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夜10時過ぎ――。がらりと響く玄関の扉。由緒ある和式の屋敷に大きな音を立てないように、は玄関へと向かう廊下を急いだ。
廊下から顔を出した先には、眉間に皺が寄った“彼”が靴を脱いで上がった所だった。
「おかえりなさい、炎司さん」
「今帰った」
相変わらず表情を変えない炎司に、はにこりと笑った。

01:どうしても消えない光


「お腹すいてますよね?今日は洋食にしたんです」
「そうか」
食卓へとついた彼の前に今日作った料理を配膳していく。栄養満点のサラダにオニオンスープとメインのハンバーグ。彼の肉体を考えるとたんぱく質の必要量がかなり多いので、もちろんハンバーグも大きめだ。
冬美と夏雄と共に食べた時に少し残しておいたサラダを持ってきて彼の手前に座る。
「いただきます」
「…いただきます」
静かだが、始まった夕食。にとっては3回目のそれ。
「毎度思うが、お前はよく太らないな」
「まっ!炎司さんは失礼ですね。これでも頑張ってるんですよ」
サラダに箸を付けたにちらりと目線を寄越した彼。どことなく力が抜けた眼差しにはふふと笑う。
彼はがもうずっと、食事の時間帯がバラバラな家族に合わせて一緒にご飯を食べているのを揶揄しているのだ。だが、その口調と目に宿る安穏とした光から、彼が本気でからかっている訳ではないと分かる。
「夜勤とかでない限り、炎司さんとちゃんと一緒にご飯食べたいんです」
「そうか」
ゆっくり食べる彼女の言葉に、頷く彼は小さく、本当に小さく「おかげで心が休まる」と呟いた。それを何とか聞き取った彼女は数秒遅れてにっこり笑った。こんな風に笑えるようになったのも皆炎司さんのおかげなんですよ。
「では、今日一日の報告をしていきますね」
「ああ」
雇われの身である彼女は食べ終わったサラダのお皿を下ろして、今日手を付けた家事の報告をつらつらと始めた。屋敷全体の掃除に洗濯、庭の雑草抜き、朝昼晩の仕込み等々。その中で足りなくなってきた道具や食料品の備蓄に関しての報告もすれば、リスト化して冬美に渡しておいてくれ、と炎司に指示を出された。
「あと、お子さんたちですが、焦凍くんは中学校から戻ってからきちんと宿題をやって、その後トレーニングを2時間程してました。ご飯も残さず食べてます。冬美ちゃんと夏雄くんも塾や大学から戻ってきたらまず私の手伝いをしてくれてから課題をしてました」
今は1月だから大学入試間近の夏雄は今が正念場の筈だった。それなのに、手伝ってくれるその優しさに、は何度大丈夫だよ、と声をかけたことか。それでも気の優しい彼は自分で食べた食器を洗って拭いて元の場所に戻してくれるのだ。
「たぶん、まだ今も二人は課題を進めてると思います」
「励んでいるならそれで良い」
ハンバーグを口に入れて咀嚼する彼の頬が膨らんでいるのを見て、つい笑みが浮かんだのを目ざとく見つけた彼。何を笑ってる、なんて言われてしまったがそこで委縮するようなことはない。何せもうこの家で働かせてもらってから1年経つのだから。
「炎司さんの頬袋がまるでリスみたいで可愛いなって」
「…俺にそんなバカなことを言えるのはくらいだ」
怒るのではなく、呆れた様子の彼にはむうと唇を尖らせた。まるで私が心臓に毛が生えているかのような口ぶりだ。思っていたことが口から洩れていたのか、その通りだが、と突っ込まれた彼女はうふふと笑った。
こんな風に彼が話すようになってくれたのものたゆまぬ努力のおかげだろう。当初はほぼ一言で会話が終了するどころか、全くの無口だったのだから。
一年前を懐古した彼女だったが、あ、とあることを思い出した。
「お風呂入りますよね?追い炊き押してきますね」
「ああ、45度で」
「了解です」
正座状態から立ち上がってお風呂場へと向かう。この家で過ごすようになって正座というものにもずいぶん慣れたな、と彼女はしみじみと思う。
――最初は痺れて立ち上がれなかったのに。
冬美に笑われながら引っ張り起こしてもらった時のことを思い出してつい目尻が下がる。少し離れたお風呂場に着いてボタンを押す際に温度設定を変えておく。
45度なんて熱いが、彼は個性故に普通の人間にとっての適温では満足できないのだろう。
しっかりと温度を確認してお風呂場を後にする。
窓から外を見やれば、満月が濃紺の空に浮かび上がっていた。綺麗な丸形に、思わずホットケーキが食べたくなる彼女。明日のおやつはホットケーキにしよう。きっと焦凍くんも喜んでくれる筈。
そう思いながら、彼女は炎司が待つ食卓へと戻った。


2020/04/14
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