印を刻んで


 ふと巻物を読みたいと思った。今日は曇り空で庭に出ていてもあまり楽しくなさそうだ。草花も木もいつもより輝きが薄れて覇気がない。部屋にいても、楽器を奏でることしかできないし――は楽器を奏でるのがあまり得意ではなかったから――本殿と後宮の間にある図書室に向かうことにした。
別に後宮から出る事を禁じられているわけではないが、本殿に近付くのは毎度のことながら戸惑われる。の身分は白瑛たちとは違ってあの頃のままであるし、本殿に近付くと散歩をしている紅姫たちに嫌な顔をされることもあった。その度に、は自分の容姿を恨む。青にも、赤にもどちらにも染まることが出来ない彼女を、周囲は嫌う。
図書館へと向かう道、そんなことをぼんやりと考えていたからだろうか、足元の窪みに気付かずに足を取られた。
「あっ」
様」
ぐらり、と身体が斜めに傾いた所を、夏秀に危なげなく支えられた。鈍くさい自分を助けてくれた彼にありがとうと言う為に彼を見上げる。しかし、思いの他近い顔に目を見開いた。腰に回された腕の力強さや、心配そうにを見下ろす彼の顔に、瞬く間に顔に熱が上がってくる。
「あ、ありがとう」
「歩いている時に考えごとはおやめください」
「ごめんなさい」
足首を捻っていないかと確認した彼は、どうやら短い付き合いではあるものの主の性格をきちんと理解しているらしく、の図星を突いてきた。それに素直に謝罪しては再び歩き出す。心臓がやや早鐘を打っているようで、それを落ち着かせるように何度か小さな深呼吸を繰り返した。
ちらり、と半歩後ろにいる彼の顔を盗み見ようとすれば、気配で気付いたのか彼はどうしましたと言うように嫋やかに笑うから、また心臓が歪に跳ねた。
この気持ちには気付いてはいけない気がする。そう、胸の高鳴りを抑えるように、はこれから読む巻物のことを考えた。

図書館に着いて目的の巻物を探す。夏秀だけに任せるでもなく、自分も探した方が早く見つかる筈だと2人はそう離れない所で巻物を探していた。が探している巻物は、所謂冒険書である。外の国を知らないにしてみれば、それは彼女をいつもわくわくさせてくれる物であった。特に最近好んで読んでいるのはシンドバッドの冒険書、という作品である。まだ3巻しか出ていないものの、彼の処女作を初めて読んだ時には、世界にはこんなに不思議で面白い物があるのだと驚いたものだった。
様、ありましたよ」
「ありがとう、夏秀」
この前読んだのは1巻だったから、と2巻と3巻を見つけ出した彼から巻物を受け取る。椅子に座って読もうかと椅子がある場所へと向かう途中、一人の武官が夏秀に近寄ってきた。図書館の静寂を破らないようにと、またあまりに聞かせたくない内容なのか、耳元で小さく要件を伝える武官に分かったと返事する夏秀。
何かあったのだろうか。ちらりと彼を見上げれば、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「申し訳ございません、紅炎様の軍議に呼ばれてしまいました」
「あら…」
どうも次に控える戦争の国に一度赴いたことがある私の話を参考になさるようで。一通り説明した彼に、それなら仕方ないと頷く。軍議というからにはそれなりに時間がかかるだろうから、自分一人で部屋に戻ることを伝えたら、彼は少しばかり心配気な様子で武官の男と共に軍議へと向かって行った。
紅炎の軍議にまさか夏秀が呼ばれるとは思ってもみなかった。彼の武官としての地位はそんなに高くなかった筈だ。いつ、彼の姿が紅炎の目に留まり、情報を掴んだのかには分からない。
彼は暫く禁城にいると言っていたし、大方まだ先の戦争についての軍議なのだろう。それなら時間がかかると言ってもそんなに大した時間ではないかもしれない。
長机の上に巻物を置き、椅子に腰かける。しゅるり、と紐を解き心を躍らせてくるくると巻物を回す。そこに、一つの影が落ちた。
「こんにちは、殿」
「――紅明殿、こんにちは」
はっと頭を上げた先には従者を付けず一人で立つ紅明がいた。急いで椅子から立ち上がり膝を折れば、彼は一歩に近付いた。この前、と話しだした彼はどうにも椅子に座る気はないようだ。彼が椅子に座らないなら彼女が座るわけにもいかない。そのまま立って話を聞くことにした。
「兄王様と話したようですね」
「はい、後宮まで足を運んでいただいて…」
穏やかに微笑む彼に、彼女もあの日のことを話す。まさか、閣下自ら訪れてもらえるとは思ってもみなかったと驚嘆の意を込めながら。そうすれば紅明は頷きながらの思いも寄らぬことを口にした。
「確かに、白瑛殿も大層憤慨していましたね」
「え…?」
何故そのことを知っているのだろうか、と一瞬言葉に詰まったに知っていますよと紅明は微笑む。
貴女が最近お三方でお茶をしたことも、初めての従者と仲睦まじい様子なのも、白瑛殿が手首に口付けしたのも。全部、知っています。
にこやかに話している紅明なのに、その笑みに計り知れない“何か”が宿っている気がして、は後ずさった。
なぜ、その場にいる筈も無い彼が何でも私のことを知っているのか。ぞくり、と背筋に悪寒が走るも、もしかしたら彼は私をからかっているのかもしれないとは恐る恐る彼に小さな笑みを向けた。
「紅明殿は、何でも知っていらっしゃるのですね」
「勿論。貴女のことなら、何でも」
だから、許せないのです。じりじりと後ずさるを追うように、ゆっくりとついて来る紅明が今までの笑みを消して呟いた言葉。何が、と思った時にはとんと肩に壁が触れて、もうこれ以上下がることは出来ないのだと気付いた。はっと紅明を見やれば、彼はもう目前にいた。蛇がゆっくりと獲物を飲み込むように、そっと退路を塞いでに覆いかぶさる紅明。心臓はこれまでにない程五月蠅く喚いた。
この場に夏秀はいない。と紅明の2人きり。自分で乗り切らないといけない。そう分かっているのに、彼に触れられてさえいないというのに、頭は真っ白になって震える声で紅明の名を呼ぶことしか出来なかった。
するり、と垂れている髪を耳にかけられ、白くて小さな耳が露わになる。まだ一度も耳飾りをしたことがない耳朶は薄らと桃色に色づき傷など一つも無い。
「こうめ――」
「貴女には孤独が似合う」
肌に指が触れるか触れないかという、微かに耳に滑る彼の指にぞくりと背中が震えた。まるで慈しむように耳元で囁かれた声は、今まで聞いてきた彼の声の中で一番熱っぽく、顔に熱が集まる。だが、孤独とはいったい、なぜ。混乱するを尻目に、紅明は懐から細い針を取り出した。それに目を見開く。
「紅明殿!?」
「安心してください。貴女への贈り物です」
身の危険を感じて無礼を承知でぐっと彼の肩を押しのけようとするけれど、その両腕を上でまとめられて身動きが取れなくなる。じたばたと如何にかしてその拘束から逃れようと身を捩るけれど、耳元で彼が大人しくしていないと顔まで傷付いてしまうかもしれませんよ、と言った。それにびくり、と肩を揺らす。
――紅明殿は一体何を。
恐怖から身を震わせるに紅明は微笑む。そっと、耳朶に宛がわれた針に背筋が凍る。漸く、穴を開ける気なのだと気付いた。一瞬で終わりますよと彼が口にした途端、耳朶に鋭い熱が走った。
「ああっ!!」
じくじくと痛みと熱を訴えるそこから、彼が針を引き抜く。流れた血を彼の指が拭っていった。痛みから視界は涙で歪み、紅明がどんな顔をしているのか分からない。だが、きっと笑っているのだろうと思った。
ごそごそと懐から何かを取り出した彼は一通り血を拭った耳朶にそれを付けた。
「ああ、良く似合っていますよ」
ぐすぐすと泣くことしか出来ないに、うっとりとした様子で見下ろす紅明。これを付けていれば身体に細菌は入っていきませんので外さないでくださいね。優しい言葉を投げかける紅明には頷いた。一見穏やかな声だったが、これを外したら何をされるか分からないから。彼女は耳飾りを外すことを諦めた。
ただ、この耳飾りは一度付ければ二度と外れない魔法がかけられているのだが、それはの知らないことであった。


2015/05/29

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