雨上がりの、空に掛かる虹が好きだ。
柔らかな木陰から、美しいあの人たちを眺めているのが、好きだ。
時に静かに、時に賑やかに、玲瓏とした彼らの声が、まるで美しい叙事詩の調べのように、私の心を捕える。

輝くような…あれは、彼らがいた景色だった。
あれは、彼のいた景色だった。


あれは、彼らのいた景色だった




  それは、触れられる程近くにあるけれど、決して自らが触れてはいけないものであった。何よりも美しく、気高く、純潔な青い人たち。彼らは、皆家族であるという印に、青く輝く黒髪を持っていた。
私には、決して持ちえない色。は木の陰から陽だまりの中で眩しく笑うその家族をそっと眺めていた。名を呼ぶのも憚られる、自身の義兄弟たち。醜く卑しい身の彼女とは真逆の、太陽のような人たち。
ふと、二番目の義理兄と目が合って、はびくりと肩を揺らして木の幹に隠れた。どくどく、と心臓が五月蠅く喚く。見つかってしまった。どうしよう、私が直視したら神々しさから目が潰れてしまうと、私などが話しかけてはいけない方々だと、女官たちからは常日頃から言われているのに、また約束を反古してしまった。
、おいで」
一緒に遊ぼう。の隠れている木の陰にまでやって来た白蓮の、優しい声が彼女の鼓膜を揺する。俯いていた彼女の肩に優しく手を乗せた白蓮に、彼女は顔をそろそろと上げた。見上げた先にある、白蓮の慈愛に満ちた瞳に、彼女は目が離せなかった。まるで、何物にも代えがたい宝石のようで。
「だ、第二皇子様…」
「だから、いつも言ってるだろ?俺たちは兄弟なんだから白蓮お兄様って呼べって」
卑しい出の自分が話しかけるなど恐れ多くて、彼女は着物の袖で顔を半分隠しながらそっと彼を見上げる。しかし、彼はそんな彼女にむすりと頬を膨らました。その様子に、彼女は慌てる。
どうして、花魁などという高貴な身でもない母親から生まれた私が、正当な皇位継承者である第二皇子の名を簡単に呼べようか。考えるだけでも恐ろしい。
「お、お兄様方は、まるで太陽のようで…」
私などが目を向けてしまえば、卑しい私の目では耐え切れずに失明してしまうでしょう。そう言って、ただでさえ目を合わせられない様子のに、白蓮は少しばかり溜めていた息を吐きだした。そして、をひょいっと抱き上げる。
「お、お兄様…!?」
驚きの余り目を見開いて固まった。なぜ、彼は私を抱き上げているのだろう。はっと、驚きから彼の目を見つめていたことに気が付き、はぎゅっと目を瞑った。私などが直視してしまえば、目が潰れてしまう。
「目を開いて御覧、
俺の目を見ても、お前の目は潰れなかっただろう?そういって、ふふと笑う彼に、はそろそろと目を開いた。いつもより近い場所にある白蓮の顔。高貴な彼の目が、卑しい私のことを見ている。それだけで、彼女は恐ろしさと羞恥と、嬉しさが入り混じる。おろおろと困惑している様子の彼女に、白蓮はその優しい響きのまま語りかけた。
「俺たちが太陽だというなら、お前は月のようだ」
その月光のように輝く髪は、この国ではお前一人しか持っていない。彼は尚も続ける。
「いつか、月へ帰ってしまうのではないかと、俺は心配になるよ」
そう言って彼は笑った。自身を月と喩えた彼に、はゆるゆるとその言葉を咀嚼した。月、確かに、私は月のようだ。誰かに光を当ててもらえない限り、自分がそこにいることすら周りの人に気付いてもらうことなど出来ない。白蓮の素直な褒め言葉は、にしてみれば皮肉なものにしか捉えられなかった。
――さぁ、兄上たちが待ちくたびれる。
そう言って、木陰から陽だまりの中に足を踏み出した白蓮に、彼女は肩を震わせた。あそこには、光の象徴であるような兄弟が、楽しげに談話している。
白雄や二つ上の姉の白瑛は、を妹として可愛がってくれた。それは、彼女にとっては恐れ多いものだが、不快ではない。寧ろ、心地よいものだった。しかし、自身の義理の弟にあたる白龍は、その幼さゆえか、異母姉である彼女のことを酷く嫌っていた。兄たちがいる所ではそれをなるべく抑えているようだが、彼女には彼からの嫌悪を感じ取ることが出来る。
「は、白龍様に申し訳ありませんので…」
近付いてくるこちらに気付いた白雄が、白蓮の腕の中にいるを視界に入れて、その眦を柔らかくする。その瞬間、彼の足に纏わり付いていた白龍がむっと唇を尖らせるのに、は気付いた。私が行くことで雰囲気を悪くしてしまうなど、耐え切れない。
「白龍はまだ小さいからさ、許してやってくれよ」
そのうち、ちゃんと物事を考えられるようになったら、お前のことを慕ってくれる筈だ。の不安を物ともせずに、白蓮は微笑む。その様を見ていると、やはり太陽のようだと彼女は思った。何事にも動じない、その精神と全てを包み込む慈愛が、その微笑からは滲んでいる。
、聴くと良い。今白瑛が琵琶を弾くところなんだ」
白雄が手を伸ばして彼女の頭を撫でながら、そう言った。とうとう白雄たちの御前に連れてこられたはそっと白蓮の腕から下ろされる。目の前には、にっこりと微笑む白瑛と、ぷいと横を向いて視線を合わせようとしない白龍、そして白蓮と同じように慈愛に満ちた目でもって見下ろしてくる白雄がいた。
「拝聴いたします…」
武術の腕が立ち、なお楽器まで奏でることができる姉に頭を下げる。そうすれば、彼女はそんなにかしこまらないでと笑って琵琶の弦を爪弾きだした。
その音は軽やかでありながら、人々を魅了する。まるで、彗星の尾のようにぼうと耳朶に余韻が残った。


  は、西方の国から奴隷として連れてこられた女と白徳帝との間に生まれた私生児であった。女は煌帝国に連れてこられてからは、煌帝国の女たちには無い西方特有の美しさで、ただの遊女から花魁へと上り詰め、白徳帝に見初められる直前には国一番の花魁とまで噂される程であった。噂を確かめたくなったのか、それとも正室に飽きたのか分からないが、白徳は彼女の母親との間に子を生した。
禁城へ迎える程度にはその花魁のことを気に入っていたようだが、彼女はを産んでそう幾日も経たないうちに亡くなった。もともと彼女は白徳を愛していなかった上に、遊郭以上に規律が厳しい宮中での暮らしや、女官の陰口や政への配慮から、精神が蝕まれていたのだ。
  白徳はの母親こそ気に入っていたが、その娘である彼女のことは愛さなかった。彼が愛するのは、玉艶とその子供たちだけであって、はその中に含まれていなかった。彼女が男であったら、少しは立場が変わったかもしれない。しかし、彼女は女児であって、皇位を継げるような権利はなかった。男児でないというだけで、幼少期に本来なら全ての子供たちが平等に与えられる筈の愛情を、彼女は与えられずに過ごしてきた。

彼女に与えられた年配の女官たちは、口をすっぱくしてと義理の兄弟たちとの身分の差を説く。
自ら話しかけるな。目を合わせれば、あなたの目はその神々しさに耐えられず潰れてしまうだろう、と。

「いくら母親が名のある花魁だとしても、所詮は売女。卑しい出自を隠すことは出来まい」
「異国風貌の美しさなど、何の役にも立ちはしないもの。せめてどこかの名家であったら」
「加えてあの左右非対称の瞳。忌み子など…ああ、気味が悪い」
「誰があの方の身体を洗いに行くの?私は嫌よ、異人の子は臭うというもの」

湯殿に入っても、誰も身体を洗いに来てくれない。外からは女官たちの悪意ある言葉が聞こえてくる。もう、そこから出られなかった。女官たちの言葉が怖くて、たとえ湯が冷たい水に戻っても、彼女はその中に居続けた。
さむい。こわい。つらい。かなしい。どうして、こんな目にあわなくてはいけないの。
ぽろりと瑠璃色と緑色の瞳から涙が零れた。それを優しく指ですくってくれる母親はいない。彼女を虐げる害意から身を盾にし守ってくれる父親はいない。彼女にあるのは、自分のちっぽけな身体と、妾腹の皇女という立場だけであった。
そうやって、周りから毒を流し込まれ続け、は育った。心を守るためには、周りから心を閉ざす他なかった。信じて、裏切られたら。気を許した者から、暴力を受けたら。それが恐ろしくて、女官たちどころか、を唯一愛してくれる義理の兄姉たちにでさえ、心を開くことが出来なかった。
それでも、彼らは、彼女にとっては陽だまりであり、永遠の憧れであった。彼女の中では神格化されてさえいたと思う。きれい。うつくしい。りっぱ。りりしい。そういった賞賛の言葉は、きっと彼らのために作られたのだと、そう思った。


ぱしん、と乾いた音が薄暗い部屋に響く。は、一瞬遅れてやって来た痛みとじんじんと火照る熱から、頬を叩かれたのだと、気付いた。いたい。そっと上を見上げれば、そこには眉を吊り上げて怒りを露わにする乳母が見下ろしてくる。
「何度言えば分かるのですか!身の程を弁えなさいと、私は何度も…」
ごめんなさい。もう、しません。震える声で乳母に伝えるけれど、それは今にも消え入りそうで、彼女には届いていないようだった。
部屋には乳母の金切り声が響く。壁に寄り添うようにして立っている女官たちはただ冷たい目で彼女を見下ろすだけ。
扉は閉まり、窓も開けられていない。息苦しさを感じた。この薄暗闇の中には、嫌悪と狂気が充満している。
まるで、牢獄のようだと思った。兄弟と寄り添うことを許されず、心を蝕んでいく牢獄。彼女は、この大きな部屋の中で、静かに出口を失っていったのだ。

先程まで一緒にいた彼らはいない。を咎める声から救ってくれる白蓮はいない。泣いている彼女の頭を撫でてくれる白雄も、彼女の手を取り希望へと進もうとする白瑛も、何もいない。

やはり蜻蛉だったのだと、足元を見つめながら、彼女は涙を堪えた。


2014/06/27
高尾滋作『ゴールデンデイズ』をパロディしました。

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