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伸びた前髪が目にかかる。今日は炎司と外出してから1週間後の土曜日。空を見上げれば快晴なのにの心はモヤモヤとする。原因はこの前髪だ。流そうとしたけれど、さらりとした前髪はすぐに目の前に落ちてきてしまう。
ふう、とため息をついたは髪用のハサミを探し始めた。


06 星のかけらのような人




文房具置き場をごそごそと漁って髪用のハサミを見つけた彼女は洗面所の前に立った。
どれくらい切ろうかしら、と鏡と睨めっこをしていたら、歯ブラシを取りに来た焦凍と鏡越しに目が合う。
「何してんだ?」
「前髪が伸びちゃったから切ろうとしてたところ」
彼に一歩譲って右にずれれば、目的の歯ブラシを取り出して歯を磨き始めた。彼が歯を磨き終わるまでに切ってしまおうと再度ハサミで前髪に切り目を入れようとしたところ、「待て」と手のみのジェスチャーが入った。
「どうしたの?」
「………」
シャコシャコと歯を磨いている為何も言わない彼だったが、まだ手が下ろされないので「待て」は続いているのだろう。彼のそういうところを理解している彼女はとりあえず端に避けて彼が口を濯ぐのを待った。
「美容院に行こう」
「今から?」
「ああ。今日は午前中ならどうにかなるし」
「でもご飯の準備とか」
平生通りの表情で彼が提案したのは彼女にとっては目を丸くする内容だった。まず今日は炎司が仕事である為、一番頼りにしている彼に頼れないことから既に精神的なハードルが上がるうえに、雇われの身であるのにご飯の支度等を冬美に任せきってしまうことに申し訳なさを感じる。焦凍が頼りないというわけではないが、彼と一緒に外へ出たことがないので判断が出来かねるのだ。
眉を下げた彼女に、焦凍はなおも理論的に諭してくる。
「契約の内容は平日だけなんだろ?それに前にも自分で切って失敗してた」
「確かにそうだけど…」
「今なら俺が一緒に行ける」
年下の男の子がここまで言ってくれることに対して、彼女は漸くそうねと頷いた。そうすれば彼もそうかと少し満足そうな様子。着替えてくる、と言った彼に私も支度するね、と返してまずは冬美に今日の午前中だけ家事を任せることをお願いしに行くことにした。

結果として冬美はむしろ出かけておいで、と笑顔で送り出してくれた。年長者であるのに、しかも家政婦であるのに、こうも快く送り出してくれた彼女には頭が下がる思いだった。
――炎司さんと約束してたのに。
そう一瞬考えたがせっかく受験生の焦凍が一緒に出かけてくれるのだから笑顔で楽しまないと。頬をパチンと叩いて気合を入れた彼女は、外に出かける為にお洒落を始めた。

焦凍と家を出て数分。扉を出る際にはドキドキと緊張から心臓が五月蠅かったが、ぴったりと焦凍に寄り添って腕を借りて歩いているおかげで恐怖心は多少軽減されていた。
「大丈夫か?ちょっと休憩したかったら言ってくれ」
「うん、ありがとう。今は大丈夫だよ」
時々やんちゃな人たちが視界に入ると心臓が大きく跳ねたりして若干疲れはするが、焦凍がぽつぽつと日常話をしてくれる為、程よく注意散漫になっている。
優しく、決して急かさない焦凍の歩みには感謝した。
こんな休日に顔が似ていないと腕を組んで歩いていたら、焦凍の彼女だったり、彼が思い慕う相手に勘違いされてしまうのでは、という別の不安はあったがどうやら話を聞く限りいないようだった。
「高校生になったら出来るかもね」
「そうかもな。だけど俺は早く強くなりたいから」
暗に彼女だとか好きな人を作っている場合ではない、と言った彼にうんうんと頷く。彼がこのように思うのも無理はないと知っているからだ。彼女としてはその元凶である炎司に命を助けられたので、彼の色んな面を見てもらいたいとも思うが、彼にとってそれは余計なお世話だろう。
「好きな人ができてから考えれば大丈夫よね」
「ああ。――はクソ親父が好きなのか?」
美容院に向かう途中の会話の中では最大級の爆弾を投下されてしまった。彼は純粋に疑問を投げかけたようだったが、思わずの笑みは固まった。
「ど、どうしてそう思ったの?」
「親父に対してはいつも嬉しそうだから」
「よく見てるのね」
彼の言葉に嘘はない。つまり、家にいることが多くない炎司との会話や態度が焦凍に駄々洩れだったということだ。別に隠していたわけではないが、焦凍と夏雄の前ではそこまで感情を垂れ流しにしないように心がけていたつもりだったは苦笑した。確かに年頃の男子からすればそのように見えても仕方ないのだろう。
「勿論炎司さんのことは好きよ。でもそれは前にも言ったけど、私の命の恩人で、轟家で働かせてくれてるから」
決して邪な思いではないのだと彼に伝える。彼にとっては、母親が病院で療養中なのに、彼女よりも若い女に現を抜かしている父親という構図に見えているかもしれないから。もしこのことが原因で更に炎司に対する許せない気持ちが酷くなっていたら償いきれない。その思いからは「こういうのまだ分からないかもしれないけれど、敬愛って感情なの」と続けた。
敬愛。ぽつり、と呟いた彼はその意味なら知っている、と頷く。だが、どうやらその感情が自身の父親に向けられていることに関しては理解不能なようだった。
考えこみすぎて目付きが鋭くなっている彼は再度「あいつが敬愛の対象ってのは俺にはよく分かんねぇ」と言葉を紡いだ。
「…大丈夫だよ。私は私の考えを焦凍君に押し付けるつもりはないから」
「そうか」
安心させるように微笑めば、真剣にあの父親が敬愛の対象になるのか、と考え込んでいた彼がほっとした顔になった。考えすぎて若干顔が怖かった。とは言えないもほっとする。
彼女は轟家の者からそれぞれ話を聞いている身だったので、特に焦凍の前では炎司の話題は口にしないようにしていたのだ。それを彼からされたことで外出したこととは別にドキドキしてしまった。
だがタイミングよく、彼があらかじめ調べておいてくれた美容院に到着し、暫しは休憩することとなった。


が美容師に髪を切ってもらっている間、焦凍は待合席に座って先ほどの会話を思い出していた。
の父親に対する感情は敬愛だと言う。自然と目つきが鋭くなる彼の前を足早に通り過ぎていく美容師や客。それに気づかない程彼は考え込んでいた。
――母親を追い詰めて病院送りにしたことも、その母親に煮え湯をかけられたことも、全て彼のせいだと焦凍は思っていた。だから、母親の個性のみで強くなると決めていた。だが、その憎しみの矛先にいる男は、轟家に尽くしてくれる家政婦の女に他の者よりは心を許しているようだった。
焦凍はそれが許せなかった。まるで母親が邪魔者のように扱われているような気がしてならない。それになぜには多少なりの優しさを向けるのに、母親には向けてくれなかったのだと憤りたくなる。
だけれど、焦凍を悩ませるのはのことは家政婦としても、そして一人の人間としても好きだということ。だから彼女のことは邪険にしたくなかった。それにきっと、だれもが彼女の経歴を知れば同情をして何かにつけて助けてやりたいと思うだろう。それが自分の父親にも当てはまっていたと仮定すれば良い。
グルグルと同じことを考え続けていた彼は、が彼の名を呼ぶことではっと意識を取り戻した。
「焦凍くん、お待たせ。終わったよ」
「ああ。…やっぱり切ってもらって正解だったな」
目の前に立つ彼女の綺麗に切られた髪。前髪は今流行りのものにしてもらったらしい。焦凍には流行は良く分からなかったが彼女によく似合っていると思った。
「可愛いな」
「ありがとう!焦凍くんは褒め上手ね」
自然と出ていた言葉に内心照れた彼だったが、嬉しそうに笑う彼女に伝えて正解だったと頬が緩む。
と出会うまではこの年の女は大人の女で、中学生の言葉一つなんて気にも留めないと思っていたが、いい意味でその偏見を取り崩してくれたと思う。
髪を切ってもらっただけでここまでニコニコ笑顔になれるのことを、彼は眩しい気持ちで見つめた。


2020/04/14
他人に優しくできても、家族に対しては思いが強すぎて難しいということをまだ理解出来ない轟くん。


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