の隣にいたい。そして、紅炎の苦しみを少しで良いから分かち合い、彼のことを守りたかった。おこがましいかもしれない、彼はどんな時でも弱さを見せてくれないから。だけど、全てをシンドバッドの思い通りにさせたくないのだ。
良いでしょう。頷いた白龍に彼女は頭を垂れた。


 一日経って簡素な着物に着替えて腕を縄で拘束され、彼が過ごしている部屋に通される。普段はまともに表情を動かさない紅炎が、この時ばかりは目を見開いてのことを見やった。ああ、この顔は責められる。
「お前、何をしている!?」
ガタリ、と椅子から立ち上がった彼がのところまでズカズカと歩み寄り、鋭い瞳で睨み下ろした。溢れる怒気に、は情けない笑みを浮かべた。じわりと滲んだ涙は、紅炎の顔を見ることができたことへの安堵と、自分からここへ来たというのにこれでもう逃げられないという恐怖。馬鹿だ。白龍の言う通りではないか。だけどあの時紅炎と約束したことは。
「約束してくれたじゃないですか。私の誇りを守るって…最後まで一緒にいさせてください」
「愚かな」
にとっての誇りは紅炎そのものだった。その誇りを守るためなら、何だってする。彼女が共に死ぬことで事態が好転するわけではない。だが、紅炎は一人で民衆に晒されず歴史上で謀反者として書かれることはなくなるだろう。にも等しくその悪意は向けられる筈だ。
ぐっと眉を寄せ涙を流す彼女に、彼は言葉と裏腹にその胸に抱き寄せた。両手が塞がれているためぎこちない動作だったが、はそれだけでもう涙が止まらない。この人の輝く魂を少しでも汚れさせないためにが出来ることは傍にいることだけ。
愚図でごめんなさい。私がもっと頭が良ければ、あなたを助けられたかもしれないのに。涙ながらに震える声でそう伝えれば、彼は愚図め、と呟いた。その声音が予想外にも優しくて、愛しさが込められていて。彼の胸に額を擦りつければ彼はの頭に顎を乗せ、不自由な手で彼女の腰を強く引き寄せた。
――あなたがいない天国より、あなたがいる地獄を選ぶ。堕ちるなら共にどこまでも。
はこの温もりを最後まで手放したくなかった。

 白龍が紅炎と話をつける為にやって来た。彼らの会話をじっと黙って聞いていただったが、白龍とアラジンがこの場を去った直後、とうとう我慢しきれなくなった涙がぼろぼろと頬を伝って床に落ちる。
「――なぜ、お前が泣く」
「だって…!悔しい……!!」
嗚咽を押さえきれずにいれば、隣で椅子とも言えないような簡素なものに座っていた紅炎がの頬に手を伸ばす。そっと触れたその手に、は耐え切れず彼の膝に崩れ落ちた。ぐっと彼の膝にしがみ付いて額を押し当てる。
――だって、どうして…!!
は知っていた。紅明や紅覇のように長い時間を共に過ごしたわけではない。彼が絶望した瞬間を共にしたわけでもない。だけど、彼は一度だけ明かしてくれたのだ。いずれは白雄たちの仇を取りたい、と。
それなのに、実際は白龍にその機会を奪われるばかりか、彼が復讐を果たしてしまって。羨ましい、と。ふがいない兄で申し訳ない、と。
――紅炎さんは全然ふがいなくなんてないのに。
彼はこの国を第一に考えて行動してきただけだ。彼なりに、白雄たちの意志を受け継いで世界を統一しようとしていた。そんな彼が、彼が。の胸は数多の感情が鬩ぎ合って苦しかった。
――悲しい。

ぐい、との腕を引っ張りそのまま彼女の身体を不自由な腕で持ち上げる彼。それに目を見開く。そのまま彼は固い寝台に横たわり、自分の胸板にの頭を乗せる。
「……本来であれば、俺の后など外交上の駒の一つだったんだがな……」
ぽつり、と呟かれた言葉に奈津は意識を向けた。すん、すんと鼻をすすれば彼がそっと腰に回していた腕の力を強くして。それに奈津は先程までの悔しさだとかが少しずつ収まっていくのを感じた。
「どこかの国の姫でなく、お前が后で良かった」
「ありがとうございます………私も、あなたが夫で幸せでした」
そっと呟かれたその言葉は、寒々とした牢獄にとけて消える。だが、はそれだけで胸を掻き毟りたくなるような激情に襲われた。礼を言う言葉さえ震えて。止まることのない涙が彼の胸元を濡らす。
――本当に、本当に私はあなたの妻で良かった。
身体の向きを変えて向かい合うたち。このまま永遠に時が止まっていれば良いのに、とは思った。

 斬首刑の当日。前夜にフェニクスを使って白龍の身体を元に戻した紅炎はその代償として自分の左腕と両脚が使い物にならなくなった。両脇を抱えられて処刑台へと歩く彼の背中を、後ろから見つめる
――本当は今にでも逃げ出してしまいたいくらい怖い。死ぬことは嫌だ。痛いのも嫌だ。もう、この世界の友達とも一生会えなくなるのも、その人たちの記憶からいずれ消えてしまうことも恐ろしい。だけど、紅炎を一人謀反者として死なせるのはもっと嫌だ。
だから、この震える身体も、今にもはち切れてしまいそうな心臓も、我慢することができる。覚悟を決めたその瞬間。外の光の強さに一瞬立ち止まった紅炎が、を振り返る。
、滅多に言わなかったが、愛している」
外の喧騒にかきけされてしまいそうな彼の声。それはの鼓膜を確かに揺らして。大きく目を見開いた彼女はわなわなと唇を震えさせた。
――知ってる。…知っている。
言葉で表されることは本当に少なかったけれど、彼はそのぶん態度と行動で示してくれたから。私も愛しています、と言いたかったけれど震えるばかりで動かない唇に、今その言葉を口にしてしまえばみっともなく泣くのは分かっていた。
カッと熱くなった目頭に、ぎゅっと瞑目する。首を縦に振ることしか出来なかった。言葉を返せないだったが彼は彼女の心の声が聞こえているかのように、ああと頷いた。
再び歩き出して処刑台に上る紅炎。膝を着いた彼の隣にも腰を下ろした。
「これより!!謀反人・練紅炎とその后の処刑を行う!!」
役人によって罪状が叫ばれている中、は広場に集まった民たちの憎悪の籠った瞳に身体を震えさせた。だけど。
――ああ、あなたが死を目前にしながらも煢然として前を向くなら、私もそうあらねば。
白龍の腕が振り上げられる。それが、振り下ろされる間際、は彼に目を向けた。最期にもう一度、私の名前を呼んで。

「紅炎さ」
かち合った瞳。震える吐息。唯一鼓膜を揺らした、紅炎の愛しい声。
――さよなら世界。またあなたとお会いできますよう。
彼女の視界は真っ暗闇になった。


*****

 からんからん、と扉に取り付けられたベルが軽やかな音を立てた。客の来店を告げるその音に、を見た店員の女性がいらっしゃいませーと笑顔を向ける。大学で課題として出されたレポートを進めるために、この店にやって来た彼女は、とりあえず何か飲み物を頼もうとカウンターに向かう。カウンターの奥やカウンターの上に載っているメニューに走らせる目。店内のBGMで流れる洋楽のラジオが、物静かなラジオパーソナリティの話し声に変わるのを聞きながら、はカフェモカを頼んだ。
『先程の曲のテーマでもあったんですけど、運命の赤い糸って良いですよね…ロマンチックで。中国から発症したってこと、知ってました?』
『え、知らなかったです。良いですよね〜、私も運命の相手見つけたいです〜』
天井から聞こえる彼らの声に、何とはなしにちらりと左手の小指を見下ろして見た。だが、そこには綺麗に蝶々結びをされた赤い糸など見える筈もなく。
――運命の人なんているのかな。ぼんやりとカフェモカを渡されるのを待つ。支払いを終えた財布を鞄の中にしまい、店員からどうぞと渡されたカフェモカを持って席を探した。きょろきょろ、とどこに座ろうかと目を動かす中で、ふと歩む先に赤い髪の男性を見つけて、惹きつけられる。
――赤なんて、珍しい色。
染めているような汚い色ではなく、地毛として赤々と輝くその髪の毛。その背中はがっしりとしていたけれど、スーツの肩越しから見える書類に意外と頭を使う仕事なのかもしれないと思ってそこを通り過ぎる。それがいけなかった。向かいから歩いてくる高校生の男の子と、彼女は擦れ違いざまに肩がぶつかる。
「熱っ!」
「だ、大丈夫ですか!?」
ぶつかった衝撃でカフェモカが手にかかって、その熱さに耐え切れずマグカップを床に落としてしまった。ガシャァン!と陶器が割れる鋭い音が、落ち着きある店内に響き渡る。お客様、どうされました!?と慌ててやって来た店員の女性にぶつかった男子高校生は俺がぶつかったのだと説明してくれるけれど、は驚きのあまりに目を見開くことしか出来なくて。何だなんだ、と静寂を切り裂いた音に周りの客から好奇の視線を向けられた。は、恥ずかしい。一瞬にしてかぁっと熱くなるの頬。
すみません、と蚊の鳴くような声で二人に謝れば、俺こそすみませんと金髪の彼は眉を下げてしまう。店員の女性が氷水を入れたビニール袋を持って来てくれてそれを手に当てた。だが、直接肌に感じる氷の刺すような冷たさに、皮膚が痛みを訴える。火傷をしたかもしれないそこはヒリヒリとして赤くなっていた。
いた…。本当に小さく呟いたそれは自分の耳にさえ届いたか分からない。だが、彼女のすぐ背後から声がかけられた。おい。その言葉は最初自分に向けられているものだと気付かなかったはそのまま氷水で手を冷やす。だが再度聞こえる声。
「おい、これを使え」
「え――」
ぐい、と腕を引かれて振り返ったそこには、先程が見つめた赤髪の男性がハンカチを手にしていた。その黄金の瞳に、彼の表情に目を見開く。その瞳と彼女の瞳が合った瞬間静電気のようなものがバチッと身体に走って。全身の血流の巡りが速まり、心臓が今までにない程脈打った。絡み合った視線はとけて、甘い疼きを彼女の胸に生む。なに、これ。

『運命の赤い糸って良いですよね、ロマンチックで』

刹那、先程聞いたラジオの話を思い出す。その時は運命の赤い糸なんて信じられなかった。そんな見えないものに支配されるはずが無い、と。だけど。
見つめ合い、時が止まったようなこの空間では確信した。

――私はこの人に、恋をする。


2016/01/29


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