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ぱっと突如目の前の景色が変わった。社長とのスケジュールの確認をしている途中だった彼女はぽかんと前方を見れば、そこにはおおよそ人間とは思えない程大きな身体をした男が険しい顔でのことを悪意に満ちた目で見下ろしていた。
――何、これ……。
「誰だ、テメェ……!」
ドン、と何かの衝撃を食らった道路がバキバキと蜘蛛の巣状に割れる。それに立っていられなかった彼女は恐怖からまともに息も出来ずに道路に崩れ落ちた。
目にも止まらぬ速さで身体が何かに圧迫されて視界がぐわんと大きく揺らぐ。気づいた瞬間には背中から地面に叩きつけられて、彼女の視界は暗転する。


05 冬のあなたは光に似てる




何度かお店に入って試着して、似合っていたものだけを会計することが続いた。
これで最後のお店だ。と店に入る前に炎司の顔をちらりと見上げれば、淡々と買い物をしている方だがそれでも若干疲れた様子。早く試着して終わらせようと意気込んだ彼女はチェックしておいた春物のコートとスカートを手に持って試着室へと入った。
身に着けていた薄桃色のコートをハンガーにかけて、持っていた試着用の服をスツールの上に綺麗に置く。その瞬間、カタカタ…と地面が微かに揺れたことに彼女は気が付いた。
――地震だ。
それにひゅっと息を呑む。頭に過るのはこの世界に飛ばされた時のこと。
思わず、壁に手をついてずりずりと床に崩れ落ちた。
「っは…、っ…ひゅ、」
小さな振動だったそれが大きくなる。振動3もないだろう、その大きさは歩いている人間には気づかれにくいものだ。だが、床に座り込んだには直に伝わる。
――恐ろしい異形によって破壊された道路。ひび割れた地面に叩きつけられた自分の身体。
ぱっとフラッシュバックした記憶に呼吸が忙しなくなる。
『こいつを握りつぶしてやる』
おどろおどろしく響く低い声。声の主は巨大な人間だった。だが、角が生えていて白目が黒い時点でにとっては異形。
ミシリと身体が軋む。それは過去の自分だ。だが、はこの一人きりの空間でフラッシュバックに冷静に対処できなかった。
――怖い。息が出来ない。苦しい。炎司さん。助けて。
「む」
微かに扉の前で彼の声が聞こえた気がした。助けを呼びたい。だけど、パニックに陥った身体は声を出せない。手を動かすことが出来ない。
「っ、は、…っ」
――炎司さん。
視界が霞む。

の買い物に付き合い始めて1時間と少し。世間一般的に見れば、彼女の買い物の時間が短い方であると炎司は分かっていたが、かと言って女の買い物に付き合うことなど滅多に無い為、それだけでも疲労感を覚える。敵と戦うよりはるかに楽であると認識しているが、かと言って慣れるものではない。
最後の店で、数着手に取った彼女が試着室へと消えていく。炎司はその扉に背を預けて他の客が通りやすいようにと努めていたが、それでも休日のエンデヴァーがレディースブランドの試着室前にいるという謎の威圧感で、試着しようとしていた女性がそそくさと店員に「もう少し後にまた来ます」と話す声を何度か耳にした。
――酷く居心地が悪い場所だった。
きらきらと華やかな装飾がされた店内も、淡い色合いの洋服も、店員たちの甲高い声掛けも、炎司にとっては別世界だ。だが、この扉一枚を隔てているの懇願するような瞳を見てしまえば、ここを離れようという気持ちにはならない。
困っている者を見捨てることはできないのが、ヒーローであるが所以だ。
「む」
だが突如として微かに地面が揺れていることに気付く。初期微動は過ぎているだろうそれは、炎司にとっては無いにも等しいものだった。
「っ、…、」
だが、それと同時に聞こえる微かな息継ぎ。忙しないそれはの試着室からだ。
「おい、。返事をしろ」
訝しく思い彼女に声をかけるも返事はない。一瞬、彼女が服を脱いでいる可能性も頭を過ったが、彼は躊躇することなく扉を開けた。
「おい!お前!」
目の前に広がる光景に彼は心臓がぎゅっと握りつぶされるような錯覚を起こして目を見開いた。
無残に散ったの花びらに覆われて、ぐったりとした彼女が青白い顔で必死に息をしようとしているが、過呼吸で上手く呼吸ができていない。幸いにも服を着ていた彼女を横抱きにして立ち上がる。目が虚ろな彼女に呼びかけても反応がない。
――先の揺れのせいか。
「おい、ソファを貸せ!」
「は、はい!」
荷物は置いたままに店の端にあるソファへと彼女をゆっくり下ろす。辛うじては呼吸をしているが、だいぶ脳に酸素が回っていない様子。過呼吸の者にとって周囲の者が慌てている様子を感じると更に酷くなることから、彼は深く深呼吸して自身を落ち着かせた。
、大丈夫だ。落ち着け。俺の声が聞こえるか?」
彼の呼びかけに対して彼女は応えない。それに眉を顰める彼。
「んっ、ん~~!!」
荒療治であることは間違いなかったが、炎司は彼女の後頭部を押さえて、口と鼻を大きな手で覆った。息が出来ない、ともがく彼女の耳元で、静かに落ち着かせるように彼女の名をゆっくりと何度も呼ぶ。大丈夫だ、と唱えながら。
本来であれば吸う息よりも長く吐き出していくうちに多少は落ち着いてくるのだが、彼女は今パニック状態で意識も朦朧としている。強硬手段であったが、数秒は息を止めさせる必要があった。
、俺の目を見ろ」
「っ、…!」
漸く炎司の声に反応した彼女が涙の滲んだ瞳で彼を見た。これなら指示に従えるだろう、とゆっくりと手を離した彼は大きく息を吸った彼女に「出来るだけ長く息を吐け」と伝える。
しゃがみこんで背中をゆっくりと擦ってくれる炎司の目を見て、は頷いた。指示通り、炎司の「吸って」「吐いて」の声に合わせて震える呼吸を下手くそに吐き出し、何度か同じように呼吸をする。徐々に吐き出せる時間が長くなり、15分程経って彼女は漸くまともに息ができるようになった。
炎司は離れていた所でおろおろと見守っていた店員の女性にもう大丈夫であることと、騒ぎにしてしまったことへの謝罪を簡単に伝えた。
「今、水をお持ちしますね」
「ああ、助かる」
ほっとした様子で足早に店を出た店員。同じく、大きく息を吐き出した炎司はどかりとの横に腰を下ろした。
「良かった…」
「ごめんなさい…、さっきの地震で、フラッシュバックが…」
未だに潤んだ瞳で見上げる彼女に、「すぐ気付けず悪かったな」と炎司は謝罪の言葉を紡いだ。漸く彼女の顔に血色が戻ってきているとはいえ、トラウマによって呼吸困難になった彼女の恐怖を思うと居た堪れなかった。
――それに、何よりも、お前を失う恐怖に体が硬直するところだった。
緩やかに首を振る彼女は戻ってきた店員から紙コップを受け取りゆっくりと水を飲み込んだ。そして何かを思い出したように、コンパクトな肩掛け鞄の中からハンカチを取り出す彼女。
「炎司さん、手が…」
「む?ああ、別にこれくらい」
彼女の小さな華奢な手が炎司の肉厚の拳を優しく開く。そこには桃色の唇の痕が彼の手に残っていた。先ほど彼女の口と鼻を塞いだ時のものか、と思い出した彼だったが、が服に付いたら大変なのでとハンカチで拭う。
自分の手よりも少しばかりひんやりした手の柔さ。ふと思い出した冷の手はここまで華奢では無かった気がする。もう手など、何年も握っていないのだから記憶が風化しただけかもしれないが。


あの後もう買い物の気分ではなくなってしまったはショッピングモール1階の噴水がある広場のベンチで腰を下ろして炎司と共に休んでいた。
荷物は自分で持つつもりだったが、あんなことがあったからか全て持ってくれた彼の優しさに申し訳なさを感じてしまった彼女だったが、彼が傍にいてくれて心底良かったと思うのだ。
「本当は今日はお前に話があったんだがな。時期尚早かもしれん」
「?何でしょう?」
狭いベンチに腰かけている為、ぴったりくっついた彼の肩から優しい熱が伝わってくる。冬だからだろうか、それが離れがたく感じるのは。
彼の言葉にそっと顔を持ち上げる。窺うように彼の横顔を見つめれば、ちらりと彼の意志の強い瞳が彼女を見下ろした。
「焦凍と夏雄が今後進学するのだから、お前は俺の事務所で働け、と言うつもりだったのだ」
お前がこの世界に来てから1年経つのだから、そろそろ普通の社会生活を営むのも悪くないと思っていた。流石に突然一日事務所で過ごすとなると負担が大きいだろうから、徐々に慣らしていくつもりであったが、と続ける彼の言葉が途切れて、は思わず先程までの恐怖を忘れて笑みを浮かべた。
――私が普通の生活を出来るように、この人は色々考えてくれたのね。
かと言って、ろくにこの世界で社会経験の無いがいきなり放り出されればどの会社からも採用されないのは明らか。だから選択肢が彼の事務所しかなかったのだろう。そもそも戸籍だって、正規ルートとは言えないが炎司が色々手配してくれたおかげで作ってもらえたようなものなので、は彼の役に立つために事務所で働くことは快く承諾できる。
「炎司さんの事務所で働きます」
「いや、無理はするな。今日のことでまだ早いと分かった」
意を決して働かせてください、と告げれば彼は首を縦に振らない。彼の瞳に宿るのは厳しい色だったが、その訳がを案じてくれているからだと彼女は理解していた。
――炎司さんって意外に過保護ね。
否、意外ではないか。と焦凍の件を思い出して彼女は彼に食い下がることにした。働かせる気なんて無かったらそもそも今この話は出てこなかった筈だ。彼が口にしたのは、を外で働かせるべきか否かを決断できていないからだ。
「因みに、炎司さんの事務所では私はどんな仕事を与えられる予定でしたか?」
「お前が前職でやっていた業務内容に似たものを与えるつもりだった」
彼の言葉に小さく頷く。尽くに歩み寄ってくれる彼に、思わず彼女の身体から花びらがふわりと舞った。話の流れで前職を聞かれた彼女は秘書をしていたことを伝える。秘書と言っても中小企業であった為そこまで大きな案件に関わったことがないが、それでも社長をサポートすることにやりがいを感じていた。
今も轟家を守るという大事な仕事をしているという認識はあったが、やはり家で家事をするより社会の繋がりを感じられるのは外で仕事をすることだろう。
「秘書か。なるほど。ヒーロー事務所だから仕事内容は全て同じとはいかないが…」
「炎司さんが面倒だと思うことは全て私がやりますよ。ファンからの手紙も私が返事を書きます」
ふむ、と仕事内容について考え始めた彼に、は優しく微笑んで一つ一つ彼の隠れたニーズを刺激することにした。
彼はその戦い方やファンに媚びない姿勢から一部の男性層からはコアな人気がある。それを知ったのは彼が以前ふと漏らした「手紙を貰っても返事など書けるか」という言葉からであったが、それを覚えていた彼女はあくまで口調を変えずに語りかける。
「炎司さんから返事が来ないことはファンは分かっていると思いますので、秘書からのお礼にはなりますが」
「悪くないな」
大きく頷いた彼には心の中でぴょんと飛び跳ねた。
「炎司さんが心配するトラウマですけれど、秘書として働くのであれば私が一番に信頼している炎司さんの近くで働くことが出来るので、家に一人でいる時よりも安心して働けます」
「だが、お前を敵との戦闘に連れていくことは出来ん」
一見炎司を煽てているように聞こえる内容ではあるが、これは全て彼女の本心であった。が一番に信頼しているのは、敵に襲われて死にそうになっていた彼女を救い出してくれた、他の誰でもない彼だった。そんな彼と仕事ができるなら轟家にいる以上に安心できる。
だが彼の言うことももっともなので頷く。流石には彼の戦闘にまでついて行くことは不可能だ。
「戦闘時は事務所で待機しています。全員が同時に出動することはほぼないですよね?」
「ああ…」
頷く彼にはあと一押しだと心中気合を入れる。
「実際に一度事務所で働くのを見てから判断しても遅くないのでは?」
「…良いだろう」
腕を組んでふうと大きく息を吐いた炎司に、はありがとうございますと頭を下げた。彼が言う通り家の外で働くのは怖いと思う。だが、いつまでもおんぶにだっこで甘えてはいられないし、は早くこのトラウマを克服して自由に生活できるようになりたい。
その一歩として彼が事務所で働くことを許してくれるのなら、このチャンスを逃したくなかった。


2020/04/17


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