36:Show me your sincerity.

 がこの船に戻ってから早二週間。その時間は、俺が彼女とまともに顔を合わせていない時間でもある。
……」
会って、話をしたい。抱きしめて、あの頃のように笑い合って、一緒に眠りたい。夜、一人で眠っていると、彼女の温もりと細いけれど柔らかい彼女分の体積が無くて、無性に落ち着かない。
けれど、隣のサッチの部屋で魘されている彼女の小さな悲鳴が聞こえると、それがどうしようもなく俺のせいだと責めてくるような気がして、彼女に触れる事さえできないのだ。
頭を撫でたい。おはようのキスがしたい。一緒にご飯を食べたい。
でも、そのどれも彼女を怖がらせて傷付けることにしかならないのだ。だから、自分が身を引かなくては。自分には彼女に触れる資格などない。だけど、それと同時に俺が恐れていたのは、彼女に拒絶されること。頭を撫でようとして身を引かれたら。怯えるような顔を向けられたら。そう思うと、伸ばしかけていた手が自然に下に垂れる。俺が怯えるだなんてお門違いなのに。
――の気配を感じられる所にいるだけで良いと思っていたのに、彼女が船に戻ってきた途端強欲になる。俺はいったいどれほど彼女に溺れているのだろうか。抜け出したいとは思わない。彼女を嫌いになりたいとは思わない。
ただ、彼女をどうしようもなく求めているのに、彼女に触れる事さえ出来ない事が自分の贖罪なのだと信じていた。
俺の代わりにサッチがの周りをしつこいくらいに付きまとっているのを、彼女からは見えないような所から俺はよく見る。心底羨ましいと思った。俺には出来ないこと、してはいけないことを彼は出来るのだ。俺だけが、彼女の傍にいることを許されていない。
彼女に血を提供するのだって、俺の順番が来る度にサッチが代わりに与えている。どちらともなく取り決められたその約束は、今も忠実に守られている。あいつも彼女が傷付くことだけは嫌いだから、そうしてくれているのだろう。
「おい、マルコ」
「何だよい」
いつもならノックもしないようなエースが、何を配慮したのかとんとんと音を鳴らして俺の部屋に入ってきた。ベッドに横たえていた身体を起こして、彼を心配させないように微笑を浮かべる。
元はといえば、元凶はエースとの嘘のせいだ。彼女が妙な見栄を張ってエースと付き合っているとか言ってそれを彼が肯定するから、俺は怒り狂ってしまった。けれど、俺がしたことは最低だ。彼女がどんな嘘を吐いても、あんなことは絶対すべきではなかった。その時の俺はどうにかして彼女を自分のものだけにしたくて、誰にも渡したくなくて。そんな独占欲に駆られていた。
「お前、まだと仲直りしてねえのかよ?」
「謝ってすむような問題じゃねえんだよい」
我が物顔でソファにどかりと腰を下ろしたエースは、俺の笑顔に騙されることは無く単刀直入に今現在の問題を投げかけてきた。思えば、こいつは俺との架け橋のようだと思う。俺と彼女が喧嘩した時も、さりげなく彼女の心境を変えたり、俺たちのことをフォローしたり。今だって彼女と上手く顔を合わすことが出来ない俺にきっかけを作ろうとしてくれている。
「俺が、あいつに近づかないことがあいつの幸せなんだよい」
エースは何も分かっちゃいない。俺がどれだけ彼女を傷付けたか。心と体の両方に傷を付けた。消えない傷を負った心は、ずっと癒えることなどないのだ。
彼は俺の言葉を聞いて、むっとしたような表情になった。
「あのなァ、そりゃお前があいつを傷付けたのが悪ィよ」
そうだ、俺が悪い。だから――
「けど、それを償いだとか思ってるんだったらマルコは大馬鹿もんだ!」
彼の言葉に目を軽く見開く。なぜ、俺が大馬鹿者なんだ。俺はを傷付けない一番の選択肢を取っているというのに。
徐々に怒りを増してきたのか、エースの目がぎらぎらと光っている。メラメラの実を食った彼の身体はかっかっと燃えているようで、炎も出ていないのに部屋の温度が上がった気がした。
「逃げ回って解決するわけねえだろ!?あいつ、お前がいなくて寂しがってんだぞ!男ならうじうじ悩んでねェで拒絶されても怖がられてもへこたれねェで慣れるまでアタックしろよ!!が寂しすぎて死んじまっても良いのか!?」
ぽかんとした。彼がそこまで本気になる理由が分からなくて。そこまで俺との寄りを戻させたい気持ちが強いだなんて知らなくて。俺は驚いてしまった。まさか、末弟にこんな風に説教される日が来るなんて。
肩を怒らせて怒鳴り散らしたエースはそれですっきりしたのか、興奮の余りソファから立ち上がっていた身体を再びそこに沈めた。
「ちぐはぐでもギクシャクでも良いじゃねェか。会って話さないと、いつまで経ってもはお前に怯えたまんまだぞ」
「……」
軽く返事できるような内容ではなかった。思わず口を噤んでしまった俺に、まあとりあえず言いたいことは言ったから帰るわとひらりと手を振った彼。この内容にはイエスかノーしか求められていない。そんな中途半端な答えなど彼は求めていないのだ。だから俺はそれに何も返すことが出来ないまま、彼の後ろ姿を見送った。
だが、と仲直りしたいのは事実。それでも、彼女を傷付けるという頭の中の声がそれを抑え込もうとするのだ。俺は、いったいどうすれば――


「ったく、世話の焼ける兄貴だなァ」
甲板に続く廊下を歩きながら呟いた末弟の言葉は、海風に攫われていった。


 もう、随分長いこと考え続けていた。各隊長から預かった書類に目を通さなければいけないというのに、それには全く手を付けられずに、俺はベッドの上で天井を眺めていた。
俺の幸せと、彼女の幸せ。それのどちらが大切かと訊かれたら、俺は迷わず彼女の幸せだと答えるだろう。だから、彼女に近づくことが出来なかった。あの出来事は、彼女の中では負の感情しか湧き上がらない酷い仕打ちだったのだ。俺が近付いては、その時のことを思いださせてしまう。
だけど、エースはが寂しがっていると言った。あんなことをした俺を、彼女が今でも求めてくれていると言うのだろうか。そうだとしたら、俺は救われる。彼女に拒絶されることが、俺にとっての恐怖だったから。だけど、俺は救われたくない。ずっと、ずっと責められている方が気は楽だから。責められることより許されることの方が辛い。
まだ、自分がどうしたいのかは分からなかった。けれど、一つだけ確かなことがある。
――彼女に、誠実でありたい。
それだけは確固として俺の中に根付いている。そうなると、自分がしなければいけないことは一つ。
リザヴェータとの関係を終わらせること。に向きそうになる欲望が怖くて、彼女とは惰性的な身体だけの付き合いをしてきたけれど、俺にはもう必要ない。に誠実でありたい。そう望むのなら、女の影など無くしてしまわなければならない。
俺はベッドから立ち上がった。はぁと一息吐いて部屋を出る。
この時間帯なら、彼女はたぶん休憩中だろう。彼女の部屋に向かいながら、どういった言葉を選べば彼女は納得してくれるだろうかと考える。の捜索に出たあの日以来、彼女とは会っていない。元々この広い船の上ではお互いが会おうと時間を合わせなければ顔を合わせられない。お互いの役職柄年中忙しい身なのだから余計に。


 リザヴェータの部屋の前に着いた。とんとん、と扉をノックすると「誰ですか?」という声が返ってくる。それに俺だと返せば、一瞬驚いたように息を飲むような音が聞こえ、次いで扉が開かれた。
「あの、とりあえず中にどうぞ」
「ああ、失礼するよい」
ナースたちは大体二人の相部屋なのだが、彼女が中に招き入れたということはもう一人の部屋の主は仕事中なのだろう。そわそわとする彼女とは対照的に、俺は落ち着き払って勧められた椅子に腰を下ろした。
彼女が二段ベッドの下に腰を下ろしたのを見計らって、俺は口を開いた。
「今日は話があってねい。今、時間大丈夫かい?」
「はい、…大丈夫です」
彼女が今勤務時間外であることを察していながらも、こんなことを聞く俺は卑怯なのだろうか。何となく不穏な雲行きを感じ取ったのか、彼女の表情がぎこちなくなる。俺はここに来てから一度も笑顔を見せていないのだ、それは当たり前かもしれない。
「もう、終わりにしよう」
何を、とは言わなかった。聡い彼女ならそんなことを言わなくても分かると思ったから。予想通り、彼女はそれの意味が分かったようで、目を見開いた。
「そんな、急に……」
「急にも何も、この関係はいつだってお互いからやめられる関係だっただろい?」
動揺を何とかして隠そうとしながら言葉を紡ぐ彼女に、憐みの情がないわけではない。けれど、その情は愛情になることは無いのだ。彼女が、ずっと求めてきた俺の愛は昔から一人の人間にしか与えられていなかった。
彼女の気持ちを途中から気付きながらそれでもそれを利用してきたのは俺だ。どんな酷い言葉を投げつけられても受け止めよう。けれど、この関係を続けたいという言葉だけは頷けない。今この場ではっきり関係を終わらせることが、彼女の為にもなる。報われない思いを永遠に抱えているより、新しい恋を始めた方が良い。
そんな俺の心境が分かっているのか、彼女は黙りこくった。必死に涙を溢さないようにしている姿は健気で、いじらしい。しかし、それだけ。
「せめて…、理由だけでも教えてくれませんか?」
「…お前なら、聞かなくても分かるだろい?」
そう、彼女だったら理由などとうに分かっている筈だ。それでも、縋ってこようとする潤んだ瞳に、俺はしっかりと視線を返す。
「――あの子、ですよね。マルコ隊長が、何よりも一番に大切にしてるのは、いつもあの子だから……っ」
「……」
言外に、どうして私じゃないんですか?と言われているような気がした。彼女の言う通り、俺が唯一執着して愛情を注いでいたのはだけ。それが何故なのかは分からない。いつから彼女に囚われていたのかも分からない。けれど俺は彼女を愛し、俺の中でかけがえのない存在になったのだ。
「敵うわけ、ないですね。あの子はマルコ隊長にとっての、宝ですもんね…」
こぼれてしまった涙の粒を人差し指で拭う彼女。彼女は全て分かっている。俺が何も言わなくても、俺が何を考えているのかを理解しているのだ。俺には勿体無いくらいの女だ。こんな悪い男なんかよりも、彼女のことを一途に想ってくれる男と幸せになった方が良い。
「あの子のこと、好きなんですか?」
「……分からねェよい」
唐突に尋ねられたその言葉。俺自身が理解できていないことを聞いてくる彼女は、悲し気な表情だった。
そんな顔をするくらいなら聞かなければ良いものを。それでも、知りたいと思ってしまうのは人間の性なのだろうか。
「それじゃあ」
いつまでもここにいるのも気まずい。彼女も、一人になりたいだろうと思って、立ち上がる。彼女は最後に俺の顔を見て「必ずマルコ隊長よりも良い男と幸せになりますから」と笑った。
それが強がりなのは分かっている。彼女なりの防衛の仕方だということにも。俺はそれにああと頷いて彼女の部屋から出た。


「早く、気付くと良いですね」


2013/03/06


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