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近頃、ヒーロー事務所の間で噂になっているエンデヴァー事務所。
大手事務所であるが故か、ほとんどの事件を自分の事務所内で全て完結してしまっていた彼らであったが、最近はどうやら“秘書”と共に挨拶をしに来ているらしい。
ホークスは別の案件で都内へやって来ていたが、ついでにその“秘書”とやらの顔を見るのも悪くないと思った。


12 ぼくの愛をきみは知らないままでいて




徐々に仕事にも慣れてきていたはとうとうエンデヴァー同伴やサイドキック同伴という時期を経て、事務員付き添いのもとで外出できるようになってきていた。とはいえ、今のところはまだ一人で外出できるようになる為の特訓でもあるので、簡単なお使いを頼まれるのがほとんどだ。

そして現在は事務員の松田という男性と共に、事務所近くの図書館まで資料を探しに来た帰りだった。
エンデヴァーが求めていた資料を無事に見つけることが出来たはいつも使っている鞄とは別の手提げ袋にそれらを入れていたのだが、松田の厚意でそれは彼が持って歩いてくれていた。
春にしては強い日差しに、白の日傘から顔を覗かせたは目を細める。
さん、疲れてない?大丈夫?」
「ありがとうございます。まだ大丈夫ですよ」
近くの図書館とはいえ、最寄り駅まで15分程歩く必要があったそこに、若干疲れが出始めた彼女に気付いたらしい。病弱なのではなく、非戦闘員である彼と外へ出ていることから緊張の連続で精神的に疲れただけなのだが、気を使ってくれている彼ににこりと微笑む。
心配そうな面持ちの彼にベンチがあったら座って休憩しましょう、と続ければ笑顔になって「そうだね」と頷いてくれた。
――皆、炎司さんがオーバーに伝えるから心配症になってしまったのね。
思わず眉尻が下がった彼女だった。

暫く並木道を進んだ先で、ちょうどベンチを見つけた。駅の手前のそこはちょっとした芝生公園になっており、近くで親子が遊ぶ様子が伺える。松田は見るからに嬉しそうに弾んだ声を上げて、の手を取って引っ張る。その腕の裾から覗くのは焦凍がくれたバングル。きらりと、控えめに光ったそれに一瞬目を奪われた彼女だったが、導かれるままに木陰の下のベンチへと座らされる。
「ごめん、俺少しトイレ行ってくるけど一人で大丈夫?」
「ええ。すぐそこですし、大丈夫です」
上から困ったように見下ろす彼に頷いて、彼女はちらりと10メートル程先にあるトイレへと目を向けた。あの距離なら、少しの間離れていても大丈夫だろう。何度も同僚たちと外出するようになった彼女は今までの経験から数分なら問題はないと判断した。
資料が入った手提げ袋を彼から受け取って、自身の隣へと置く。彼は少しばかり心配そうだったが「すぐ戻るから」と小走りでトイレへと向かった。
――それにしても、今日は暑いわ。
がいる木陰から木漏れ日がちらちらと瞬くたびに木陰と日向の境界線ははっきりと分かれているのが分かる。日差しは強いが、日陰に入ればそれは多少和らいでいた。上のジャケットを脱いでビジネスでも使えるようなデザインのシャツワンピースのみになれば、心地よい風の冷たさが素肌の上を滑る。
ほう、と目を閉じて息を吐いた瞬間であった。ドシャァア!!と大量の泥の塊が宙から勢いよく公園へと落ちてきた。途端にキャー!!とあちこちで悲鳴が上がる。それには大きく心臓が跳ねた。
呼吸が忙しなくなる。逃げないといけないと分かっているのに、脚は震えて力が入らない。
「皆さん!!避難をお願いします!」
叫んだのはそれを追いかけるように飛んできたヒーローコスチュームの男。泥の塊だと思っていたものはどうやら敵だったらしく、泥の中から憎しみが滲む表情で立ち上がった。ギロリと鋭い目をヒーローに向ける敵。
「………っ」
思ったよりも敵との距離が近い。周りの親子たちがヒーローの指示のもと公園の外へと非難しているというのに、はベンチに取り残されたままだ。
「早く!君も非難を!」
「あ、脚に力が…」
泥の攻撃を跳ね除けながら叫ぶヒーロー。何とか震える脚でベンチから立ち上がろうと試みるが、どうしてもあの時敵に襲われた時の記憶が蘇ってその力を奪っていく。
逃げないと。松田さんのところに行って。走って。逃げて。脳は身体に命令をするのに、身体は言うことを聞かない。過呼吸になりつつある彼女は息をするだけでも精一杯で。
――怖い、炎司さん…!
涙で視界が歪んだ先に、赤い光が一瞬見えた気がしたけれど、それはの幻覚だったのかもしれない。苦戦するヒーローに向けられていた敵の視線がの瞳とかち合った。ぶわり、と鳥肌が立つ。
さん!!」
聞き覚えのある声が鼓膜を揺する。だけどはその声に振り向くことが出来なかった。弾丸のように速い泥の弾がいくつもに向かって放たれて。それがスローモーションのように瞳に映る。
聞こえるのは自分が大きく息を呑んだ音だけ。死を覚悟する間も無かった。
――だが、必死な形相のヒーローの顔が赤い何かに遮られて身体が宙へと舞った。
「!?」
追いつかない視界に入る反転した世界でベンチを大破した泥の弾。
「ギャアア!?」
「はい、確保」
それと同時に静かに響く、落ち着きある男性の声。赤い羽根が幾重にも重なった絨毯にゆっくりと地面に下ろされたは、赤い羽根を持つ金髪の男性が敵を拘束していることに気が付いた。
「ひゅっ、は、…っ」
先ほどよりもガタガタと強い震えに襲われた彼女の身体。過呼吸も相まって眉を寄せて必死に息をする。ぎゅっと目を瞑って、あの時炎司に背中を擦られた時の事を思い出そうとするけれど、身体で感じた恐怖に彼の温もりが背中から霧散する。
さん!!」
「!…ま、」
駆けよって来てくれたのは松田だった。先ほどの声はやはり彼だったのだ。だが、酷く気が動転しているは彼が彼女の目を見て何かを言っているのに、言葉を返すことができない。
「ホークス!さんが過呼吸になってるんだ!助けてくれ!」
「おにーさん、まずはあなたが落ち着いて」
異変に気付いたホークスが他のヒーローに敵を渡してたちの所へとやって来る。過呼吸であるの顔を持ち上げて酸欠状態の様子を確認した彼。
浮かんでいた涙がほろり、と零れ落ちて、は酸欠状態ではあったが彼の顔を確認することが出来た。
「遅くなってごめんね。怖かったね」
忙しなく呼吸をするの身体が何かに包み込まれた。よしよし、と背中を擦る手の温もり。ホークスに抱きしめられているのだと彼女が気付いたのは数秒してからだった。
通常であれば更にパニックに陥っていたことは間違いなかったが、この状況下では逆に彼女は人の温もりに安堵した。もこもこした服の柔らかさと大きな手のひら。似てはいないけれど、あの時を助けてくれた炎司のように安心させる低い声に、少しずつ頭の中で溢れていた感情の回路が整理されていくのを感じた。
さん、もう大丈夫だよ」
すっと耳に心地よくなじむその声が何度も大丈夫だと言う。穏やかに、ゆっくりと背を撫でてくれる。を脅かした脅威はもういなくなったのだと。身体中を支配していた恐怖が霧散していった彼女はそろそろと目を開けた。その頃にはゆっくりと呼吸を出来るようになっており、すぐ傍でハラハラと見守っていた松田が大きく安堵の溜息を吐いた。
「よし、もう大丈夫かな」
「…ホークスさん、ありがとうございました」
震えの止まったの手を優しく引っ張って立ち上がらせてくれたホークス。その時、は漸く彼の羽をずっと下敷きにして座っていたことに気が付いた。彼はそんなこと気にしなくて大丈夫、と笑っていたけれどを直接地面へ座らせなかった彼の優しさに平服した。は再度ありがとうございます、と頭を下げた。
「私エンデヴァー事務所の秘書のです。またいずれ、今日のお礼も含めてご挨拶に伺います」
「へぇ、さんが噂の秘書だったんだ」
簡単に自己紹介して、いずれエンデヴァーと共に挨拶に伺うことを伝えれば軽く目を見開いて何か納得した表情をする彼。彼の言葉に彼女は小首をかしげた。
「噂?」
「本人が知らないのも無理はないか。あのエンデヴァーさんが挨拶周りをするきっかけになったのが秘書だった、ってことで、皆その秘書がどんな人なのか興味津々ってことですよ」
そんな彼女に親切にも噂の内容を教えてくれたホークス。松田はそんな噂になっていたのか、と驚きを禁じ得ない様子だったが、は苦笑するに留まった。
「私はただの秘書ですよ。噂される程の人物ではないです」
「ただの秘書、ね」
そんな噂になっていたことに驚いたことには驚いたが、がエンデヴァーを動かしているわけではない。最初に発したのがであったとしても、その後数々の状況や条件を考えて挨拶周りに行くことにしたのは彼自身の意志によってだった。
ふふ、と笑みを浮かべたの前でホークスが意味深に笑って空をちらりと見上げた。もつられて彼の視線の先を見上げた所、一瞬明るいオレンジが青空に走ったような気がしたけれど、そこには雲がたなびいているだけだった。


2020/04/29
休憩時間を使って、と松田が通るであろう路線周辺や図書館までの道を巡回していたエンデヴァーは、通りかかった公園で今まさにに敵の危害が及びそうになった瞬間に居合わせた。
――あいつ…!
その瞬間、瞳孔が開き心臓がどくんと大きく脈打った。身体中の血液が沸騰したかのように熱くなって炎が噴出する。
考えるよりも先に動いていた身体はしかし、エンデヴァーよりも早く彼女の身体を攫った赤い羽根と、同時に羽の大剣で敵を地に伏せたホークスを見て、宙に留まる。
「………」
ちらり、と宙に留まるエンデヴァーを見上げたホークスが「ここは大丈夫ですよ」と言うようにへらりとした笑みを浮かべる。それに眉が寄った。
――速すぎる男、か。
が過呼吸に陥っていることも松田から聞かされすぐさま落ち着かせにかかる彼。抱きしめられたの、恐怖のあまりに固まっていた身体から少しずつ力が抜けていく様と、彼の穏やかな表情を見ていた。
――気に食わん。
過呼吸の人間を落ち着かせる為にわざわざ抱きしめる必要はない。人の体温に落ち着くことはあるだろうが、それは背中を擦ったりするだけでも十分だ。それが異性であれば猶更気を付けるべきだと彼は思っている。
だが、安堵したの顔を見てしまえば、そんな気持ちも霧散する。
『助けて…!お願い…!!』
記憶の中で、彼女が敵の手に圧迫された時の、涙で濡れた傷だらけの顔を思い出す。あの時、恐怖と苦痛で顔を歪めていた彼女を救ったのは彼自身の手だった。
――今回は、それが奴だっただけだ。
間に合わなかった自分の拳を見下ろし、次いで、彼女の微笑をちらりと確認し、彼はフンと鼻を鳴らして他にも敵がいないか探しに行く為に、炎を噴出させて彼らがいた公園から離れた。



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