よしなよ、もう手遅れだ

 紅炎を始めとして紅明と従者たち、そしてアリババが世界会談に向かってから数日。今頃彼らは会談の会場に着いた所だろうか。はアリババがバルバッドに来てからというもの、彼と紅炎の関係を案じてばかりだった。あの時、確かに友だと言ってくれたアリババだったが、紅炎の彼への措置があまりにも手厳しくて。
はぁ…と溜息を吐いて彼女は窓の外をぼんやりと眺める。太陽の眩しさに眉間に皺が寄った。眩い光にチカチカと目が眩んでそっと視線を下に下げる。そこには、いつものように仕事に従事している文官や女官たちが元気に歩き回っていた。
――耐えねばならないことだと分かっている。
ズキズキと痛む胸も、綺麗ごとばかり並べてしまう頭も、今この時は耐えねばならないのだ。そう思うのは、ひとえに紅炎の存在があるから。
アリババは、どことなくお前に似ているな。出発する前に彼女にそう言った紅炎。彼とアリババ、紅明のことを瞼の裏に描いて、彼女は目を閉じた。

それは、マグノシュタットとの戦が終った後のことだった。紅炎、紅明、紅覇、紅玉、白瑛、その5人の皇族と従者たちが多少疲弊してバルバッドへと帰ってきた夜。無事に彼らが帰ってくることばかりを心配していたはその報せを聞いて漸く安堵できたのだが、就寝着になっているのに未だにどことなく険しい顔をして寝所にやって来た紅炎に、どうしたのかと新たな不安が頭に過る。
「紅炎さん、お帰りなさい」
「ああ」
無事で良かった。そう呟きながら傷が無いか探す為に彼の身体を見回す彼女に、紅炎は何も言わずに手を伸ばし、彼女の頬を撫でた。その手付きが、強面で無骨な手であるにもかかわらず壊れ物を扱うかのように弱々しい力で、は思わずその手をぎゅっと握りしめた。この人は、今更何を躊躇うのだろう。
、お前に話さなければならないことがある」
「……?」
「この国の“闇”だ」
そっと頬から手を放し、寝台へとを導き腰掛けた紅炎。彼の様子に、ごくりと生唾を飲み下す。闇が何なのか全く想像出来なくて瞬けば、彼は寝台の上であぐらをかいてのことを真っ直ぐに見つめた。それに、正座をしている彼女の背筋も自然と伸びる。婚儀を終えた後に彼らが戦争を失くすために世界を一つにしようとしていることは詳しく聞いていたが、まだ何かあるのだろうか。やや、緊張した面持ちのに彼は口を開いた。
「この国にはかつて、偉大な白徳大帝と太子が二人いた」
紅炎の煌めく黄金の瞳は過去を懐古するかのように細められる。それには惹きつけられた。じっと、彼の言葉に耳を傾ける。
――二人の皇子の名は白雄と白蓮。白龍の実の兄である。紅炎は、皇太弟の息子として白徳帝並びに彼らの力となるべく尽力していた。煌帝国がまだ煌という小国であった時、呉や凱といった国々と戦い一つの国としてまとめ上げられたのは、白徳大帝たちの力があったから。
「だが、陛下たちはある者に殺された」
「だ、誰に…」
普段は感情を露わにしない彼が、微かにでもその二人の名を口にする時に眦に力が込められているのを見てしまったら、その二人が彼にとっては大切な存在であったことなど一目瞭然だ。だからはぐっと胸を締め付けられた。彼がここまで敬愛していた彼らが誰かに謀られた事実に。
――練玉艶。
冷たい響きで吐き出されたその名に目を見開く。それは白龍と白瑛の実母であり、今では紅炎たちの義母としてこの煌帝国で第3代目皇帝の座に着いている女性ではないか。そんな人がなぜ。には彼女が夫と実の息子を殺害する理由が分からなかった。
「あの女は自分の目的の邪魔になる三人を排除したかったのだ」
アル・サーメンの首領である玉艶の目的はイル・イラーを再びこの地上に下ろし世界を暗黒に染め上げること。操りがたい白徳帝を暗殺し、それをどこかで察知していた皇子二人は身罷られ、操るのには最適な愚鈍な紅徳を皇帝へと持ち上げ、彼女はその正室という座に着いた。紅徳が皇帝となったことで皇位継承権第一位は紅炎となり、彼は正当な太子となり、対極的に白瑛と白龍は紅徳の慈悲のもとに養子として皇女・皇子の地位を与えられたのだ。
紅炎の言葉に、はただ固唾を飲むことしかできなかった。だって、あまりにも酷すぎる。あの時、に優しく話しかけてきてくれた白瑛と白龍が、そんな生い立ちだとは全く知らなかった。知らずに、どうにかして玉艶に紅炎の正室として認めてもらおうと必死になっていた。
何と言葉にすれば良いのか分からなかった。何かを口にしようとして開いた唇から微かに空気が漏れるのみで。そんな反応さえも分かっていたかのように、紅炎は彼女の動揺のあまり揺れ動く瞳を見つめ静かに語った。
「血筋では、白龍の方が王には相応しい。だが、俺はこれからも玉艶の力を使い、世界を一つにするだろう。この国を守るためなら、どんなに汚い手だって使っていく。たとえ、それが国に巣食う化け物の力だとしても」
「………」
白龍を王にしてはならない理由。それは明かされなかったけれど、には彼の決意が痛い程伝わってきた。彼はきっと託されたのだ。がまだこの世界に来るよりもずっと前に、彼の皇子たちからこの国の、世界の未来を託された。
彼の黄金色の瞳からそれを感じ取ったはそれに恐る恐る頷いた。その思想のもとに、白龍と白瑛が犠牲になっている状況を見て見ぬふりをした。でなければ、彼のことを受け止めきれない。あまりにも眩しい光を放つ紅炎に、は圧倒されるしかなかったのだ。彼と出会った当初はなぜ彼らが戦争をするのか分からなかった。だが、徐々ににもその理由を教えてくれるようになった彼ら。そんな彼らの思いに応えたかった。
――だって、何よりも愛しいのはの目の前にいる紅炎だから。
「今この話をしたのは、マグノシュタットであの女が望んでいたことが起きたからだ」
「――イル・イラーが降臨したんですか…!」
先程までの恰好を崩し寝る体勢に入った彼に追従した彼女だったが、その言葉にはっと目を見開く。道理で戦争を起こした時以上に疲れている様子で彼らが帰って来たわけだ。イル・イラーがどんなものか知らないが、世界が死に絶えるほどだ、彼らがそれを阻止し無事に帰って来られたこと自体が奇跡に近かったのだろう。
今頃ぞっと背筋が凍る思いをしたに、彼は手を伸ばしその身体を逞しい腕の中に閉じ込めた。与えられた温もりに目頭がぐっと熱くなって、喉に熱い塊が押し上がってくる。
「大丈夫だ。ここにいる」
「こ、うえんさ…」
ぺたぺたと彼の存在を確かめるように頬を、首を肩を触るに紅炎は耳元で囁いた。大切な人たちがそんな危険の中にいたのに私は何も知らなかったなんて。涙で歪んだの世界に、紅炎の穏やかな顔が映る。
この世界では、いつ何時人が死ぬか分からない。それが、魔法だとか神だとかのわけの分からない力のどれによってかは知らないけれど。そしてその中でも国を守る立場にいる紅炎たちは、より死に近いのだということを思い知った、そんな晩だった。

「皇太子妃殿下…!!」
「!――どうしました?」
思考の渦に囚われていたのもとに慌ただしく武官たちがやって来た。ノックの音もやや荒々しかったが、入ってきた男たちの表情の険しさに、緊急事態だと悟る。慌てて扉付近にいる彼らのもとへ走れば、彼らは膝を付いて彼女を見上げた。
「我が国の皇帝陛下が…!!白龍皇子に謀殺されました…!!」
「え…!?」
驚き目を見開く彼女に、彼らは白龍が率いる反乱軍が帝都の守備兵団を壊滅し、残存兵は征西軍を頼りにバルバッドへ向かっているという報告を伝える。彼ら自身も、と同じように信じられない様子であった。その様子に震えが走る。
――あの時、私が見て見ぬふりをしたからなの?白龍くん…!
ぞっとした。母親を殺すという行動を開始した彼に、彼の次の目的を見出してしまって。
「――総督閣下や将軍たちには」
「既に伝文で会談中の閣下にも届いている筈です!」
動揺するだったが、見上げる彼らの不安に揺らぐ瞳にはっと意識を取り戻す。紅玉一人を除いて、紅炎や紅明を含む皇族の方々がバルバッドにいない今、彼らの上に立つのはなのだ。その事実を一瞬で把握したは耐えがたい重責に襲われた。
――紅炎さんたちが帰ってくるまで、何とか私がこの国を守らないと。
震えをぎゅっと拳を握ることで抑えつけて口を開く。
「今すぐ将軍たちを軍議に収集してください!総督閣下が戻られるまで、私が指揮を執ります…!」
彼女の顔は真っ青だっただろう。口の中がカラカラでありながらも指令を発した彼女に、武官たちは手早く礼をして部屋を飛び出して行った。彼らが去ったことで再び震えだした肩。それを自身の腕で抱きしめ、目をぎゅっと閉じる。そっと開いた目で窓の外を見下ろせば、そこは先程までとは違い、不安や恐怖が伝染し慌ただしい様子へと変貌していた。
「紅炎さん…紅明さん…!」
ぎゅっと両手を握りしめて祈る。早く、帰ってきて。


 紅炎たちはが将軍たちを収集し3時間軍議を行なったところでバルバッドへ帰って来た。いくらが何度も軍議の場に参加していたといえど、当時の彼女は発言を求められていなかった。その上、彼女は紅炎の后というだけで実質、将軍たちを指揮出来る程の権力はない。そんな彼女が将軍として力を発揮している彼らをまとめることができる訳でもなく、何とか議題を逸らさないようにするので精一杯であった。唯一救いだったのは、紅玉が彼らを諫めてくれたこと。
、良くやった」
殿は暫くお休みください」
肩に触れた紅炎の手に、微笑んでくれた紅明に安堵と共にどっと疲労感が押し寄せてきて、涙が込み上げてくる。だが、将軍たちがいる場で泣くことは出来ない。そっと会議室の外へと導いてくれる青秀にありがとうございますと言って、彼女は軍議からは一度離れた。

――あれから8日目。転送魔法で遅れて紅覇がバルバッドへと帰って来て、昼夜を問わず軍議は続いた。情報を集める為に駆け回っている武官たちに、その情報を分析しどの道が最適かを話し合っている紅炎たち。寝所に戻ってくる回数も少ない紅炎に、倒れるのではないかと不安に駆られたは特別に、会議に口を挟まぬということを条件に、世話役として三人だけの会議に参加できることになった。一日中話し合っている彼らは、が食事を用意しなければ空腹すら忘れてしまいそうで。
食事を女官から受け取る際に、扉の外で不安そうに警護している武官たちに「お疲れ様です」と声をかけるのはいったい何度目だろうか。
だが、それもそろそろ終わりに近づいているようだった。彼女は軍議の邪魔にならないように、と壁の側に置いた椅子に座り彼らの話を聞く。
「白龍が反乱を指揮し玉艶を殺したのは…事実です」
方々からの情報をまとめたと言う紅明。彼の言葉に、膝の上に乗せていた拳をぎゅっと握りしめる。やはり、間違いでは無かったのか。視線の先に見える、紅覇の悲痛気な表情にずしんと心が重くなる。従兄弟として義兄弟として共に暮らしていた彼らの心の悲鳴はいかほどか。表情には決して出さない紅炎と紅明の内情が明るくないと分かっているからこそ、酷く苦しい。
紅明が白龍が首都を陥落させるに至った方法を紅明が語る中、いやに心臓が五月蠅かった。それもそうだろう、紅炎の身内である白龍が反乱を起こすなんて。報せを聞いてから8日経っても落ち着く筈がない。
ジュダルくん……。ぽつり、と呟かれた言葉。それは紅覇ものだ。その声音からは、彼に対するまだ信じたいという思いが込められているような気がして、は唇をきゅっと結んだ。だけど、失礼しましたと言う彼にはなかったことにされてしまったけれど。
そこに紅炎の眷属の4人がやってきた。彼らの表情から彼らが持ってきた情報は芳しくないことが窺い知れた。
「白龍皇子が勅令を宣布しました」
楽禁の言葉にドキリと心臓が歪に跳ねる。聞いてはいけない気がする。は目を見開いて膝の上の拳を見つめた。わなわなと震えるその手は握りしめすぎて血の気を失っている。
――だって、玉艶様は白龍くんのお兄さんたちを殺して。そんな玉艶様と紅炎さんは…。

『逆賊 紅炎を討て』

彼の口から伝えられた白龍の勅令。その言葉に、の視界はぐらりと傾いた。だが、何とか持ちこたえる。紅炎の地位が不当に与えられたものであるため、即刻紅炎を討つべしという内容に心臓がばくばくと五月蠅く喚いた。白龍くんは本気なんだ。本気で、家族として十数年も共に生きてきた紅炎を殺そうとしている。そこに、慈悲など見えなかった。この文面から感じられるのは、彼の怒りのみ。ふらりと立ち上がって、自身の震える手と紅炎を交互に見やる。
戦わないで、と紅炎に言ってしまいたかった。
「すでに煌帝国の全兵力の8割が兄王様への帰順を表明しております」
「紅炎様……、紅炎様も皇帝としてお立ちください」
だが、そんなことを言えようか。ビリビリと刺すような緊迫感の中の彼らの顔に、そんなことはただの綺麗ごとなのだと痛感する。彼らは彼らの信念を貫き通して今まで煌帝国を守り繁栄させてきた。それに一番に貢献したのは言うまでもなく紅炎である。そんな彼を押しのけ皇帝になろうとする白龍を是が非でも阻止するのは、当たり前のことだ。
だが、血統で言えば白龍の方が相応しいのでは。そう言う炎彰にを含めこの場にいる者たちが目を見開いた。何しろ従者である彼からそんな言葉が出るとは思いもしなかったから。そんな彼に血筋の問題ではないと紅明が静かに言う。
「そうだ。血筋の正当性や皇帝になりたいかどうか、それは全く問題ではない。皇帝にしてはならない器がただ、存在する」
紅炎は紅明の言葉に頷き、全員を見渡した。その中には、溢れる不安を抑えつけようとしているも含まれていた。一瞬かち合った瞳に、は理解した。きっと彼もまたの心情を理解しただろう。
――紅炎さんはもう、決めてる。
ぐっと喉元にせり上がる熱の塊を飲み込んで彼の言葉を聞く。
「俺が、白龍を追い詰めてしまった」
玉艶よりやつをはるかに下に見ていた。白龍を王に立てることを諦め、かと言って御しきれず、ならば殺してしまうべきだったのに、それをしなかった俺の失態だ。
彼の目元は陰り、言葉は一言一言噛み締めるようにゆっくり吐き出されて。彼は、そうしなかった自身を責めているのだろうか。ぎゅっと目に力を入れていなければ、今すぐにでも瞳を熱くする涙が彼女の眦から零れ落ちてしまいそうだった。
「だが、俺は白龍に下るつもりは、ない」
鋭く光る眼差しでこの場にいる全員を射抜いた彼。その言葉に、とうとうの頬に涙が伝った。唇だけでなく、身体全体が震えているのかもしれない。からしてみれば、避けようと思えば避けられる戦いであった。だが、彼は煌帝国第一皇子として背負うものがある。何よりも自国のことを考えている彼だからこそ、この戦いに応じるしかないのだ。
では、戦うのですね。しん、と静まり返った部屋に確認する紅明の言葉が厳粛に響く。
「…すまない」
「…ついて行きます。あなたにどこまでも」
頷いた紅炎に、紅明たちは拳を重ね、どこまでも真っ直ぐな瞳で見つめた。彼らの信頼に足る王として、純粋な忠誠心と共に親愛の情を込めて。すまないと謝った紅炎の顔は部屋に差した光のせいで逆光になり、窺うことができなかった。だが、その言葉に込められた意味は彼女にも分かる。彼は、あまりにも優しすぎた。

「はい」
彼に呼ばれて、彼の前に出る。真正面から見つめてくる彼の瞳は、戦争がない世界を作ると言った時と同じように、痛いくらいに真っ直ぐで。だけど、を案じる色もちらり、ちらりと覗いていた。
言葉がなくとも、彼の思いは分かる。だって、夫婦としてずっと紅炎のことを見続けてきたのだから。見上げるの頬に伝った涙を両の親指で拭った彼に、彼女の心は決まった。
「何があっても、お前の誇りは俺が守ろう」
「…私の誇りは、あなたです…!だから、どうか、勝ってください…」
紅炎の言葉に涙が尚更溢れる。にはお金だって地位だって、何もいらない。ただ、紅炎が傍にいてくれればそれだけで良かった。彼女にとっての全ては紅炎なのだから。紅炎という男が彼女にとっての世界だった。
こんなに不安なのは、きっと白龍が金属器を二つも持っているからなのだろう。この人が万が一にも傷付くかもしれない、死ぬかもしれない未来が怖いだけなのだ。
だけど、覚悟を決めた。白龍を切り捨ててでも、彼女は最愛の人を選ぶことを決めたのだ。

「あなたと運命を共に」

は膝を付き拳を合わせ、紅炎の太陽のように輝く瞳を見つめた。
――もう、あの頃のように綺麗なままではいられない。


2015/01/22

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