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エンデヴァー事務所の秘書を特別授業に呼びたい、という校長の発言を聞いた時には皆驚いたものだったが、何故か相澤は驚くことは無かった。近頃エンデヴァーがその秘書の活躍によって、よりヒーロー活動に磨きがかかっているという話を他のヒーロー伝手に聞いていたからかもしれない。
――さて、支度するか。
そして今日はその秘書と打ち合わせをする日曜日だ。なぜ彼女が相澤を指名してきたのか分からないが、教師として授業をより良いものにする為に、彼はしっかりと彼女の授業の内容を添削するつもりだった。


15 君にふさわしい影ならよかった



出かける準備を終えて玄関へと向かう。今日彼が指定してきたのが轟家からはそんなに離れていないカフェだったので、一人で向かってみることにしたのだ。
――いつ敵が現れたとしても走って逃げられるようにパンプスは低めにして…。
なんて思考は敵に遭った時の想定をしてしまうほどに緊張していたが、日ごろエンデヴァー事務所でトレーニングしていたことを実践するだけだ。
「気を付けてな」
「そうだよ。焦凍も休みなんだから途中まででもついてきてもらえばいいのに」
が一人で出かけることを心配した焦凍と冬美が玄関まで見送りに来てくれる。それに緊張した面持ちでありながらも彼女は彼らを見返した。
「すぐ近くのカフェだし、ちょうど良い練習になると思うの」
もし敵が現れたら相澤さんを呼ぶから、と付け足して。そうすれば二人は顔を見合わせてうんと頷いた。
その「うん」が何なのかには理解できなかったが、いってきますと手を振って外へと出た。

が出ていった玄関を見て、冬美が眉を下げて小さく溜息を吐く。
「練習って言ってもね…たしかに大事だと思うけど」
「俺が尾行して危険がないか見てくる」
「そうだね。頼んだよ、焦凍」
やはり彼女が一人で外を歩くのが心配だったのだろう。焦凍の担任である相澤が指定したのは轟家から15分程歩いた所にあるカフェだったが、その距離は彼女にしてみれば長いだろう。きっと今頃緊張して掌に汗をかきながら歩いてるかもしれない、と思った彼はすぐに靴を履いた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
笑顔で送り出した冬美の表情を見て、彼女を追いかけるのは正解だったな、と一人頷いた彼。
――今日のの恰好は…確か紺色のトップスに薄桃色のフレアスカート。
出かける間際に見た彼女の服装を思い出しながら道を早歩きする。カフェまでの道は何度も角を曲がるような道ではあるが、最短距離を選ぶ彼女の性格上彼女を見つけるのは難しくないだろうと彼は思った。
「!」
思った通り、彼女の背中を見つけて彼は軽く息を吐いた。その後ろ姿からはやけに頑張るぞオーラが漂っている。拳をぎゅっと握りしめて絶え間なく周囲を見渡す彼女。まるで今から悪いことをします、と言っているような挙動不審な様子に――本人は大真面目にやっているだろうに――つい笑いそうになってしまう。
――すげえ緊張してるみたいだな。
彼女に追いつかないように歩くスピードを落として、信号待ちしながら周囲を見渡す彼女の横顔を見る。表情にはあまり出ていないものの唇をきゅっと引き結んでいることからその感情が伝わるようであった。
焦凍はちら、と周囲を見渡した。見える限りの場所に怪しい影はない。再び歩き出した彼女を追いかけゆっくりと歩みながら、彼は数か月前までは彼女が中々外へ出られなかったことを思い出した。その時と比べれば、彼女は強くなったと思う。
それがエンデヴァー事務所で働いていることに起因すると思うと少しばかり面白くないが、彼女が前向きに自分の目標に対して一歩、二歩と踏み出しているのであれば応援したい。
背後からハイブリッド車が走り抜けていく様にびくりと肩をゆらして硬直した彼女だったが、ふうと胸を撫でおろして先へと進む足。その歩みは他の通行人に比べれば遅いが、彼女の成長の証でもある。
――手っ取り早く隣を歩きてえけど…。
その考えがの為にならないことなど彼にはよく分かっていた。
暫く歩いて漸くカフェへと着いた時、焦凍は彼女が緊張した面持ちをしながらも少し晴れやかな様子を見てふっと笑った。

約束の時間まであと5分。駅から歩いていた相澤の前に漸く現れた待ち合わせのカフェ。カフェ付近でA4サイズの鞄を手に持つ女性を見て、直観的に秘書のであると分かった。彼女に近づこうと足を向ける中、ふとカフェから少し離れたビルの影から轟が彼女を見ていることに気が付く。
――あいつ、何やってんだ…?
轟の視線からは特に悪意なども見えなかった為、見なかったことにして彼女へと視線を戻す。彼女の話で彼女が轟家で住んでいることは知っていたが、彼が彼女を観察している理由には繋がらない。
少しばかり緊張している様子で周囲を時々見渡す彼女。
「どーも、相澤です。さんですか?」
「あっ、はい、です」
そんな彼女にゆっくり近づいて正面から声をかける。彼が相澤と認識した瞬間に、今までの不安そうだった表情から花が咲いたように笑顔に変わるのを見て、彼にしては珍しくぱちぱちと瞬いた。
――仕事の電話とは印象が違うな。
自然な微笑で相澤を見上げる彼女をカフェへと誘う相澤は、彼が来たことで背を向け去っていく轟の姿を見て、再度少しばかり眉をひそめた。
席へと座り、二人分のコーヒーを頼んだ彼。コーヒーが届くまでの間に軽く雑談をしておけば、彼女の緊張も解れて今度の授業へのアイディアをスムーズに考えてくれそうだと考えた。だが、それは彼女も同じだったようだ。
「相澤さんは普段から髪を結んでいるんですか?」
「いや、普段はそのままですね。書類を見る時って下向いて垂れてくるじゃないですか」
「そうですよね。一応私も髪留め持ってきたんです」
髪の毛の話題から入った彼女が、鞄の中からゴソゴソとポーチを探し出し、そこからキラキラ光る髪留めを取り出した。細くしなやかな指で髪を束ねてパチンと留めた彼女が嫋やかに笑む。
髭は一応剃ってきたが普段着のジャージで来てしまった自分に少しだけ負い目を感じた彼だったが、ちょうどいいタイミングでコーヒーが届いた為、彼らは授業を作り始めることにした。

「最近はエンデヴァー事務所でどんな仕事をしてるんですか?」
「基本的に書類のチェックや炎司さんのサポートですね」
「秘書っていう立場は事務所にとって初めてだったから戸惑うことも多かったんじゃ?」
「ええ、そうですね。最初はサイドキックたちにも色々教わりながらって感じでしたね」
授業のアイディアを引き出すためにそれとなく話題を振る相澤だったが、そんなことをしなくても彼女はどんどんと箇条書きでノートに業務内容などを羅列していく。
話しながらも迷いなくノートの上を滑るボールペン。サラサラ、と書かれるその字は彼女の礼儀正しさを表しているかのように流麗な形だった。
思わず無言になり、彼女が字を書くさまを見つめる。
「字、綺麗ですね」
「え?ありがとうございます」
ポロリ、と口から零れ落ちていた言葉に、彼女が顔を上げて相澤を見つめる。嬉しかったのか少しばかり耳たぶが赤らんでいるのを見て、相澤は口元に小さな笑みを浮かべた。小学生の頃から習字をしていたので、と補足する彼女になるほどと頷く。
「字が綺麗なのは良いことですよ。生徒も黒板が見やすいですからね」
「良かったです。先生の字が汚いと読むのに苦労しますよね」
ふふ、と笑う彼女が再びサラサラと字を書き始めたので、暫く相澤は黙って彼女の字を見ていることにした。
――数時間後。
ふう、と一息ついた彼女から受け取ったノートを確認していく。内容は相澤が監修しながら作っていったので悪くはない筈だ。最後まで読み終わった彼はノートを閉じて彼女に返した。
「今日だいぶ作れたんで、残りはまた今度にしましょう」
「はい、お付き合いいただきありがとうございました」
長時間カフェで授業の内容を考えていたから疲れただろう。そう思った彼は時計を確認して立ち上がった。ノートと筆記用具を鞄にしまった彼女も立ち上がり、お会計を済ませて外へ出る。
さりげなく辺りを見渡した所、やはり轟が遠目に立っていることが分かる。
――あいつ、過保護にも程があるだろ。
思わず自分の生徒の新たな一面を見てしまった彼は、どことなく呆れる。隣にいる彼女を見下ろせば、どこからどう見ても立派な社会人の女だ。もしかしたら何かしら理由があるのかもしれないが、彼女からも轟からもそのようなことを打ち明けられてない相澤は、彼女の帰路は轟に任せることにした。


2020/07/13



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