そう、今まで気づいていなかっただけで、彼らは生まれた時から独裁者だった。
生まれながらにして、その素質を持っていたのに、今まで表れていなかっただけ。
共に笑っている時も、眠りについている時も、いつでも彼らはそれであった。
それが、この日に全て始まった。


狂気が生まれた日




その日は、曇りだった。
雨が降りそうだと思う程に黒く不穏な様子を醸し出す雲を見上げながら、少女は自室を出て後宮へと向かった。
昼下がりのことであった。
いつものように従兄のもとへ向かう彼女の後を、女官が二人ついて行く。会話もなく、静々と歩く三人はまるで、そこだけが喪に服しているかのような雰囲気であった。

 禁城の皇帝たちが住まう区画が、何者かによって火を放たれた。その報せを聞いたのは、少女が従兄と遊び疲れて、彼の部屋でうとうとと微睡んでいた折である。焦った様子の女官の声に、眠気など一瞬にして霧散した。
、急ぐぞ」
「うん」
少女――は従兄の紅炎に手をぐいと引かれて慌てて立ち上がった。紅炎の自室から出て、本殿へと向かう。どの人間も、日頃の仕事を放って慌てた様子でたちと同じ方向へと向かっていた。怒号や甲高い声が辺りに響き渡る。皆、どうにかして火を食い止めようと尽力するために、辺りを駆け巡っていた。平生であれば、穏やかな静寂が包み込む禁城が、騒然としている。
――お兄様方、お姉様、白龍様。
歩幅が違う彼女のことを気遣うことすら出来ない様子の紅炎に、やや乱暴に手を引かれながらも、彼女は自身の義兄弟たちのことを案じていた。
冬の気候であるゆえ、時刻は夜の6時とはいえ、とうに空は暗闇に覆われ、吐き出す息は昼より更に白い。
はぁはぁと息を乱す彼女。鼻は赤くなり、刺すように冷えた空気を吸った肺はきりきりと痛む。だが、それくらいで足を止められるはずなど無かった。
「兄上、殿」
「紅明」
本殿へ向かう途中に、まだ早く走れない紅覇を抱えた紅明が追いついた。いつもなら穏やかな笑みを浮かべている彼が、強張った表情を隠すこともせず、紅炎とを見つめる。早く行こうと、従兄弟の身を案じる彼に、紅炎が先を促す。
「炎兄、明兄、どうしたの〜?」
何故兄たちが酷く焦燥した様子で本殿へ向かうのか分からないのだろう、紅覇がきょとんとした顔で紅明を見上げる。その無邪気な声に、誰も答えられない。ただ、走る速さが早くなった。

 凄まじい状況だった。女官や武官、文官の地位も関係無しに、人々は入り乱れて消火の作業をしていた。しかし、その甲斐も無く、黒煙の隙間から更に勢いを増してきたオレンジ色の炎が見え隠れする。
ただ、目を見開くことしか出来なかった。人々はオレンジ色の光に照らされて、光っている。火に近付いていないというのに、じりじりと肌をあぶられるような熱気を感じた。木が、建物が燃える焦げ臭い匂いが辺りに充満している。
「早く水を!!」
「まだ皇子たちが中に!!」
「白徳帝はまだご帰還されないのか!?!」
「どうにかして突破口を探せ!!」
悲鳴、怒号、指示の声が入り混じって、阿鼻叫喚の図が出来上がっていた。緊迫した状況の中で、まるでたちだけが、その場から切り取られた存在のように、身動きすることすら、言葉を発することすらできない。皇子たちの住む棟が舐めるように炎に覆われて、轟々と音を立てていた。
!」
ふと、自身を呼ぶ声に、は漸く時を取り戻したように、その声の方へ顔を向けた。瞬間、ぐいと身体を引かれ、彼女は白い着物に身体を包み込まれていた。
「良かった、あなたは無事だったのね」
「お、お姉様…」
首を上に向け彼女を抱きしめた人物を確認すれば、そこには涙で瞳を潤ませた白瑛がいた。
まだ、兄上たちと白龍が…。眉を寄せ、泣くのを我慢している様子の彼女を見て、漸くは先程の男たちの会話を理解した。
――あの、燃えたぎる炎の中に、お兄様方が。
ぞっと、心が冷えていく。実父にさえ可愛がられたことのないを、弟妹たちに向けるものと変わらぬ愛でもって慈しんでくれた彼らが、まだあの中にいる。
漸く我に返ったのか、ふらふらと紅炎が炎に飲み込まれた屋敷に近付く。徐々にその足元はしっかりとしていき、今にもその燃え盛る炎の中に身を投じようとするも、周りの武官たちに身体を抑え込まれる。
「離せ!!白雄殿と白蓮殿が!!」
「危険でございます、紅炎様!!」
どうかお許しを!!そう何人がかりで身体を拘束されている紅炎は目をギラギラと光らせて、従兄弟たちがまだいる棟を燃やし尽くそうとする炎を映す。
「お、兄様…白龍様…」
の震える声は、バチバチと炎の爆ぜる音に掻き消されていた。


翌日の早朝、漸く全ての火を消火することが出来たようだった。しかし、白雄と白蓮はあの大火の中で亡くなった。人々が尽力したにも関わらず、あの黒く焼け落ちた瓦礫の中から、皇子たちを探し出すことは不可能なようだった。唯一、燃え盛る炎の中から火傷を負いながらも生還した白龍は、今は治療を受けて眠っている。
全焼した皇子たちの住居を目にして、はぽっかりと心に穴が出来たような気持ちになった。もう、二度とあの優しい笑顔を拝むことが出来ないのかと、遠くからでもあの芳しい声を聞くことが出来ないのかと思うと、胸がぐっと詰まり、嗚咽が零れそうになる。
そしてなお悪いことに、白徳帝が逝去したことを知らされた。どうやら、昨晩の遠征からの帰りに、敗残兵に暗殺されたようだ。その事実を聞いた時は、悪いことが立て続けに起こるというのは、嘘ではなかったのだと妙に冷静な思考で考えた。
――これから、私はどうなるのだろう。
途方もない虚無感に襲われた。白徳、白雄、白蓮の葬儀の最中、何度もその場に蹲りそうになった。毅然として前を歩く白瑛と、どこか魂が抜けたようにぼんやりと宙を見つめる白龍。その二人がいなければ、自分では抗えない無気力感に、その場に崩れ落ちていただろう。

 は、今後この城で生きていくための後ろ盾を昨夜のうちに失ってしまったのだ。
元々、彼女の母親は彼女を産んで間も無く亡くなった。父も、母も何の後ろ盾のない彼女が、これからどうこの城で生きていくのか。
ひそひそと、官僚たちの不躾な言葉が彼女の心を抉っていく。
「白徳様が亡くなった今、あの姫はこの国の邪魔者」
「皇子たちの代わりに、あの姫が焼かれていれば良かったものを…」
「そうすれば、国も混乱せず邪魔なものを排除できたのだかなぁ…」
を取り巻くものは、兄弟従兄弟を除いて、冷たい悪意でしかない。彼女を一番に愛してくれていた義理兄たちは、幼い弟妹を残してあの世に逝ってしまった。彼女を守ろうとしてくれる大人など、誰もいない。
「…………」
前に立つ義理姉の喪服の袖に縋りつくことも出来ずに、はぎゅっと自身の喪服を握り締めた。もともと俯きがちだった顔はとうとう自身の足元を向く。
ごちゃごちゃと訳の分からない感情が心の中で鬩ぎあう。どうすれば良いのか分からなくなった。自身は誰にも望まれない子どもだ。そう思うと、目の前が真っ暗になった。
――助けてほしい。守ってほしい。私を愛してほしい。
……」
ふと、いつの間にか白瑛がこちらを向いていた。彼女の顔には、この場には相応しくない微笑が浮かんでいる。なぜ、彼女が笑っているのか分からなかった。強がっているのだろうか。それとも兄が二人も亡くなって、悲しみのあまりに壊れてしまったのだろうか。彼女は白瑛の心を読むことが出来ずに、消えてしまいそうな声で義理姉の名を呟いた。
瞬間、彼女は抱きしめられた。白瑛の暖かな熱が、喪服越しに伝わってくる。
「あなたは私が守るわ」
だから、心配しないで。そう言った彼女の拘束は益々強くなる。
「お姉様…」
涙で潤む瞳で、彼女を見上げる。そこには、莞爾として笑む彼女がいた。
手を、伸ばして良いのだろうか。この人に、縋りつくことを許されたのだろうか。わたしはここにいて良いのだろうか。彼女は、私を愛してくれるのだろうか。
ぐるぐると醜い程に自分のことしか考えられないは、恐る恐る彼女の背に腕を回した。
生まれて初めて、誰かに抱き着いたような気がした。
しかし、は見落としていた。彼女の瞳がどろりと濁っていたことも、少し離れた所から金の眼が怒りに染め上げられていることも。

 白徳が亡くなった場合は、皇位継承権第一位の白雄が皇帝の座に就く筈だったが、継承権第二位の白蓮と共に逝去したことによって、皇帝の座は第三位の白龍に向かう予定だった。しかし、彼はあまりにも幼すぎた。今の煌帝国はまだ危うい均衡の上で成り立っている。誰かの手を借りねば政が出来ない幼帝よりも、成人した皇帝が必要だった。こうして、皇帝の座は皇位継承権第四位の皇帝弟である紅徳に継承されることになった。
皇后であった玉艶は、亡くなった兄への敬意として、紅徳に妃として迎えられ、白瑛や白龍は紅徳の養子となった。しかし、そこには含まれることは無い。彼女は、故白徳帝の妾腹の皇女として、益々禁城で肩身の狭い思いをすることになる。
「大丈夫よ、
しかし、白瑛がそう言うのだ。私は嫁がずに、この国で武人として上り詰める。武人としての立場を作れば、あなたのことも今とは比べ物にならない程、守りやすくなる、と。
「だから心配しないで。あなたは私の傍にずっといれば良いの」
そう、笑った彼女に、はこくりと小さく頷いた。やっと、誰かに愛してもらえる。その愛に自分も応えることが出来るかもしれないと、少しばかりの希望を持って。

まだ幼いは、白瑛に安寧を与えられることを引き換えに、何を失うことになったのか、まだ気付いていなかった。


2014/07/03

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