ねぇ、あの時のあなたは

 静かなバーでウイスキーの入ったグラスを傾ける。からん、という氷同士がぶつかる軽やかな音が静寂に流れるジャズの中に消えていった。
いつもならこんな小洒落たバーよりも、大勢で賑やかに騒げる居酒屋を好むのだが、今日の俺は一人でこんな風に酒を飲みたい気分だった。何故かは分からない。ただ、センチメンタルな感情に浸りたかったのかもしれなかった。
「お客さん、そろそろやめたらどうだい?」
「ん?ああ、まだまだ平気さ」
当初は快く色んな種類の酒を提供してくれていたこの店の店主は、深夜を過ぎ三時まで回ってしまっているのにずっと飲み続ける俺に、流石にもう止めた方が良いと思ったのだろう、静止の言葉を投げかけてくる。俺はそれにへらりと笑って言葉を返す。実際、俺はこのくらいの量では酔わない。いつもより遅いペースで飲んでいたのだから、飲んでいる量だってそこまで多くないのだ。
だが、確かにこの店主が言う通りもうこんな時間だ。いくらなんでも彼もそろそろ店を閉めたい時間に違いない。俺はそれを察して今まで飲んでいた酒の料金を置いて立ち上がった。
「気を付けてな」
「ああ、ありがとな」
ぽりぽりと左目の横にある古傷を掻きながら俺は店の扉を抜ける。からんからんと扉に付けてあった小さな鐘が鳴って、それが何だか無性に哀愁漂う音に俺は聞こえた。
今日の俺は全体的にブルーだ。こういった気持ちはいつもはない。けれど何年かに一度定期的に、忘れたころにそんな気持ちがざざっと押し寄せてきては、またどこかにいなくなる。まるで、潮の満ち引きのように。
「……」
今の生活に不満はない。四番隊隊長という光栄な地位に就いて、自分の隊を引き連れて白ひげ海賊団を守っている。オヤジだって、俺の隊が功績を上げた時はもちろん喜んでくれるし、それを隣で共に笑ってくれる友だっている。
戦うことは好きだ。敵と対峙して相手を殺す瞬間、自分は確かに生きていると感じることが出来る。敵と戦う時はお互い命がけだ。その時に、俺は一番高揚する。何よりも、生を感じることが出来るその瞬間。
しかし、戦いの後はあまり好きではなかった。相手はもちろん死んでいて、先程のような高揚を感じることが出来ない。高ぶっていた気持ちも、瞬く間に冷えていく。
それを今までに何度も繰り返してきた。相手を壊すためだけの、欲望に満ちた戦い。
――何かが足りない。その何かが俺を虚しくさせるんだ。それさえあれば、きっと、この生活に虚しさを感じることはなくなる。


 女でも抱こうか。そう思って借りたホテルのシャワーでお湯を浴びながらそんなことを考える。しかし、やはり自分でも分かっていたが、今は女を抱くことができるような心境ではなかった。きっと、こんな気持ちで女を抱いても自己嫌悪と、虚しさがまた潮のように満ちてきて、俺を悩ませる。いつもだったら、誘われた瞬間に即OKするような可愛い女の子に腕を組まれたけれど、その娘の誘いを断ったのもそれのせいだ。
――汗を洗い流したことによって気持ちも少しはすっきりしたかもしれない。自慢のリーゼントは頭を洗ったせいで重力に従ってぽたぽたと水を滴らせていた。けれど、それをまたリーゼントにするような気力は、今は無い。
俺はそのままホテルを出て歩き始めた。もうそろそろ朝日が昇る時間帯だ。先程よりも少し明るさを増した空を見上げる。表通りを歩くような気分にもなれなくて、俺は長い前髪を掻き上げながら路地裏をぶらぶら歩いた。
しかしこんな時間帯とはいえ、やはり暗闇を好む連中はこういった路地裏に集まって来るらしい。目の前に現れた如何にも悪人という面をした男たちが数人立ちはだかった。
ったく、俺は今そんな気分じゃねえってのに。とんだ邪魔をしやがって。
「よぉ、兄ちゃん。有り金全部置いてきな」
「こんな所に一人で来たのが間違いだったなァ」
ひゃひゃひゃ、と銀色に光るナイフをちらつかせながら滑稽な笑い方をする男たちに俺は心底面倒くさいといった表情で見返す。テメェらに渡す金なんてねェよ。そうはっきりと言い返してやれば、とたんに額に青筋を立てる奴ら。
「なら仕方ねぇ。お前を殺して頂くまでさ」
「そうかよ。じゃあさっさと来いよ」
感傷に浸る邪魔をしてくれたこいつらには多少苛ついていたから、わざと挑発する。そうすれば男達は簡単にその挑発に乗って俺に飛びかかってきた。ナイフを振り回すそいつらの攻撃を避けつつ、カトラスで応戦する。奴らはこの狭い路地裏にその長さの剣は不利だと思って俺を襲ってきたのだろう。しかし、俺は白ひげ海賊団四番隊隊長を任されている男だ。その程度の苦境など恐れるに足らず。
一人一人確実に仕留めていく。折角シャワーを浴びたのにびしゃ、と血飛沫が飛ぶのが忌々しい。自分の服に血が飛び散らないように俺はそれを避けた。血が付くと落とすのが大変だからな。
淡々とこの男たちを殺していく俺に、最後の一人が逃げようとする。
「ギャァア!許し―」
「許さねぇよ」
走りながら慈悲を乞うた男は、しかし俺に斬り殺された。先程までは喧騒に満ちていたこの路地裏に、突如静寂が訪れる。俺以外に息をしている者たちは誰ひとりとしていないから。ぴちゃ、と死体から流れ出る血だまりを踏みながら俺はカトラスをしまった。漸く終わったか、という思いと共にまた虚しさが募る。

――俺には、何が足りないんだ。

じくじくと胸が痛む。このままじゃいけない。このままだと闇に引きずられる。そんな声が頭の中で聞こえた。とにかく、こんな路地裏からは出ようと、光の射す方向へ足を向ける。きっと、太陽の光が射す方向へ行けば俺はこんな気持ちを捨てられると、心の中で盲目的に信じながら。
ふと、光の射す方向へ足を進める中、ぽつんと何か小さなものが地面に落ちているのを見つけた。暗いこの場所でも白く輝いているそれ。これは何かではない、赤子だ。徐々に輪郭がはっきりしてくるそれに近づいて、見下ろす。
「赤子か……」
真っ白なふわふわした髪と、ルビーのような瞳を持つその赤子。見ず知らずの人間が来たのに怯えもせず、泣きもせずじっとこちらを見てきた。真正面からその赤ん坊の眼差しを受けて、俺は思わずたじろいだ。こんなに純粋な存在に、汚い自分を見透かされたような気がして。
――真っ白な、穢れなき赤子が、こんな薄汚れた暗い路地裏に残されている。考えなくても、その答えは分かった。そっと、その赤子を抱き上げる。
「お前、捨てられたのか?」
「……」
赤子は俺の問に答えない。そりゃそうだ、こんな小っちゃいのが話せるわけが無い。けれど、俺を見つめるその瞳は俺の中の思いを見抜くような不思議な色を放つ。
――赤ん坊。そう、ただの赤ん坊だ。誰かが育て、守らなければ簡単に死んでしまう脆弱な命。
そうだ、俺は――ずっとずっと、守る存在が欲しかった。何かを壊すために戦うのではなく、守るために戦う理由。こいつだ。俺がずっと求めていたのはこいつなんだ。
こんな所に捨てられた、可哀想な赤ん坊。俺が、守らなければ死んでしまう命。
急に鼻の奥がつんとして、目頭が熱くなった。つうっと頬に伝った熱い液体に、俺は涙を流しているのだと自覚した。それと同時に、胸の内に広がるじんわりとした熱。久しく感じていなかった、何かを愛しく思う気持ちだ。
そんな俺をじっと見つめる赤ん坊。暗闇の中でさえ、輝きを放つ白い存在に、俺は確信した。
――こいつは、俺の光だ。こいつが、俺を導いてくれる光になる。
「…」
ぺちん、と温かくて小さなものが俺の頬にあたる。涙が流れているそこに、赤ん坊の手が触れていた。まるで、泣くなとでも言っていそうなその行動に、俺は益々涙を止める術を失った。
あたたかい、あたたかい、小さな手の平。紅葉のようなその手の平からじんじんと熱が伝わってくる。
血と欲とに塗れた俺と、何も知らない穢れなき赤ん坊。
「――お前は俺が守ってやる」
これは決意だ。俺がこいつを立派に育て守ってやる。欲望とか汚いものから俺が遠ざけてやる。ずっと、ずっとこいつがこの白い光を放ち続けるように、俺が――。
ぐいっと乱暴に涙を拭い、俺は安心させるように赤ん坊に笑いかけた。汚れた俺でも作れる、最大級の笑顔を。そして、日の光の射す方向へ歩き出す。先程までの迷子のような気持ちは消え去った。俺は、前へ進める。だって、今は俺の道を照らしてくれる光がこの腕の中にいるから。
もう、大丈夫だ。俺は守る存在を手に入れた。この存在を守り抜いてみせる。


なぁ、十年後の俺は、お前をちゃんと守れているか?


2013/04/06


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