お前だけが、欲しかった。
他のものだって、大切には変わりないけれど、
目に映して激情にかられるのは、いつだってお前一人だった。


彼らの場合




  これは悪夢だと信じたかった。兄二人が同時に亡くなり、同じ日に父も暗殺された。どうして、こんなにも運命は彼らに厳しかったのだろうと怒りが湧いた。どうして私から、白龍から、そして、誰かに愛してもらうことの喜びを知らないあの子からさえ、彼らを奪ってしまったのだろう。
感情に任せて泣きじゃくりたかった。でも、隣に立っている白龍が泣いていないのに、姉である彼女が泣くわけにはいかない。とぼとぼと後ろを付いてくるを見やれば、彼女も同じように暗くよどんだ目で空をぼんやりと見つめていた。
  哀れな義理妹。母を産まれて数日で亡くし、その腕に抱き上げられた記憶もないだろう。実父である白徳からも愛されたことがない彼女は、愛だけでなく後ろ盾さえ失くしてしまった。唯一妹として愛してくれた白雄たちさえも失ってしまって、彼女はいったいこれからどうなっていくのだろう。
泣くだろうか。恐怖するだろうか。それとも、全てに絶望して壊れるのだろうか。
父も、母もなく、たった一人でこの妹は生きていけるのだろうか。妾腹の皇女とはいえ、地位ゆえに彼女は幼い頃から生きていくには困らないような生活をしていた。それが、白徳が亡くなったことで、元々卑しい出自として疎まれていた彼女は、手のひらを返すように邪険にされるだろう。
――可哀想な。運命は、彼女にも厳しかった。
どろり、と何かほの暗い感情が心に流れ込む。それは次第に胸全体へ広がっていき、白瑛自身に成り代わる。
――“たった一人でこの妹は生きていけるのだろうか。”否、彼女が一人で生きていけるわけがない。少しでも風が吹けば、彼女の命の灯は簡単に消えるだろう。元々、彼女は第二皇女という立場でありながらも忌み子であったために、外へ嫁がせることは出来ない。そんな、国にとっての邪魔者を排除するためには。そう考えなくても思いつく。暗殺でも事故でも、彼女は簡単に死ぬだろう。
可哀想な、。誰にも頼ることが出来ない私の義理妹。たった一人の妹。愛しい。白龍に向ける愛情とはまた違う感情が、白瑛を支配する。
――この子は、誰かに縋らないと生きていけない。
官僚たちの悪意ある囁き声に俯く義理妹の、なんと矮小なことか。少しでも傷付ければ、簡単に彼女は壊れる。哀れで、何より愛しい。
――は、私が守る。私が守らなくちゃ。私だけがを守れる。に必要なのは、私だけ。
振り返って、彼女に微笑んだ。
彼女の名を呼べば、そっと顔を持ち上げる彼女。さらり、と月光色に輝く髪が一房肩から落ちる。瑠璃色と新緑色の瞳が自身の目を見たことに、ぞくりと何かが背中を駆け上がる。
――可哀想で、可愛い。あなたは私のもの。
「あなたは私が守るわ」
ぎゅっと彼女を抱きしめる。だから心配しないで。そう言う彼女の心には狂喜で満たされていた。今この瞬間、は白瑛のものになったのだ。白瑛という檻の中に閉じ込めて、誰にも触れさせやしない。は一生、白瑛のためだけに生きていく。
そっと背中に回された手は、小刻みに震えていた。白瑛の笑みは益々深くなり、その瞳を狂気に染め上げた。
――何よりも好きよ、


  義姉弟が傍にいながらも、どこかぽつねんと取り残された雰囲気の幼姫をじっと眺める。周りの官僚たちの悪意ある言葉に視線を落とし、孤独に苛まれる彼女。
それを見て、漸く完成したのだと紅明は狂喜した。実父に疎まれ、女官や下々の者たちにさえ厳しく躾けられてきた少女を静かに守っていた兄たちはいなくなった。父も兄も同時になくして、彼女は完成したのだ。
孤独という世界に立つ、唯一の女神に。ずっと、彼女の完成を待ちわびていた彼にとっては、これはめでたいことだった。
神が誰かと共に歩んで良い訳が無い。神はいつも孤独でなければならない。孤独の中にあるからこそ、何よりも神々しく周りを寄せ付けない程の美しさを手に入れることが出来る。
それゆえ紅明は誰にも手を差し伸べられない彼女を望んでいたのだ。漸く望んだ彼女になったのだ、と恍惚とした表情でを見つめる。しかし、そこに白瑛が動く。そっとを抱きしめた彼女に、怒りから背中が粟立つ。
――神への冒涜だと思った。
何故、手を差し伸べる。何故、慈しむ。神は誰にも守られてはならない。神はあらゆるものを享受する存在なのだ。誰も、手を触れてはいけないのだ。それなのに、白瑛はその禁忌を犯した。
ぐっと拳を握りしめる。視線を外さなければ、今にも激情に駆られて彼らを引き離していただろう。じっと足元を睨み付けて、何とかこの怒りを抑えようとしている紅明には前を行く紅炎の目に憤怒が宿っていることに気付かなかった。


  白徳とその皇子たちの葬儀の間、紅炎はただひたすらのことを見つめていた。否、睨んでいると言った方が正しいかもしれない程に、彼の目付は鋭い。
少し前を行く彼女の背中はあまりにも脆弱で、少しでも押せばそのまま倒れてしまいそうだった。彼女の虚ろな瞳には、涙は浮かんでいない。ただ、虚無感がその目から溢れてしまいそうだった。
不運で、不幸で、哀れな娘だと紅炎は思った。彼女に降りかかる不幸は全て、彼女の意志ではどうにもできないものばかりだ。花魁の娘として生まれたことも、その母親が早くに亡くなり、彼女を親として愛してくれる者がいなかったことも、妾腹の皇女としてぞんざいに扱われ嫌な思いをしてきたことも、唯一兄弟として愛してくれた者たちが死んでしまったことも。何もかも、形式的な後ろ盾さえもなくなってしまい、彼女は独りになった。
対して紅炎はこれから正当な第一皇子として扱われるようになるだろう。全てを失った娘と、これから全てを手に入れていく紅炎。その差は大きい。
だが、身分の差が生まれてしまったとしても、彼は気にすることはなかった。元来から彼の性格は、自分が正しいと思うことが正義であって、それ以外は気にしない性質だ。むしろ、権威を手に入れた彼はそれを使い、あの哀れな従妹姫に手を差し伸べてやろうと思っていた。
周りの者は皆反対するだろう。白雄たちが亡くなる前であったら、彼と彼女の立場は、身分は違えども似たようなものだった。しかし、紅炎は高徳が皇帝になった今、正当な皇位継承者になる。そんな彼と、彼女の立場は本来であれば交わるものではない。
だが、彼にはそんな声を黙らせる程の知恵と生まれ持った王としての気質があった。周りの者たちを黙らせる実力も、傲慢さも彼は持ち揃えている。
それ故、彼は待った。あの、自身によく懐いていた従妹姫は、自身に泣きついて来るだろうと。実の兄弟たちにさえ心を曝け出せなかった彼女が、唯一甘え縋るのはいつだって紅炎だった。
――炎、たすけて。
そう言って、彼女が自身に縋りついて来たら、彼は暫くの間考える素振りを見せただろう。
「どうして俺がお前の世話をせねばならない。俺は第一皇子で、お前は妾腹の皇女だぞ」
そう言って、紅炎は彼女を一度は突き放す。だけど、彼は知っていた。どんなに突き放しても、彼女が縋りつけるのは自身しかいないということを。
彼女はそれでも紅炎に懇願するだろう。瞳一杯に涙を溜め、ぎゅっと眉を寄せて必死に泣くまいとしながらも、彼女の眦からは涙が一筋流れ落ちる。それを見た紅炎は、仕方がないとばかりに溜息を吐く。
「お前を俺の側室にしてやろう」
いずれ、俺の子を生したなら正室にしてやる。そんなことまで彼は考えながらそう言う。自身が先にこの従妹姫に心を奪われていたことが癪であり、自身の矜持を守るために、さも、を娶るのは不承不承だという体で接して、彼の本心を隠し、彼女を自身の一番近い場所に置く。女を抱いたことは数えきれない程あるが、正室も側室も娶っていない彼にとっては初めての妃だ。最初の妃に、彼女を迎え入れるというのは酷く気分が良い。側室なら周りの者たちは何も言わないだろう。多少、故皇帝の第二皇女を側室に迎えるという、体裁が悪いものではあるだろうが、一度彼女を妃にしてしまえばこちらのもの。これで漸く、彼女を自身のものに出来るというわけだ。
  しかし、彼がそこまで考えていたのに、視界で白瑛が動く。にっこりと微笑んで、のことを抱きしめる彼女の目には狂喜が隠しきれていない。認めたくはないが、紅炎はに恋心を抱いていたからこそ、白瑛の目にどう彼女が映っているのかが理解出来た。
彼女は、同じ穴の貉だ。ぎり、と忌々し気に拳を握るが、どうせは彼女に縋りつかずに、自身のもとにやってくるだろうと平常心でいようと心掛ける。
だが、彼の思いとは裏腹に、彼女は白瑛の背に縋りついた。徐々に抱き着く力を強くする彼女に、彼の視界は真っ赤に染まる。
怒りから身体がわなわな震えて、頭が一瞬真っ白になった。
――あの娘は何なんだ。今まで俺にばかり懐いていたというのに、何故今更白瑛に縋りつく。お前が縋りついて良いのは俺だけだろう。お前は、そんなことも忘れてしまったのか。
嫌な思いをした時に抱き上げてやったのは誰だ。居場所のないお前に、傍にいることを許してやったのは誰だ。お前が必要だと言った相手は誰だ。
何故、俺の手ではなく、白瑛の手を取る。
どろりと胸の中に黒くて重たい物が流れ込む。酷く、腹が立った。あの従妹姫の裏切りに、腸が煮え繰り返りそうだ。
殺気の籠った目で彼女たちを見つめていたら、その視線に気付いた白瑛と目があった。怯えるかと思いきや、彼女は挑発するように莞爾として笑み、益々彼女を抱きしめる力を強くした。
彼女の目に映るのはへの劣情。我がもの顔で自身が手に入れる筈だったを閉じ込めている彼女を見て、憎悪が溢れ出した。
あれは、おれのものだ。何故、お前などが気安く触れているのだ。
ぎろりと白瑛を睨めば、彼女は嬉しそうに笑った。あれは、勝利の笑みだ。が縋りつくのは、紅炎ではなく白瑛であるということを誇っている。
――良いだろう。が白瑛に縋りついたというのなら、力ずくでも彼女を手に入れてやる。悪いのはお前だ、。俺ではなく、白瑛を選んだことが間違いだったのだ。


2014/08/04

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