乙女の匙は投げられた


 紅炎の軍議に時間を取られたが、暖かいうちに戻って来られて良かったと胸を撫でおろす。この時間帯はいつもが中庭でゆったりとお茶を飲みながら微睡む時間だと知っている夏秀は、主の微睡みを邪魔しないようにゆっくりと跫音を立てずに中庭へ足を進める。
梅の香りが鼻腔をくすぐり、淡い乳白色と紅色が視界を遮る。そこを通り過ぎると鮮やかな黄色や薄桃色、薄紫が出迎える。この季節しか花開かぬミモザや玄海躑躅、桃の花を主はよく愛でていた。
後宮の中でもの棟の建築は姉弟と比べると見劣りする簡素な造りだ。だが、この季節の花があるおかげで彼女が退屈しないのを夏秀はよく心得ていたものだから、足元に咲く小さな花を踏まぬように細心の注意を払っていた。
特にミモザが好きなは、鮮やかな黄色の花々の前に机と椅子を出してティーカップに口を付けていた。主の後ろ姿にほっと小さな溜息が零れた。彼女を目に入れるだけで焦燥感がとけて心に安寧が戻る。
だが、ミモザから差し込む淡い太陽光に反射する彼女の左耳。風に靡いた薄金の御髪から垣間見えたのは、彼女と離れる前までは存在しなかった耳飾り。
よくよく近づいて見てみれば耳飾りの根本には赤い血が付着している。訝しく思いながらも「ただいま戻りました」と主に声をかければ振り返る彼女。
強張っていた表情がほっとして緩む様を見て、何かあったのだと彼は察した。
様、それは?」
「……紅明殿が、耳に穴を開けて付けたのです…」
潤んだ瞳を伏せて唇を震わせるが発する言葉に、彼は驚愕から目を見開いた。
彼女を落ち着かせる為に、一旦外に控えていた女官に声をかけ、彼女の好きな花茶に合う菓子を用意させる。彼女の一等好きな淡い色合いの美しい皿へと飾られたそれを机に置いた。
そっと口を付けた彼女は口の中に広がる甘味に、ほうと息を吐いて少しだけ眦を柔らかくした。
――ぽつぽつと話し出した彼女。動揺と未だ残っている恐怖心から拙い話し方であったが、夏秀は途中で口を挟まずに、最後まで辛抱強く聞いた。
「…俺が軍議に行かずに、お傍にいたら……」
「いいえ、夏秀は何も悪くないの」
後悔に眉を寄せる彼に、彼の敬愛する主は力なく首を横に振った。彼女の群青と新緑の瞳が、薄金の睫毛に覆われる。自身の膝に向かう視線は、その瞬間を思い出しているのか少し虚ろだ。
「紅明殿は私たちの行動を全て知っているようだったから、いずれこうなっていたでしょう」
「……白瑛様にお伝えしましょう」
夏秀の暫しの沈黙は、平生の白瑛のに向ける愛情の強さから怒り狂う様が目に浮かんだからだ。自らの従者を選定した白瑛に己の失態を告げるのは恐ろしくもあったが、の身の安全には変えられない。
だが、彼女は暫し考えるように目を瞑り結局首を振った。
「お姉様には言わないわ。…今お姉様は将軍になる為に奮闘していらっしゃるし、私のことで余計な悩みを増やしたくないの」
「…そうですか…。姫がそう仰るなら分かりました」
彼女の言葉に嘘は無いのだろう。だが、姉への遠慮よりも紅明にそのことを知られるのが恐ろしいのだろう。夏秀は物憂げに花茶へと視線を落とす彼女にそう思った。
彼女の左耳に下がる、繊細な金の装飾を施されたしずく型のルビー。本来ならこのようなデザインを好いている彼女だが、与えられた時の状況が状況の為、どうしても気分は晴れないだろう。
――どうしたら、また穏やかにこの人が笑ってくださるだろうか。
太陽が下りてきて、少し陰ったミモザの下で静かに思いを巡らす主をそっと見守ることしか出来なかった。


 三日に一度、必ず訪れる場所がにはあった。
小鳥さえもまだ挨拶を交わさない黎明に、静かに女官たちに身支度を整えてもらう。丸い鏡台に向かう彼女は髪の毛を結い上げられながら、濃紺の空に黄金の光がゆっくりと昇る様を見つめていた。
着物も平生よりも刺繍が贅沢に入れられた桃色の生地のものを羽織り、白と瑠璃紺の帯で締めあげる。
様、お白湯です」
「ありがとう」
静寂な朝の空間を壊さぬように、物音ひとつ立てずに現れた夏秀から白湯を受け取り口にする。それ以外は一切口にしない彼女は、夏秀を連れて部屋を出た。
徐々に濃紺と黄金の比率が変わりつつある空。朝の空気を吸い込めばしんと冷え切った空気が鼻腔と肺を突き刺す。吐く息は辛うじて白くはならないが、それでも指の先から熱が奪われていくのを感じる。
静まり返った早朝の道を歩むの手には今朝積んだばかりの花束があった。色取り取りな花びらはこの季節にしか咲かぬ花。手折らぬようにそっと持ち直して、彼女は漸く着いた大きな建物がある庭へと足を踏み入れた。
橙色の屋根の両翼には尊い人々を守るように雄々しい表情をした龍の像が黄金に輝く。扉へと続く白い道を踏みしめて、彼女は元より美しい姿勢を更に正した。
――此処は煌帝国の中でも特に厳かな場所、白徳大帝と白雄、白蓮の霊廟である。
大きな虎が躍る緋色の扉を夏秀が押し開ける。ここから先は皇族と限られた者しか入ることを許されない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
開いた扉の先は早朝の淡い光が窓から差し込み、神聖な空気を纏っている。夏秀と目を合わせて小さく微笑んだ彼女は夏秀から水差しを受け取り、彼を扉の前で待機させて中へと入っていく。
霊廟の中は、白徳の像が手前に立ち、奥では左右に分かれて白雄と白蓮の像が立っている。
朝の静かな光がかの偉大な白徳大帝を柔らかく照らし、薄暗闇の中でぼんやりと光る。
拳を合わせて、三日前に飾った花を花瓶から取り出し、新しい花を活けていく。
――にとって、父とはこの国の先導者であり、白雄の弟妹たちの父であるが、自らの父であるという気持ちは希薄であった。
親子として接する機会が無かったというのも大きいだろう。見上げる彼の威厳のある顔を、生前に何度拝んだか指折り数えてみたが片手で足りてしまった。だが、それでもにも等しくその血は流れている。
「………お父様、今日は良い天気ですよ」
親子としての会話などしたことがなかったから、何と話しかけて良いのか分からずいつも天気の話をしてしまう。あの世で彼がこの一方的な会話を聞いていたなら飽き飽きしているだろうが、彼女はそれで満足して白雄のもとへ足を向ける。
「白雄お兄様は今の時期だと鈴蘭水仙がお好きでしたよね」
そう話しかけながら花を取り換えれば、彼はよく覚えていてくれたな、と言わんばかりに微笑んだ気がした。実際は雲間から差し込んだ日の光が彼の口元を照らして陰影をつけたことによる錯覚だったが、それでもは嬉しかった。
幼い頃は、彼らの愛情を真っすぐに受け止めることが出来ずに、ただただ恐れ多くて身を震わせることしか出来なかった。だが、今になって分かる。彼らの愛情は真であり、その真綿で優しくを守ろうとしていてくれたことを。
「白蓮お兄様の為に、今日はムスカリーを摘んできました」
白蓮の前に赴いて飾るのは、綺麗な紫色の蕾が沢山ついたムスカリー。花言葉は「寛大な愛」。そっと彼の爪先に触れて当時を懐古する彼女。本当に、この花言葉は彼にぴったりだと思った。
遠巻きから見つめることしか出来なかったを最初に見つけてくれるのはいつだって白蓮だった。隠れても、足早に別の方向へ向かっても、いつでも「おいで、」と太陽のような笑顔で抱き上げてくれた彼。
「お兄様……」
また、あの頃のように抱き上げてほしい。自身の左耳で揺れる宝石の耳飾りに、多少とも不安を抱いている今、成人へと徐々に近づいてはいても、そう願ってしまう。切ない胸の疼きに、知らず知らずのうちに眉が寄っていた彼女。
そこに響いた足音が鼓膜を揺らす。夏秀は霊廟の外に居るはずなのに。数歩離れた背後から聞こえたそれにはっと目を見開き振り返る。整えた髪の毛にいくつも差した簪がしゃらん、と音を立てた。
振り返った先には、薄暗い青のベールから、一歩前へ出て朝日に赤い髪を輝かせた紅炎がいた。ぱあっと一気に明るくなった彼の顔に、生者であることを思い出した彼女は「紅炎殿も来ていたのですね」と紡ごうとするが、龍を思わせる彼の瞳に絡めとられて動かない。
礼をしなくてはならないのに、何故かその瞳から目を逸らすことができずに息をすることも忘れて見つめ合う。
実際に見つめ合っていたのはほんの僅かな時間であったが、にとっては数分の出来事のように感じられた。
彼が、その瞳の炯々とした輝きを収めることなく、口を開く。
「俺の側室になれ、
「?!」
しん、と静まり返った霊廟の神聖な空気を震わせた、彼の玲瓏とした声。前置きも何も無く、単刀直入に告げられたその内容に彼女は目を見開いた。
紅炎を越えた先に白徳大帝、の背後には白蓮、その左には白雄がいるこの場で、よりによって彼女に側室になれ、と。死者の魂を尊いものとして奉る霊廟――殊更故皇帝と故第一皇子たちはこの国一番の尊い御魂だ――で第一皇子が話して良い内容ではない。
それは紅炎も分かっている筈だろう。困惑したあまりに彼から目を逸らした彼女の脳裏に過ぎるのは夏秀の顔。ああ、だがここに彼は入ってこられない。
「こ、こんな場所で不謹慎です…紅炎殿」
是とも否とも口にすることが出来ない彼女が出来たのはぎこちなく微笑むことであった。お兄様方が聞いております。とか細い声で付け加えれば、紅炎はふと鼻で笑った。
「だからだ。お前の兄君にも聞いて頂かなくてはな」
朝日がさんさんと差し込み、白い光で徐々に充たされていく部屋で、やけにの心臓はうるさく脈打った。ドクドクと耳元で鳴る心音に、カラカラに乾いた喉。ゴクリと固唾を飲み下して、彼女は瞬いた。
彼は、この場であえて言うことに意味があると言う。先人に対してあまりに不遜だったが、彼に口を出せるのは現皇帝と皇后くらいである。
白徳大帝が亡くなって、と話し始めた彼。
「お前は唯一の後ろ盾を失ったな。…お前はその瞳故外に嫁ぐことも許されず、今後死ぬまで宮中で過ごすだろう。」
彼の視線が向かう先は彼女の緑色の瞳。母親から色濃く受け継いだ容姿。指摘されたことにぐっと喉が詰まった。
結婚出来ないこと自体を憂いたことは無い。今のまま、夏秀と共にゆったりとした時の流れに身をまかせられるのであれば、それは穏やかな幸福であった。だが、
「国に利益をもたらさぬ皇女を周囲はどう見るだろうな?」
「……それは、…」
彼が言及したのは彼女の懸念そのものであった。思い出すのは、幼い時分に投げかけられた誹謗中傷。他国の王族と婚姻して国を大きくすることも出来ず、かと言って武の道で将軍として戦果を残すこともできない足手まといの皇女に対する陰口は辛辣であった。
『穀潰し』
『邪魔者』
『ああ、忌み子なんて生まれなければ良かったのに…』
『いっそ殺してしまうのはどうだろう』
当時、悪意ある大人たちからぶつけられた言葉を思い出して、胸の前で彼女は両の拳を握りしめた。
紅炎はそんな彼女を見ても表情を変えずに話を続ける。
「お前の後ろ盾である白瑛が将軍になれる可能性は?将軍になれたとして生き残る確率は?」
「…お姉様は今、懸命に武の道を……」
矢継ぎ早に理詰めしてくる彼に困り果てた彼女は、決して生命線が頼りないわけではないと説こうとするも彼が許さない。
「いつ千切れるか分からん細い糸に縋るなど、阿呆か?」
――白瑛はお前と違って嫁ぐことが出来るんだぞ。
その言葉に頭が真っ白になる。が恐れて見て見ぬ振りをしてきたのは、いずれ訪れるであろう姉の婚姻であった。
脳裏に、婚儀の着物を着た白瑛が眉を寄せて申し訳なさそうにに小さく手を振る景色が流れる。彼の人は彼女のことを本当に大切にしてくれていたが、それでも皇帝の言葉に逆らえる程の力を有してはいない。
命令されれば今すぐにでも嫁ぐ準備をしなければならない彼女の姉。本当にそうなれば、今度こそ彼女の後ろ盾は無くなり宮中での暮らしは暗く淀んだものになるだろう。の視線は自身の足元に落ちた。
「…すみません、一度考えさせてください…」
「ああ」
暫し逡巡して出した言葉に、意外とあっさりと紅炎は頷いた。話は終わりだ、と言わんばかりに外套の裾を翻した彼。コツコツ、と徐々に小さくなる彼の足音。遠くで夏秀が紅炎に挨拶をする声が僅かに聞こえる。白く輝く朝日の中に彼が消えていくのを見送り、は溜息を吐いた。

2020/03/06

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