じゃらり、と足を拘束する枷と鎖を虚ろな瞳で見下ろして思う。
必ずいつか、この国を飛び出して、故郷へ行こうと。
彼らに二度と会えないような所まで逃げて、逃げて、慎ましくても良いから穏やかな生活を送るのだ。
そう思って毎回眠りにつく。


所詮それは夢でしかなかったのだ、と悪魔が言った。




 は白瑛と共に禁城の後宮で過ごした。姉と弟の間のこじんまりとした棟に、の部屋はある。今年でも15ということで、皇族の中ではかなり遅いが彼女にも従者が一人付けられることになった。
本来であれば皇族は幼少のみぎりより従者が付けられるが、かねてより一人の皇女として周囲から認められていなかった彼女には従者は必要ないと思われていたからである。誰にも頼れず、常に孤独だった彼女にとって、それは一つの救いであった。勿論、傍には白瑛がいて見守ってくれていたが、彼女は将軍となる為に必死に自分の腕を磨いてきて、いつも彼女の傍にいられるというわけではなかったのである。
紅炎も、この頃になれば第一皇子としての存在感を他国へと示すようになり、国にいることが珍しい程に戦争に赴いていた。ここ数年彼との交友が無いのはその為である。噂では迷宮という不思議なものに挑んでいくつも攻略していると聞いていた。
「お初にお目にかかります。私は玉夏秀です」
に選ばれた従者は武官出の若い青年だった。白瑛が自ら選定を行い信用できると決定した者であり、彼女はそれに全く文句は無かった。出世欲というものが無い彼であれば、禁城で疎まれる故白徳帝の妾腹の皇女でも、変わりなく接し、身を挺して守ってくれるだろう、と。
「これからよろしく、夏秀」
「はい。いつもお傍におります」
跪いた彼に、も合わせて座り込む。白瑛と李青瞬のような信頼関係を築けたら良いと彼女は思った。

 白瑛にお茶を誘われた。煌帝国内の反乱軍を鎮めにここ一月程留守にしていた彼女が帰って来たのだ。久しぶりの義理姉との再会に嬉しくなる。
彼女が少しずつ権力を握るようになっていく中で、の身の回りの世話をしていた女官たちや乳母は交代させられた。厳しく躾けを行なっていた者たちがいなくなり、代わりに彼女の出自をよく知らない新米の女たちを与えられたのだ。そのおかげで、は少しずつ白瑛と話すことに対してのタブー視を和らげられてきている。
夏秀を後ろに引き連れて彼女は白瑛の棟に向かう。後宮とは言え、季節の花が咲いた庭はとても美しく、それを眺めながら、お姉様にはあの百合の花が似合いそうだ、と脳裏に彼女と百合のイメージを思い浮かべる。
「いらっしゃい、
「お姉様、反乱軍の討伐からお帰りなさいませ」
庭先に白を基調としたテーブルを設置し、その上にお茶と菓子類を置いて待っていた白瑛には頭を下げる。彼女をちらと見た限りではその綺麗な肌に傷一つ無いようで、少しばかり安堵した。
彼女に促されるまま椅子へと腰掛ける。だが、もう一つある椅子を不思議に思っていると、背後から「姉上」と少年の声が聞こえた。それに一瞬肩を揺らす。あ、この声は。
「白龍、いらっしゃい」
「…義姉上がいると分かっていたら来ませんでした」
にっこりと笑って手招く白瑛にむっとした表情を向ける白龍。しかし、ちらりとに寄こした視線には、侮蔑と憎悪が込められている。それに肩を竦ませる。
白龍様に、申し訳ない。折角、久しぶりに姉と話すことが出来ると喜んでいただろうに、私のせいでその再会を壊してしまうなんて。
元々白龍は幼少期よりのことを毛嫌いしていたが、大人になるまで待ってくれと言った白蓮の言葉とは逆に、年を重ねていけばいく程、彼のへの嫌悪は強くなっていったようだった。特に、あの大火で兄たちを亡くしてからというもの、白龍の彼女への風当たりは増した。
ギロリと鋭い瞳で見てくる白龍に、白瑛が彼の名を呼ぶ。
「久しぶりに姉弟が揃ったのですから、仲良くしましょう」
「……はい、姉上」
暫く沈黙があったものの、白龍が頷いたことによって満足した白瑛がその手ずからお茶を注ぐ。私が禁城にいなかった間に起きたことを話してちょうだい。と微笑んだ彼女に、ぽつりぽつりと話しだす白龍の声に耳を傾ける。
最初はにその話を聞かせるのが嫌だったのか、あまり饒舌ではない彼だったが、彼女をいないものとして扱うことにしたのか、次第に普段のように白瑛に語りかけていく。
私には、見せてくれない表情を彼女には見せるのだ。そっと、言葉にされない彼の拒絶を感じ取り、寂しく思う。彼がどうしてここまで自分を嫌っているのか、彼女は分かっていた。
きっと、父が母以外の女と子供を作ったのが嫌だったのだろう。半分血は繋がっていても所詮彼にとっては赤の他人でしかなく、愛しい兄たちが死んでいったのにそんな赤の他人がのうのうと生きていることが許せないのだ。
――兄上たちの代わりに、お前が死ねば良かったのに。
そんな彼の心の声が聞こえる。
、あなたは?」
「わ、私は…」
ぼんやりしていて、一瞬白瑛の呼び声に反応できなかった。ぱっと顔を上げれば、いつの間にか白龍はいなくなっていた。きっと、少しでも早くがいる空間から離れたかったのだろう。ずきり、と痛む心にあまり意識をやらないようにして彼女を見やる。
ぽつりぽつりと彼女がいなかった間のことを話していく。あまり部屋から出ない自分の話は、彼女を楽しませることが出来るのだろうか、と不安だったが彼女は変わらずにこにこと微笑んで話を聞いてくれた。
「夏秀も良くしてくれています」
「そう、気に入ってもらえて良かったわ」
するり、と頬を滑る彼女の柔らかい手の平に緊張すると共に少しばかり気恥ずかしさを感じる。まるで、慈しむように撫でてくれる彼女の手に、覚えてもいない母親像を見出してしまって。


 玉夏秀は昔から出世欲、という野望からは遠く離れた男であった。彼と同期の夏黄文は忘れられ気味である紅徳の第八皇女の従者になったことに対して不満を持ち、どうにか彼女をより高い地位に伸し上げようとしているようだったが、夏秀はそんな風には思わなかった。
身分で言えば、きっと彼の主であるは第八皇女と同程度であろう。だが、主はそれに対してあまり悪くは考えていないようだった。義理姉君が側にいて見守ってくれているからだろうか、彼女は自身に危害が及ばないなら地位を高めようとは思っていないらしい。主がそう思っているのだから、夏秀が出世するために彼女をどうこうするなど、考えすらしない。ただ、ゆったりと穏やかな時を主と共に過ごしたいと思っていた。
「夏秀、お茶にしましょう」
「夏秀、今日は天気が良いの。散歩しましょう」
何かにつけ、は夏秀を呼んだ。それを煩わしいとは思わない。彼女のお願いなど他愛のないものだ。寝る時ややむを得ない場合を除いて、彼女の傍から離れることがない自分にとって、彼女を主として愛するにはそう時間がかからなかった。また、彼女も自身のことを頼りにしてくれているようで、それだけで満足していた。
「姫、庭の花を摘んできましたよ」
「わぁ、綺麗。花瓶に飾りましょうか」
彼が花束を持って部屋に帰ってくると彼女は微笑んだ。それに、彼も微笑み返す。
は母親の血が強く現れた容姿にコンプレックスを抱いている。片方の瑠璃色の瞳を除いて、姉弟と全く似ていることがないとたまに寂しそうに溢すのだ。
だが、こういう微笑を見ると、それは間違っていると夏秀は思う。彼女の表情の作り方は、よく白瑛に似ているから。花が咲き乱れるような華やかな笑みではなく、どこか穏やかに何かを見守るような優しげな笑み。
それを指摘すれば、彼女はぽぽぽと顔を赤くして口を噤んだ。どうやら義理姉と似ていると言われて嬉しくもあり照れたようだ。
――愛しい、と思う。このままどこにも嫁げない彼女と共にずっと年を重ねていくのだと思った。


2015/05/28

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