瞼の裏の君2

「おお、良い所におったの、ルッチ」
「何だクルッポー」
「昼飯食いに行こうぜ」
休憩時間だからとブルーノの店で昼食を食べようと誘って来たパウリーとカク。パウリーはいつものように手ぶらだったが、カクの手には古くなったノートが。よく見るとタイトルの所に日誌と書いてあるのが見えた。
何でそんなものを持って来ているんだと彼に訊けば、ブルーノの店に着いてからのお楽しみじゃと何か企むような顔をする。
「さて、ブルーノ。いつものを頼む」
「ああ」
いつものようにカクが注文をすると、穏やかに笑うブルーノ。彼の大きな背中がカウンターの中に戻っていくのを見て、俺はもう一度「で、これは何だっポー?」と日誌を持ってきた理由を問う。
そうすれば、彼は日誌を開く指をあるページで止めた。
「これじゃ。懐かしいじゃろ?」
「ほう……」
「あ!こいつ、懐かしいなァ」
それは、俺たちに挟まれて笑っている少女の写真。ハットリと同じような色彩を持つ彼女。それを見て、俺はふっと笑った。
少女の名は。もう何年も会っていないのに、俺はその存在をしっかりと覚えていた。


「ルッチ」
「何だ、また来たのかクルッポー」
己の職場に響く、俺の名を呼ぶまだ幼さが残る高い声。それはむさくるしい男達しかいないこの場には不釣り合いな声で、俺は振り向かなくともそれが誰なのか分かった。ここ暫く、毎日のようにガレーラカンパニーに訪れている少女だ。
「過保護な保護者たちが怒るぞポッポー」
「大丈夫、ちゃんと言って来たから」
すとんと俺の隣に腰を下ろした彼女。今日はね、サッチと来たの。聞いてもいないのにそう教えてくる彼女に、そうかッポーと返事をする。にこにこと俺を見上げてくる赤い目は、何にも穢されていないようにきらきらと輝いていて、どうしてだか無碍にすることができない。俺は何を言うでもなく、彼女が今日も飽きずに俺の仕事を眺めるのを許した。
当初、彼女は俺が木びき・木釘職職長という地位にいることを知らなかったらしい。だからだろうか、子供特有の人懐っこい様子で好奇心を露わに俺に近づいてきたのは。いや、職長だということを知っていても、同じ職長という身分にいるカクにあれほど懐いているのだ、自分の所にもお構いなしに来たかもしれない。
何が彼女の興味を惹いたのかは分からないが、終日日の光が当たらない所で、職人の作業を見続ける彼女。それはもうここ数週間の間に職人たちの日常になりつつあった。
「木って良い匂いだよね」
「そうだな。安心する匂いだッポー」
徐々に船を作る骨格へと変わっていく木材を見ながら彼女が呟く。まどろんでいるようにとろんとした彼女の瞳はまるで溶けそうな宝石のようだと思った。そう、目から落ちる寸前のルビーのような。
温かい気候に眠くなってきたのか、彼女が俺の背中に覆いかぶさってくる。しゃがんで作業していた俺の背中が丁度良い休憩所に見えたのに違いない。
「重い。作業ができないッポー」
「えー?」
俺の上から退こうとしない彼女の体温がじんわりと服越しに感じる。まったく、男に対する警戒心がまるでなさすぎだ。いったいどうしてこんなに無防備に育て上げられたのかと頭を痛くすれば、傍から見ても彼女を溺愛しでいる二人の保護者が目蓋の裏に浮かんだ。あいつらか。
あいつらが今までしてきたことのせいで、彼女がこんなに危機感の少ない少女になってしまったのだろう。思えば、俺が見る彼女は誰かとぴったりくっついている姿が多い。何故かは分からない。くっついていると安心するのかもしれないし、ただの寂しがり屋なのかもしれない。船に乗っているのが殆ど男達でも、彼女にとっては家族だからこんな男だらけの所でも委縮せず堂々としているのだろう。なんて少女だ。
はあ、と溜息を吐きたくなったことをハットリが察して、ッポーと鳴く。そうすれば、徐に俺の上からなくなる重くもない体重。寧ろ、今までくっ付いていた温もりが背中から離れていったことに一瞬残念な気持ちが沸く。一晩だけの関係の女たちを抱きしめる時のとは違う、子供体温。どことなく、安心するその温度がなくなって俺は彼女を振り返った。
「重いんでしょ?」
にこ、と笑うはそのまま俺から離れて行った。違う誰かの所に行くのか、はたまた帰ってしまうのかと思っていた俺は、ちょっとカリファの所に行くといった彼女にほっとした。そして気付く。なぜ、俺がほっとしなければならないのだ。
いつもはずうずうしいくらいに俺の作業をじっと見てくる彼女なのに、こういう風に変に遠慮をする時がある。だからだろうか、彼女を無碍に出来ないのは。他の女だったら、邪魔だと一蹴しているのが俺の常だ。だが、彼女にはそうできなかった。たぶん、それは仲間意識。彼女が俺と同じように、何か腹の奥に凶暴な獣を飼っているのが俺には理解できるから。同じ匂いが彼女からするのだ。同族の勘といったやつか。だけど、彼女は俺のように血生臭い香りは放っていない。シャンプーなどの清潔な匂い。俺がそれに気が付いたのは、彼女が無意識にだろうが男達の見る目付きが時たま獲物を見るように鋭くなる様子を見たからだ。彼女はきっと自分の行動に気が付いていないのだろう、目は自然に喉元や剥き出しの肌に向かう。
彼女の中に住んでいる獣がどんなものかは分からない。だが、それは俺の獣と同じように血を求めているのだろう。今は彼女がそいつの首を縛る手綱を強く握っているため表には出てこないが、彼女の理性が崩壊した時、いったいどうなるのか興味があった。


 ちょっと、という言葉通り、は数分もしないうちにカリファの所から戻ってきた。彼女の小さな足音が聞こえる。だが、俺はそれに振り返ることなく黙々と作業を続けていた。設計図と対象になっている木材を見比べて、もう少し切った方が良いなとか、これを削った方が木の特性を活かせると思考する。じっと、木材と設計図を見ていたら、彼女は俺のすぐ後ろに着いたようで、次いで頬にぴたっと押し付けられた冷たいものに、俺は軽く目を見開いた。
「何だっポー?」
「お水。喉渇かない?」
へらっと笑いながら差し出されたのは、小さい瓶だった。冷えたそれは、日に照らされて火照った体には丁度良いだろう。俺に何かを言われる前にそれに気付いて、変に遠慮をして変に気が利くから、この少女にぞんざいな扱いが出来ないのだ。
ふと、良いことを思いついて口元を上げた。彼女はそれに気づかないで、瓶を差し出し続ける。
「飲ませろっポー」
そう言ってきょとんとする彼女を見上げる。どうやって?と聞いてくる彼女に、くつりと笑みが浮かんだ。
「こうだ」彼女の細い腕をぐいっと引っ張ると、バランスを崩して簡単に俺の背中に落ちてくる彼女の身体。重いと言っていたのを何気に気にしていたのだろう、彼女はすぐに俺から離れようとするが、そのまま腕を離さずにいれば別にこの体勢でも良いのかと気付いて、力を抜いて俺に体重を預けた。彼女は俺にはにかんだ。
「で、どうやって飲むの?」
「そのまま飲ませろっポー」
変なルッチ。彼女はそう笑いながらも、俺の口元に瓶を運ぶ。少し飲みにくい体勢だが、それには構わず俺は水を飲んだ。冷えたそれが喉元を通過してすっきりとした。
脂肪も何もない完璧に子供体型な彼女の身体がぴったりと俺の背中にくっついている。柔らかさも何も感じないのに、なぜかそれは心地よくて、俺は自然に口角が上がるのが分かった。
「美味しい?」
「ああ。お前は気が利くクルッポー」
「でしょう?」
「そこは普通謙遜するもんだっポー。愚か者!」
「でも本当のことでしょ?」
「…仕方がない。お前がもう少し成長したら俺の女にしてやるっポー」
「ルッチの彼女?大変そー」
「文句があるのか?失礼な奴だっポー!」
背中でけらけらと笑う。彼女が笑う度に、耳の奥がじいんと温かくなる。女たちの甘えたり媚びるような音ではなく、どこまでも無邪気で自由なその声は、聴いていて愛しい。
誰よりも自由で無防備なこの少女は、怖いもの知らずの無邪気な子猫のようで。自分は豹なのに、そんな子猫を甚振るわけでも無くただ可愛がっているとは、とんだお笑い草だ。まさか自分が何かを愛らしいと思う日が来るなんて思ってもみなかった。これをエニエス・ロビーにいるCP9の連中が見たらどう思うだろうか。ジャブラなんかは笑うのを通り越して怯えるかもしれない。フクロウは瞬く間に俺のそんな姿をエニエス・ロビー中に噂として広めるだろう。そう考えると笑えた。


 鋭い視線を感じて振り向いた。彼女が背中に伸しかかっているせいで、動きはいつもより緩慢としたものだが、その視線の持ち主は確認できた。あのパイナップルのような独特な髪形をした彼女の保護者だ。真夏の空のように青い目が俺のことを睨んでいる。
俺はそれに挑発的に笑った。途端、強くなる威圧感。1番ドックの入口からここまではかなり距離が離れているのに、それでもここまでこの強さの圧迫感が届くとは。
とりあえず、依頼主ということもあるので相手の神経を逆撫でしないように、彼女に保護者が迎えに来たことを伝え離れる。そうすれば、彼女はきょろきょろと辺りを見渡して、彼が目に入るとぱあっと笑顔を咲かせた。
「ルッチ!また明日ね」
「ああ、気を付けて帰れっポー」
扉の所まで送った彼女の首元で、空色の宝石が付いたチョーカーがきらりと光る。その色は、紛れもなくこの外で待ち受ける彼女の保護者の目の色と一緒だ。目に見えた独占欲と束縛に、思わず嘲笑が浮かぶ。だって、これではまるで彼女がどこにも逃げないようにと付けられた首輪ではないか。
こんな一人の少女に心を奪われているとは、白ひげ海賊団の一番隊隊長も大したことはないのかもしれない。だが、その言葉は彼と同じように彼女に惹き寄せられている自分にも向かう。全く、どうしてこの少女は誰彼かまわず人間を惹きつけるのだろうか。それはきっと彼女が、暗闇の中で蛾が光に誘われるように、闇の中で生きている者たちを自然に魅了する太陽のような光を持っているからだ。
「マルコー」
、もう日が暮れるよい」
独特な話し方で、彼女の手を引く男。その顔は先程とは違って、優しく緩められている。俺は彼らの姿を最後まで見ることはせずに、背を向けた。
「ルッチー、さっきの話考えてあげても良いよ!」
しかし、自分の背に投げかけられる彼女の声。悪戯っ子のようなその声音に、俺はふっと笑って手だけ振っておいた。まだまだガキのくせに大人を舐めているような口を利きやがって。
だけど、同時に心に広がる甘い熱。もう、それは見逃せないほど大きくなっていた。

地平線に沈もうとしている太陽は、最後に俺が振り返って見た彼女の笑みを黄金色に染めた。


2013/03/08


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