瞼の裏の君3

「職長!もうそろそろ、上がる時間ですよ」
「おう、知らせてくれてありがとうな」
思っていたよりも仕事に熱中していたのか、定時間際になっても俺は作業を続けてしまっていた。それを部下の一人が時計を指差すことで教えてくれたことによって、俺はやっと今何時かを知る。
もう、六時か。ふうと額に浮かんだ汗を軍手で拭う。空はもうオレンジ色から青に変わってしまっていた。
ふと、思い出すのは昼間に見た写真の、あの少女の笑顔。人を無意識に引き寄せる赤い目を持つ少女のそれが、目を閉じる度に瞼の裏にちらつく。
あの頃は毎日がとても楽しかった。俺はガレーラカンパニーから自宅までの帰路で、当時を懐古した。


「うお!!?」
どんっと腰に突進してきた何かのせいで、俺は驚きの声を上げながらよろけた。「何だ!?」そう疑問を発しようとしたが、それをするより早く聞こえたけらけらと笑う声に、俺にぶつかってきた奴の正体が分かった。
、テメェ…」
「ごめんね、パウリー」
俺が文句を言うよりも早くに謝罪を言われてしまっては、それ以上何も言うことは出来ない。だが、こいつはにこにこと笑っていて全然反省しているようには見えなかった。まったく、と葉巻の煙を吸い込みながら俺の腰ほどしかない少女を見下ろす。
女というにはあまりにも幼すぎる少女。彼女は己が苦手としている女だ。だが、年齢が幼い上に肌を露出することがほとんど無いこの少女とは気が合う。一々ハレンチだ!などと叫ぶ体力を温存できるし、何より一緒にいて楽しい。
「今日は俺の所なんだな」
「うん、昨日はルッチの所にいたから」
なるほど、ルッチの所ならさぞかし退屈しただろうと彼の無口ぶりを揶揄すれば、別にそんな事はないよと返ってきた。なんだかんだ言って、あのルッチでさえもこの少女のことを気に入っているようだ。彼は部外者に対してはこと冷徹――必要最低限の干渉しかしないと言った方が良いだろうか――なのに、に対してはそんな態度が無い。
「今日は借金取りに追われてないの?」
「追われてねェよ!お前、俺のこといったいなんだと思ってんだ!!」
一瞬きょろきょろと辺りを見渡した彼女に、いったい何を探しているのかと思えば、借金取りだったらしい。この少女の中で俺という人物はいつも借金取りに追われているとインプットされてしまったのだろう。何て嫌な方程式だ。だがヤガラレースにお金をつぎ込んでしまうのも事実。ギャンブルを止めない限り、俺はきっと借金取りに追い続けられるだろう。
冗談だってば、と笑うに軽く肘で頭を小突く。そうすれば小気味いい音が彼女の頭から鳴って、彼女は痛いと大げさに騒いだ。そんな彼女の様子を見て笑っている俺は、随分とこの少女に絆されてしまったようだ。
ルッチやカクがどうたらと言う以前に、俺ものことが気に入っていた。毎日彼女が飽きもせず造船所の作業を見続けるのも嬉しい。自分が大好きでずっと憧れていた職に就くことが出来、そしてまた誇りを持っているこの職を言葉と行動で賛美してくれる彼女のことを好きになるのは、そう時間がかからなかった。
「ンマー、。お前、今日はパウリーの所にいたのか」
「あ、アイスバーグさん!」
「お疲れ様です」
間延びした声と共に現れたこの会社の社長に、はにっこりと笑って手を振った。彼女は俺たちのことは呼び捨てで名前を呼ぶのに、アイスバーグさんにだけはさんを付けて呼ぶ。何故かと以前聞いたことがあったが、その時彼女は「皆がアイスバーグさんって呼ぶから移った」と言っていたっけ。移ったってなんだそりゃ。敬意を持って“さん”を付けていたのだろうかと思っていた俺は、その答えを聞いて笑ってしまった。彼女らしいといえば彼女らしいのだけれど。
「ん?パウリーがやってるのは艤装か」
「うん、組み立てるのを見てるのが一番楽しい!」
彼に自分がやっている作業を見られるというのは、今でも少し緊張する。社員に親しまれている社長とはいえ、自分たちはこの男に憧れてこの会社に入社した。だからそんな彼に手元を見られるというのは、嬉しい反面少し怖い。
そんな俺の気持ちなど知ったことではないように、彼女が爆弾発言をする。何なんだ、これ以上俺の心臓を酷使させないでくれ。俺の仕事が一番好きだなんて、照れること言いやがって。
ドストレートな言葉に顔が赤くなりそうになるのを必死に抑える。だが、アイスバーグさんはそんな俺に気が付いてにやにやと意地の悪い顔で笑った。
「ンマー、見ろ。パウリーが照れているぞ」
「あ、本当だ。赤くなってるー」
「赤くなってねェよ!アイスバーグさんも、仕事はどうしたんすか!」
けらけらと笑いながら俺の顔の赤さを指摘してくる彼女に、更に顔が熱くなったような気がした。俺はあんな風に褒められるのに慣れてねえんだよ!!からかいやがって!そう、妙に息の合う彼らに吠える。そういえば、アイスバーグさんは仕事がある筈なのに、俺の所で時間を潰していて良いのだろうかと思って、その勢いのまま問いかけた。そうすれば彼は「嫌だったから全部断ってきた」とぬかすではないか。それで良いのか、社長。
「アイスバーグさん仕事しなくて良いの?」
「良いんだ。俺は偉いからな」
「へえ〜、すごい」
「………」
二人の会話を聞いていると何だか不安になってくる。カリファもこんな自由な上司のスケジュールを立てなくてはいけないだなんて、心労が半端なさそうだ。彼の発する言葉に素直すぎる感想を漏らすを見ながら、そんなことを考える。
何だろう、たった数分の出来事なのにどっと疲れが押し寄せてきた気がした。
「あら、こんな所にいらしたんですか」
「ンマー、カリファ」
「テメ!またそんなハレンチな格好しやがって!!」
肩ほどまでしかない髪の毛をふわりと風に靡かせてやってきたカリファ。どうやら、この場にアイスバーグさんがいるとは思っていなかったらしく、彼女は一瞬彼の顔を見てぱちりと瞬きをした。次いで、俺の言葉に「セクハラです」と返してきて、俺は何でだ!と声を荒げる。だが、彼女はもうそんなことなど気にしていないように、に話しかけていた。
、喉渇かないかしら?紅茶を持ってきたのだけれど」
「わ、ありがとう、カリファ」
小瓶に入っているアイスティーをに渡した彼女。穏やかに笑いあう彼女らの様子を見ていると、何だか「ハレンチだ」なんて言えなくなってしまう。なるべくハレンチなカリファを視界に入れないようにし、の方ばかり見ていると、何故かカリファの真似をした彼女が「セクハラです」という言葉を俺に放った。
「何でだ!?見てたからか?!」
「ンマー、パウリー。じっと見るのは失礼だぞ」
三人とも顔を赤くして怒る俺のことを見て笑っている。こいつらは――あ、アイスバーグさんは除く――どれだけ俺のことをからかえば気が済むんだ。くすくすと笑い続ける彼女は、そんな俺の心境を知っているのか、「パウリーをからかうのって楽しいから」と申し訳なさそうに俺のことを見てくる。だけど、顔が笑っていて誠意が全く見られない。
チッ。舌打ちをして作業を続ける。こんなんじゃ全然艤装に集中できねえ。でも、俺の周りを包むこの空気は嫌ではなく、むしろ心地よかった。


 彼女が乗っているモビーディック号の修理が完全に終わったその日。俺は、彼女と過ごした日々が以外に短かったことに驚いていた。一か月。聞いただけでは長いと感じるその期間だが、過ぎ去ってしまえばあっという間だった。彼女は今日、この街を去る。
「パウリー」
「ああ」
準備とかあるだろうに、ここに来て大丈夫なのか?そう訊こうと思っていた言葉は重くなった唇から出てくることは無かった。そんなことを言ってしまえば、今すぐにでも彼女が帰ってしまいそうな気がして。
見下ろした彼女は、いつもと違って少し寂しそうな笑みを浮かべていた。それでも仕方がない。俺たちはウォーターセブンの船大工で、彼女は白ひげ海賊団の娘。船大工と客という立場なのだ、必ず別れは来ると分かっていた。だが、ここまで彼女の存在が自分の中で大きくなるとは思ってもいなかった。
それは、彼女も一緒なのだろうか。俺たちと別れることを悲しんでいるのだろうか。そうだから、寂しそうなのだと信じたい。
「ねえ、パウリー」
「何だ?」
いつもなら、作業を続けている筈の手を止めて彼女を見つめる。だって、今日は彼女と過ごせる最後の日だから。また明日から、彼女は俺の知らない海で旅を続ける。生存しているかも分からないような場所へ、手の届かない場所へ行ってしまうのだ。
「私ね、ここが好きだよ。一か月楽しかった」
「……」
やめろよ、そんなこと言うの。益々別れが辛くなるじゃねえか。俺はそんな彼女の言葉にただ頷くことしか出来なかった。いつの間にか、妹みたいな存在になっていたこいつが、もう明日からは見る事も出来ない所に去ってしまうのだと思うと、酷く寂しい。
「私たち…友達、だよね?」
瞳に涙をうっすらと溜めた彼女が唇を震わせながら、呟く。
「パウリーばっかりずるいのう。わしらも友達じゃろ?」
「馬鹿にはもったいないっポー!」
「もちろん私もその中に入ってるんでしょう?」
――当たり前だ。涙を瞳に溜めながら笑ったにそう言おうとするよりも前に、何故かカクとルッチ、カリファが突然現れて俺の言葉を奪っていった。それに二人して驚く。こいつらは、音もなく現れるのが得意だな。なんて心中呟いて、言葉を発しようとしたら泣いてしまいそうな、そんな涙もろい自分を誤魔化した。
彼女は不意に現れた彼らの言葉にぽろりと涙を溢して、しかし今までで一番の笑顔を見せた。
「みんな、友達?」
『ああ!』
「もちろんよ」
俺らが皆で頷けば、彼女は嬉しそうにくしゃりと笑った。まだまだ幼い少女。恋愛感情とは全く違うけれど、この瞬間、この少女が何者よりも一番愛しい存在だと思った。えへへと笑う彼女に、ルッチでさえ口元に小さな笑みを浮かべている。
「じゃあ、皆で写真撮ろう?」
「お前、カメラ持ってきたのかっポー?」
ごそごそと鞄の中を探るは、うんとルッチの言葉に頷く。何とも準備の良い娘だ。傍を通りかかった職人にカメラを渡して二言程指示している。俺たちはその間にいつもならそんなに近寄らないのに、真ん中にぎゅっと集まって身嗜みを整えておいた。
は真ん中じゃ!」
「わっ」
ぐいっとカクに腕を引っ張られた彼女が彼の腕の中に収まる。自然に首に腕を回した彼に少し羨ましさを感じつつ、俺はカメラに向かって精一杯笑った。作り笑いなんかじゃない、本物の笑顔を彼女と共に残したかったから。
カシャ、と四度続くシャッター音。きっと、俺たち全員に一枚ずつ行き渡るように、彼が気を利かせてくれたのだろう。
べろん、と出てきた写真を一人一人に渡す彼女。彼女にありがとうと言われた職人は、笑って去っていった。
「皆のこと、忘れないから…」
――皆も、私のこと忘れないでね。
「もちろんよ」
「お前ほど強烈なやつはいないっポー!」
「わしがそんな薄情な奴に見えるか?」
彼らの言葉に、彼女は泣き笑いをした。ああ、さっきはちゃんと笑っていたのに。そんな彼女を見ていると、俺は言葉が詰まった。早く、彼女に伝えたいのに唇が動かない。そんな俺に、彼女が「パウリーは?」と言うように視線を寄こす。
忘れない。忘れるわけがねェ。短いけれど、濃い一か月を彼女と共に過ごした。それを、忘れるなんてことの方が無理だ。
「忘れねェよ、絶対」
この一か月、足繁くこの会社に訪れて俺たちの作業を眺めていた彼女。そんな彼女と育んだ友情を、俺たちが忘れる訳が無い。俺は、笑って彼女と約束をした。
――忘れねェよ。こんな思い出まで残して。君と過ごしたこの幸せだった一か月を、俺たちは幾度と思い返すだろう。
約束ね。そう言った彼女は、二本の小指を俺たちに差し出す。俺たちはそれに自分の小指を絡ませて、歌まで歌った。その最中、彼女は幸せそうに笑っていて、俺はまたいつか彼女に会える時を願った。
その時は、お互い年を取ったなァなんて言いながら、酒を飲みたい。

「さようなら」

夕方、彼女は、白鯨と共に地平線に消えていった。俺たちは仕事があるから見送りに行ってはいない。
けれど、瞼の裏では彼女が笑顔で手を振っているのが見える。――それで、良いと思った。瞼の裏にいる君と、写真として残った君。それだけで、十分だった。
彼女は、俺たちの中でずっと微笑んでいるのだから。


――写真に写っているのは、太陽のように笑っている少女。そして、その周りを囲む俺たち。
今頃、彼女はどこの海で笑っているのだろうか。
目を閉じると、今でもあの時の彼女の笑い声が鼓膜を揺らす。そんな気がした。




、何見てんだ?」
不意に背中越しに投げかけられた言葉に振り返る。どうやら、サッチはアルバムではなく今の私を構うことに決めたらしい。のしっと私の背中に凭れかかってきた彼に、懐かしいでしょ?とガレーラカンパニーでの写真を見せる。そこには私と笑顔の皆がいた。ルッチは微笑程度だけれど、彼がこんな風に笑っていることの方が珍しいので、私はそれだけで嬉しかった。
「ああ、行ったなァ。お前、毎日毎日通ってたな」
懐かしい、そう呟く彼にそうだねと私は頷いた。今頃皆どうしているだろうか。三年も経ったのだ、きっとあの頃よりも更に技術的にも成長した彼らがあの街で活躍しているのだろう。
――また、皆に会いたい。

私は、そうっと瞼を閉じた。その裏に輝くのは、かの水の都と、笑顔の彼ら。


2013/03/11


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