mha

「あなたが新しい家政婦さん?」
「はい、奥様。と申します」
扉を開けて入室したに、白く、無機質な病室のベッドに半身を横たえている女性が微笑を向ける。儚くて、美しい笑みだとは思った。元気な姿で笑ってくれればもっと綺麗な人なのだろう、とも。
の言葉に彼女は困ったように眉を下げる。奥様なんてかしこまらないで、と言う彼女に、は戸惑いながらも頷いた。
「冷さん、でよろしいですか?」
「ええ、……名前を呼ばれたのなんていつぶりかしら」
そっと紡いだの目に、自分の名を噛みしめるような、切ない表情をした彼女が映る。

――が初めて轟冷という女性に会ったのは、轟家が普通の家庭と違うと気付き始めた頃だった。


22: どうして僕たちはだめなのか




体育祭の翌日。焦凍は二日間学校が休みのようだが、は社会人である為そんなことは全く関係なく、普段通り仕事をしていた。焦凍と緑谷戦で飛ばされていった筈のメモとボールペンは行方が分からず諦めていた彼女だったが、帰る間際になぜか鞄の中に入っていることに気付いて驚いたものだ。未だに鞄の中に入っていた理由は推理できていなかった。

――定時で帰宅した彼女は、今日は早く帰れたから冬美の手伝いをしなくては、と張り切ってキッチンへ向かう。冬美も昨日の運動会の代休として今日は家にいたようだ。
サラダを作っている彼女の隣に立って、メイン料理を作る為に鶏肉に包丁を入れていく。
「そういえば今日ね、焦凍がお母さんのお見舞いに行ったの」
「えっ、冷さんの所に?」
目を丸めてどれだけ吃驚したか、と表現する冬美につられても目を見開く。話では焦凍は一度も母親の面会に行ったことは無かった筈だ。
「お父さんにも言わずに行っちゃったんだよね。帰ってきたら何だかスッキリした顔してたから、そこまで心配することないのかもしれないけど…」
「いきなりだから冬美ちゃんも心配よね。…もしかしたら体育祭で何か心境の変化があったのかしら」
野菜を切りながら眉を下げ「うーん」と唸る冬美は焦凍にお見舞いの件を訊ねるかどうか迷っているようだった。それにが苦笑してしまうのも仕方ない。も自分の気持ちとしては、今すぐにでも彼にその心境の変化を聞きたいと思ってしまうのだから。
――心境の変化を誘発したのは、きっと緑谷と戦闘中に行っていた会話ではないだろうか。ふと、そんな考えが閃く。自分だって優勝したいはずだったろうに、焦凍ががんじがらめになって囚われている鎖を引きちぎろうと、必死にもがいていた彼。
『君の!力じゃないか!!』
あの時の緑谷の魂を揺さぶるような叫びが今でも耳の奥で反響している気がする。当事者ではないでさえ、涙を流す程の鮮烈な言葉。それに、焦凍は救われたはずだ。そして、母親との関係性を見直すことまで考えられるようになったのかもしれない。
「焦凍くん、ちょっとずつ前に進んでいるのね…」
ぽつりと呟いた自分の言葉に感極まってしまったは誤魔化すように何度か瞬きを繰り返した。


その日は9月にしてはやけに寒い日だった。まるで冬が到来したかのような日。曇天が空を覆い、日の光が差すことは無かった。いつも通りは轟家の掃除を行っていたが、ふと一息ついた時に、少し離れた背後に炎司が立っていることに気付いた。
「この後、病院へ行く。お前も来てくれ」
「はい。どこか悪いんですか?」
いつもの彼のはっきりとした物言いとは少し違う。何か、言いにくいことを口にしているかのように声をかけた彼には首を傾げた。いや、と否定する彼がそれ以上先のことを言わずに視線を天井、床へと滑らせる。どうしたのかしら、いつもと様子が違うわ。そう思った彼女を置いて、彼が「11時までに支度をしておけ」と言い残し、この場を去った。
掃除をして温まっていた身体が動きを止めたことで寒さが戻って来てぶるりと肩が震えた。どういうことか分からないけれども、病院に行くために少しばかり洋服を変えなければと彼女は自室に向かうことにした。

ハイヤーに乗って病院へと向かう最中に、一度車が止められた。それは近所では割と人気の花屋の手前だった。彼について車を降りて、彼が眺めた花を追いかけて視界に入れる。どれも瑞々しい輝きを放っていて綺麗だった。普段から家に閉じこもり、花を大量に見ることがないにとっては久しぶりの癒しの空間。そこら中に花の華やかな香りが漂い、目と鼻を楽しませてくれるそこに彼女の口元に小さく笑みが浮かぶ。
「これをくれ」
炎司が選んだ花がまとめられて彼の手に渡る。確かこの花の名はリンドウだった筈。今の時期にちょうど楽しめる花である。病院に行く前に花を購入したということは、もしかして妻に会いに行くのだろうか。轟家で働き始めてからまだ2か月しか経っていないが、妻が入院中だということは最初の頃に聞いていた。だが、具体的な症状などを教えてもらっていなかったから、彼の妻が今どういう状態なのかも全く知らなかった。
ちらりと横目に見上げた炎司は、にとっては何を考えているのか分からない目をしていた。
彼の大きな手には不釣り合いな二輪のリンドウ。だが、それが妻を想って買ったのであれば、きっと妻も喜ぶだろう。車に戻って深く腰掛けた彼に彼女は訊ねてみた。
「どうしてそのお花にしたんですか?」
「何となくだ」
彼の返事はつれない。に一度ちらりと視線を寄越して、手の中にあるリンドウを見やる。その視線からは何かしらの意味が込められているのかは判断が付かなかった。ぽつぽつと会話をする中で、過ぎていく街の景色が緩やかになった、と思ったら病院に着いたらしい。
車から降りて病室がある所を見上げれば、晴れの日であれば朝からしっかりと日差しが差し込むような造りになっていた。「おい」という炎司の声に慌てて駆け寄って、院内へと足を運ぶ。おかげで病院の名前を確認し損ねてしまった。自動ドアの先は、やはり病院独特の匂いというのだろうか、外の世界とは少し異なる匂いがの鼻を通り抜けていく。受付で炎司が記入するのを眺めていた彼女は不意に目の前に差し出されたリンドウに目を丸めた。
「妻に渡してきてくれ」
「え?炎司さんが渡したら良いんじゃないんですか?」
思わず受け取ってしまった彼女だったが、なぜ自分で渡しに行かないのかと問う。きっと炎司の妻だって、が渡しに行くよりも彼が渡しにいった方が喜ぶだろう。だが、彼の口から「俺は会うことを許されていない」という言葉が出て、今度は表情が固まる。
「医師から止められてるんだ。だから、が渡してきてほしい。」
だが、俺からだとは言うな。そう付け加えた彼。家にいる時よりも少しばかり彼も表情が硬い気がする。夫が妻に会えない理由を聞きたかったが、詮索するのは良くないと彼女は開いた口を閉じかけて。
「一人で行くんですか?」
「大丈夫だ。部屋はすぐそこだ」
少しばかり恨みがましい声が出てしまった。家以外の所で一人になるのは恐ろしいのに。眉が下がった彼女を見て、炎司はそれでもを妻の病室に向かわせる気らしい。こんな所には敵はいないから、と言う彼に渋々頷いた彼女は、何度も心細さから立ち止まって振り返り、彼の姿を確認しながら炎司の妻の病室へと向かった。
幸い、彼の言った通り彼の身長が三分の一程度に認識できる場所に彼女の病室があった為、束の間安心した。だが、ここから先は炎司の姿が見えなくなる。最後にちらりと炎司の姿を見やれば、早く入れとばかりに手を振られた。酷なことをしてくれる。
は緊張から早鐘を打つ心臓を持て余しつつ、扉をノックした。思わず手が震えてしまって情けない音が出たが、中からどうぞと声がかかる。
ゆっくりと扉を開いて、彷徨っていた焦点をベッドの上に半身を横たえている女性に合わせる。かち合った瞳に、ああと分かった。この人が炎司さんの奥さん。
「あなたが新しい家政婦さん?」
「はい、奥様。と申します」
扉を開けて入室したに、冷が微笑を向ける。儚くて、美しい笑みだとは思った。元気な姿で笑ってくれればもっと綺麗な人なのだろう、とも。
の言葉に彼女は困ったように眉を下げる。奥様なんてかしこまらないで、と言う彼女に、は戸惑いながらも頷いた。雲間から差し込んだ一筋の光が冷の顔を照らす。
「冷さん、でよろしいですか?」
「ええ、……名前を呼ばれたのなんていつぶりかしら」
そっと紡いだの目に、自分の名を噛みしめるような、切ない表情をした彼女が映る。彼女にとってはそれがどれほどの重みなのかは分からない。ただ、は少しでも彼女に明るい気持ちになってほしくて、思い出したように炎司から渡されていた花を彼女に見せた。
「花を買ってきたんです。この花瓶に入れて良いですか?」
「ええ。ありがとう、私の好きな花だわ」
滑らかな視線の動きでリンドウを見やる冷。その瞳は先よりも柔らかいものになる。花瓶に水を入れリンドウを挿し、窓際に飾る。無機質だった病室に初めて色が生まれたようだった。
「冷さんは…お体の具合はいかがですか?」
は“いつから・どういった症状で入院しているのか”と言葉を紡ぎそうになったが、逡巡した結果それはやめて聞き方を変えた。炎司に言われて彼女を代わりに見舞っているが、初対面であるし、そういったデリケートな部分に突っ込んでも良いほど、まだ轟家に関わりがあるとは思えなかった。
の感情の機微を悟ったのか、彼女はふわりと微笑した、気を遣わせてしまったようね、と。
「身体はほぼなんともないの。あの人から何も聞いていない?」
「はい。ただ、入院しているとしか…」
冷の感情の波が凪いだ瞳がを見やる。彼女はその目から何かを読み取れないかと思ったが、それは難しかった。そっと睫毛を伏せれば、冷の表情が少し陰ったような気がする。
冷が考えたそぶりをして、口を開く。
「――子育てをする中で精神的に限界がきてしまって…。あの人に聞いても大丈夫よ」
本当は言いたくないことだったのだろう。先ほどよりも感情が伺える彼女の瞳。には辛い気持ちを我慢しているように見えた。口にすることも辛い程、彼女は傷を負っていたのだ。
は彼女の目を見つめて微笑んだ。彼女自身、この世界に来て到底克服できないのではないかと思うトラウマを植え付けられたわけだが、今目の前で自分よりも辛そうにしている人を見ると、が感じている恐ろしさは形を潜めた。だから、その分元気を与えたかった。
「冷さんは頑張りすぎただけなんです。大丈夫ですよ」
は彼女のことをまだほとんど知らない。けれど、を助けてくれた炎司の大事な人である冷に少しでも安心してもらいたかった。この人はきっと何か自分を責めているから。
「…前の人が働けなくなったと聞いて心配だったけど、あなたが来てくれて良かった」
の微笑みにつられたのか、冷も先ほどとは違い笑みを浮かべた。その言葉に、がどれほど救われたか、きっと彼女は知らないだろう。

病院を後にして、行きと同じようにハイヤーで彼女たちは帰宅した。時刻は15時。お茶にでもしましょうかと炎司に声をかけて彼女はお湯とお茶菓子の準備に向かった。
台所でヤカンに水を入れてコンロの火をつける。
「……」
ふと、先ほどの冷の笑みを思い出した彼女は少しばかり口元が弧を描いた。大和撫子とでもいうのだろうか。病床にいるから覇気がないのもあるだろうが、きっと彼女はもともとそんな人だっただろう。
美しくて聡明な人だった筈だ。早く元気になってもらいたい。濡れた手を拭いて、冷蔵庫に保管してあった羊羹を取り出す。沸々と水が沸騰してきたことを感じながら、羊羹に包丁を入れる。シュウ~とヤカンの口から湯気が出始めた頃だった。背後に気配を感じて振り向けば、病院からずっと口を噤んでいた炎司が台所の入り口に立っていた。
「……冷とは何を話した」
を見やる瞳はいつもの彼のように豪胆なものではなく、どこか恐れを孕んでいるような気がした。その問いに、彼女は数回瞬いて口を開く。
「子育て中に精神的に限界がきて入院したと…冷さんから聞いたのはそれだけです」
「そうか」
彼女は聞いたことをそのままいうべきか迷った。なぜなら、冷からその事実を伝えられる前からこの家の凍てついた家族関係とそれに反して明るく振舞う冬美に、今まで彼女と付き合いがあったどの家庭とも様子が異なることを感じていたからだ。
――この家には何かある。そして、その中心にいるのは炎司さん。
そう気づいたのは一月ほど前だったが、今日冷から話を聞いて、おおよそ何がこの家で起きたのかを推測することはできた。間違っている可能性も否めないが。
ピーッと音を立てて勢いよく湯気を上げるヤカン。火を消して急須にまずお湯を注いで温めて、四つのお茶碗にお湯を注ぎ、お湯が丁度良い温度になるのを待つ。
「いずれ、子供たちから話があるだろうからな…茶を飲みながら話そう」
「はい」
茶葉とお茶碗に入れていたお湯を急須に入れたの手が止まる。敵に襲われた時とは違う、何か異質な恐ろしさを感じた。きっと、この心拍数の急上昇もそれのせいだ。炎司の瞳を見ることができないまま、彼女はお茶のセットを持って彼の後に続いた。


2021/11/27

淡々と炎司の口から紡がれる言葉に、の顔は徐々に青ざめていった。轟家に起きた事実のみを伝えているのだろう。炎司の心情の説明はないまま続けられる。
――炎司は昔からオールマイトを超える為に努力を続けて、出来ることは全て行ってきた。しかし彼という存在はそれでも遠く、そこで炎司は個性婚を考えたようだ。“ヘルフレイム”の個性だけだとどうしても個性を酷使した際に、身体の熱が放出できずに機能不全になる。そのような欠点を自分の子供には与えないためのそれ。自分の炎の個性と冷が持つ氷の個性がかけ合わされば、欠点なく戦える子が生まれ、いずれオールマイトを超えていくだろうと信じ、冷もそれを承知し結婚した。
「だが、生まれてくる子は焦凍以外皆片方の個性しか受け継がなかった」
淹れたお茶は最初に口を付けられてから一度も飲まれていない。冷めたお茶が炎司の深い眉間の皺を映す。
――長男の燈矢は小さなころから炎司たちの望みを理解し、その心に火を灯され、最後までヒーローになること、そしていずれオールマイトを超えることを諦めきれず、自身の個性の暴走によって焼死した。彼を諦めさせるためにわざと焦凍の教育に力を入れ始めた炎司だったが、それは逆に少年を意固地にさせたようだ。
そして、その中で子供への教育方針へのズレから夫婦関係が悪化し、子供同士でも軋轢を生み、冷は憔悴していった。虐待に近い教育を止められないことが主な原因だろう。彼女は最終的に焦凍へ煮えたぎった湯を浴びせて大やけどを負わせた為に、精神病院に入院することになり、冬美が母親代わりのように今まで家を切り盛りしてきたという。
「……っ」
目の奥が熱くなっては何度か瞬いた。父と母の期待に応えたくて懸命に努力を重ねて、それでも父に認められず、期待が落胆へと変わり、自身に注がれていた期待が焦凍へと移り変わっていったときの燈矢の気持ちを考えると胸が張り裂けそうだった。
そして徐々に夫が轟家を壊していくのを止めるために、足掻いて抵抗したが止められず、結局自身の手で愛する子供を傷つけてしまった冷の心の深い傷を想うと、病室でに笑みを向けてくれたことが奇跡に近いのだと分かった。
ポケットから取り出したハンカチでそっと目元を拭う。この家の違和感の元凶が、の命を救ってくれたこの人だと覆うと、轟炎司という人間をどう捉えて良いのか分からなくなった。
轟家の者たちは、炎司がオールマイトを超えたいという野望を持ったばかりに、犠牲になってしまったのだ。きっと、それさえなければ、ごくごく普通の愛情に満ちた家庭になっていただろうに。
「俺が恐ろしいだろう」
「ええ…だから、この家の子たちはあなたのことを遠巻きにするんですね」
「ああ」
全てを話したからだろうか、普段の彼の真っすぐな瞳がの薄暗く陰った心を突き刺す。彼女はなんと答えるべきなのか分からなかったが、素直に自身の心境を吐露した。羊羹を口に入れ、流し込むように冷めた緑茶を喉に流し込んだ彼。立ち上がって、部屋を出ていく彼が一瞬足を止めた。何かを言おうとしたのかもしれない。だが、結局何も言葉にしないまま、彼は部屋を出ていった。
彼女は同じく冷めたお茶の水面に酷い顔をしている自分を見た。
――炎司さん、自分の気持ちは一切話さなかったけど、自分の非を認めて、客観視することができていたわ。
普通、罪悪感や後悔がなければ、そんなことは出来ないだろう。だが、彼はそんな思いを抱きながら自身の行いを変えようとしない。正しくありたいと思いながら、それでも燈矢を失った心の穴を取り戻すかのように、焦凍へとオールマイトを超えるように強要する炎司。彼の心の中で矛盾が起きているのに、それには蓋をして彼自身の大義を成さんとばかりに進み続けるしかないのか。その道は誤っているというのに。
「私は、どうしたら良いのかしら…」

震える手で口に運んだ羊羹は、少ししょっぱい味がした。




inserted by FC2 system