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時々見る元の世界の夢。それはにとっては懐かしく愛おしい記憶だった。
穏やかに、たおやかに、時に激しい波となって押し寄せてくる故郷への哀愁を、彼女は愚かしくも胸に抱いてこの世界で生きてきた。

そう呼んでくれる人はこの世界に来た当初より増えた。その度にその声を、その人を愛しく思う。けれどもこの世界で大切な人を作ってしまえば、元の世界に戻った時にまたあの哀愁を抱いて苦しむことになる。
だから、この世界で大切な人を作ってはいけない。
轟家で働き始めて半年経った日の早朝に、小鳥の声で目を覚ました彼女はそう決意した筈だった。


13 幻にすら至らぬ不在




ホークスに向けられた、燃えるような強い青の眼差し。まるで敵を射殺さんばかりの強いそれに、興奮で背筋が粟立った。
――いや、実際エンデヴァーさんは燃えてるんだけど。
なんて、心の中で茶化したホークスだったが、その視線の強さの理由が、彼が助けた秘書のであることは理解できていた。
「面白いな」
目を閉じれば、瞼の裏に彼女の泣き顔が安堵した笑みに変わる瞬間を描ける。あの女性はエンデヴァーにとって、いったい何なんだろうか。
ホークスはエンデヴァーが去っていった空を見上げて自身もその空へと舞い上がった。

あの後、無事に松田と共に事務所に帰ってきたは、エンデヴァーに頼まれていた資料を彼に渡しに行っていたのだが、目付きの鋭さから機嫌が悪いのは明らかであった。十中八九、彼女が敵に襲われたことを知ったのだろう。
「怪我は?」
「ホークスさんが助けに来てくれたので、ギリギリありませんでした」
ご心配おかけしました、と頭を下げればお前は何も悪くないだろう、と彼が鼻を鳴らした。顔を上げて彼の顔を確認すると、どうやら不機嫌の原因はではなく、その場に居合わせなかった自分に対してなのだろうと推測することが出来た。
は窓際に立って外を眺める彼の横へと向かう。そっと隣に立って外を見やった。
――あの瞬間死ぬかと思った。
思い出すだけでも恐ろしさのあまりに身体が震えそうになるが、ぎゅっと反対側の腕を掴んでその震えを止める。
――外は怖いわ。いつ何時敵に襲われるか分からない。
けれど、彼女はこの数か月で知った。あの1年間外に出なかった間、外の世界はこんなにも輝いていたのだと。木々のさざめきも、街中で楽しそうに会話する人々の笑顔も、色とりどりのお店も、全て。
彼女の瞼の裏で眩しく光る。それをもう二度と失いたくないと思う。
「…炎司さんがいなくて、怖かったです。だけど…私、負けません。普通に外を歩きたいから」
「……涙を流しているくせに、何を言っている」
ホークスによってとかされていた恐怖が、あの時の記憶が蘇って、思わず頬を濡らしてしまった。彼女はすぐにそれを指で拭ったけれど、窓の外を見ていた筈の彼には見つかってしまったようだった。呆れたような声と共に、大きな掌が頭の上に落ちてきてぐしゃぐしゃとの頭も撫でる。
どことなく不器用な触り方の彼に、笑みがこぼれる彼女。小さい頃によく父親に撫でてもらったことをふと、思い出した。
「心を折られんように、強くなれ」
「はい」
彼女の目を射抜く力強い青い瞳。まるで燃え盛るシリウスのようだ、とは思った。


その晩、はいつも通り床についた。目を閉じればすぐに睡魔に襲われて意識を暗闇に落とす。
まるで気を失ったかのように素早い入眠であった。
――黒い靄の先に、が暮らしていた部屋が見えた。
1LDKの多少狭い部屋だったが、都内で暮らしていた為我儘を言えるような状態ではない。狭い割には好きな家具や雑貨などで綺麗にまとめていた為、にとってその家は住み心地が良かった。
ぱっと景色が変わっては公園のブランコに座っていた。ぎいこ、ぎいこ、と錆びた音がブランコから響く。
、帰るわよ」
「えー、もっとあそびたいのに」
ぷく、と頬を膨らませれば、迎えに来た母が明日また遊べば良いじゃない、と微笑む。その優しい微笑みがはいつだって好きだった。ぴょん、とブランコから飛び降りて母の太ももに抱き着く。
ばいばい、と友達に手を振ればまた明日ね!と笑顔で手を振り返してくれた。
――ああ、懐かしい。
郷愁の念に襲われて、は意識を手放しているのに、目頭が熱くなった。
また、風景が変わる。
お洒落なカフェに自分の恋人と、友達カップルと腰かけていた。服装からすると、ちょうど大学生くらいの時だろうか。
「美味しいー!これ、絶対好きだよ」
「本当?ちょっとちょうだい」
「この二人いつも仲良いよね」
「俺がいる時もよく電話しててさ、入れる隙間が無いんだよね」
ドリンクを飲んでぱあっと笑みを浮かべる友人に、お互いの彼女の話で盛り上がる恋人二人。
自分の身体から見ている筈なのに、この体とはまた違うところにある身体に寂しいという感情が蓄積されているのをどこかで感じた。
――皆に会いたい……。
今までの景色は消えてしまって、は黒い靄の中に一人取り残された。
『………、…、……………』
「誰?あなたは何……?」
その暗闇の孤独感と言ったら。思わず身を震わせる彼女だったが、暗闇に人の形のようなものが浮き上がる。だが、全てが黒くて、輪郭しか分からない。“それ”は口らしき所を動かし、何かを呟いた。
けれど、にはそれが聞き取れなかった。指のようなものを突き出されて、胸にそれが突き刺さった。
ずぶ、と沈んでいく指のようなものから熱が噴出して、の身体を蝕んだ。
「ああ……っ!!」
思わず胸を押さえて熱に悶える彼女。ぐるぐると、耐え難い熱が身体を蹂躙する。まるで、身体の構造を変えるかのように細胞を破壊して再構築するそれ。
――そうだわ、この靄は私がこの世界にくる間際、一瞬どこかで見た…。
ぐっと胸を押さえて靄を睨み上げる。朧気な記憶だったが、彼女の個性はこの時何かによって“植え付けられた”のだった。
「……、………、……………………」
「何……?何でこんなことをするの……?」
涙がにじむ彼女に何かを口にした黒い輪郭。やはり、その声はあまりにも小さくてには聞き取れなかった。ジクジクと痛む胸から、身体に得体のしれない力が漲っていく。
徐々に形が崩れて消えていく靄には必死に手を伸ばした。
「待って!私を元の世界に帰して…!」
だけど、靄は消えた。



「――
「…っ!!」
肩を揺する振動に、彼女は目を見開いた。そっと、隣を見れば焦凍が暗闇の中で膝をついての顔を覗き込んでいた。どくどくと五月蠅く喚く心臓。この鼓動の速さは彼には伝わってしまっているかもしれない。
「魘されてるみたいだったから、部屋入ったぞ」
「――ああ……、ごめんなさい、起こしちゃったのね」
ゆっくりと起き上がって湿った額を手の甲で拭う。彼が魘されていたと言う通り、どことなく寝間着は汗で湿っている。先ほど見た夢の内容は鮮明に覚えていた彼女は胸を押さえた。あの時刺された胸がまだ痛むような気がして。
それを見た焦凍がもう片方のの手を取ってぎゅっと握りしめた。それは炎の個性の方の手だった。少し高い体温がの手を包んでくれる。その優しい熱に、彼女は強張っていた身体から力が抜けるのを感じた。心拍数も落ち着いてきた気がする。
「元の世界に帰る夢を見ていたのか?」
「――ええ…、戻れなかったけれど」
静かにの目を見て話す彼に、自嘲するように笑う。元の世界の夢はもう最近はあまり見なくなっていた筈だった。それでも元の世界の者たちを記憶から捨てられなくて何度も夢に見てしまうのだろう。
私、駄目ね。ぽつりと呟いた彼女は米神を押さえた。じんわりと眦が濡れてしまうのを、彼には見られたくなかった。
「駄目じゃないだろ。は十分すぎるくらい頑張ってるだろ」
「ありがとう…」
それなのに、彼はその手を取って、両手ごとぎゅっと握った。深夜で焦凍も眠い筈だろうに、それでもの薄暗くなった気持ちを照らすようにと、真っすぐに見つめてくる。家族や友達に会えなくて寂しいのは当たり前だろ、と。その言葉にはほろり、と涙を零した。どこか彼の言葉に救われたような気がしたのだ。
「私はもう大丈夫。明日も学校なんだからもう寝てね」
がちゃんと寝られたらな」
すん、と鼻を啜った彼女は微笑んで彼に早く寝るように諭した。彼がこんなことで寝不足になって本来の力を発揮できなかったら可哀想だから。の言葉に首を振った彼はの肩を優しく押して布団の中に入れる。
俺が魘されないように見守っててやる、と。絶対に守る、という強い意志をそのオッドアイの瞳から感じ取った彼女は苦笑して目を閉じた。
「もう、焦凍くんは大人顔負けね…」
「ああ。俺がを守る」
こういう正義感の強い所、本当にそっくりね。心の中で思ったことは口にはしなかったが、ヒーローになりたい者は皆そうなのかもしれない。
彼の気配がもぞり、と動いたことで、畳の上に横になったことが分かった。そっと頭の上に乗せられた掌がよしよしと言わんばかりに、ゆっくりと撫でる。それに思わずきゅんと心臓が跳ねた。
――この優しい少年が愛おしくて仕方がなかった。
そっと目を開いて、至近距離での顔を見つめる焦凍と目を合わせる。
蘇るのは半年前の記憶。あれだけ強い気持ちで大切な存在は作らないことを誓ったというのに、轟家で過ごすうちに、彼女の心は徐々に絆され彼らを求めるようになった。
「…私ね、この世界で大切な人を作るつもりが無かったのに…できちゃった」
――焦凍くんも、炎司さんも、冬美ちゃんも夏雄くんも、皆大切なの。
理不尽にこの世界へと連れてこられたのだから、いつ、元の世界に同じように理不尽に送られるか分からない。だから彼女は恋人はもちろん、大切な人を作りたくなかった。また元の世界へ戻った時に泣いて暮らすのは目に見えていたから。だけど、懺悔するかのように告げられたその言葉に、焦凍はふっと笑った。
「良かった。俺ものことが大事なんだ」
月の光が焦凍の青い瞳をとろりととかしていた。その優しい輝きに、彼女はうんと頷いて目を閉じた。
今なら、夢も見ないで寝られる気がした。

「おやすみ、


2020/04/30




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