34:ぎこちない笑みが、ぼくを傷付ける

 私がモビーディック号に戻って来てから一週間経った。
以前と同じように過ごしていたけれど、少し変わったことがある。
マルコと以前のように寝ることはなくなってしまった。何か感付いたサッチが暫くは俺と一緒に寝ようなと言って彼と寝ることを止めさせたのだ。
マルコもそれには頷いて、私はほっとしたのと同時に酷く寂しくなった。
彼との距離は前より開いてしまった。そうなってしまったのはマルコが原因なのだけれど、私はそれが悲しい。
それでも、私がふとした時に彼に恐怖を覚えるのも事実。あんなことをされて、簡単に忘れることが出来る訳が無い。


 今でもあの時の場面が夢に出てくるのだ。暗闇の中でマルコが私を押さえつけて身動きが取れないようにする。首を絞めつけられ、お前なんていらないと何度も言われる。ごめんなさい。やめて。そう何度も伝えるけれど彼は怒りの余り聞く耳を持たないで、そのまま行為が続くのだ。
「いやああ!」
!!」
悪夢に魘されて悲鳴を上げると、サッチはいつも私を起こしてくれた。ごめんなさい、ごめんなさいと涙を流して謝罪し続ける私に、彼はそれは夢だと優しい声で何度も言い聞かせる。ぽん、ぽんと赤子を寝かしつけるように背を一定のリズムで叩かれて私は徐々に落ち着きを取り戻した。心臓はまだうるさい。恐怖からばくばくと鳴り続けているそれは、ぴったりとくっついているサッチにも伝わっているのだろう。
「大丈夫だ。俺がいる」
「サッチ……」
喉の渇きで目が覚めることはなくなった。けれど、最近は悪夢で目が覚める。一緒に寝ている彼も強制的に起こしてしまって申し訳ない。ぎゅっと大きな身体で私を包み込んでくれる彼に、酷く安心しながらもそう感じた。
暫くは恋人なんていらねえな。お前がいてくれるならそれで良い。そう言ってくれたサッチ。その言葉を聞いた時は嬉しかった。女よりも私を選んでくれたことに、私を求めてくれたことに歓喜した。私は、今でもこの人たちの愛を求めている。それなのに、私は彼に迷惑をかけることしか出来ない。
「余計なこと考えなくて良いんだよ。怖い夢は俺が追い払ってやる」
「ありがとう、サッチ」
目の前にある分厚い胸板。当たり前のようにその場所を与えられる私は、眠りに入るために一つ大きく息を吸い込む。ふわりと香るのは彼の匂い。それに包まれているのだと思うと、私は瞼が重くなってきた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」


 今日は久しぶりに甲板でパパと一緒に過ごしていた。子供の時――これを言うと皆「まだお前は子供だっつーの!」と笑うのだけど――と同じように彼の膝の上でくつろぐ。もちろん、日の光は私にとって天敵であるから、エースが買ってくれた日傘を差しながらなのだけれど。
よりそった部分からパパの体温がじわりと移ってくる。純化の儀式をしてからというもの、私の体温は以前よりも下がってしまったため、それが心地良い。
、お前そんなに日浴びて大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。日傘差してるし」
心配するように見下ろしてきた彼に、日傘を少しずらして彼に見えるように微笑む。そうすれば、無理すんなよとそれだけを注意されて、私ははぁいと良い子の返事をした。
そんな私たちの様子を、甲板にいる男達は生暖かい目で見てくる。
は相変わらずオヤジの膝が好きだな」
「甘えん坊が」
「ハルタ、イゾウ」
にこにこと笑うハルタと、対極に欠伸をしながら現れたイゾウに私は手を振った。この二人との間に、もう蟠りは無い。ハルタの血を衝動的に飲んでしまったことについては、船に戻ってきた日のうちに謝ったのだ。二人ともあんなこと気にしてねえよと言ってくれたことがどれだけほっとしたか。二人の前で泣き面を晒したから十分伝わってしまったと思うのだけど。
グララララ、と機嫌が良さそうに笑うパパの膝からぴょんと飛び降りて、彼らの前に行く。
「そういや、お前。今日の昼飯は誰なんだ?」
そろそろ昼時なことを思いだしたイゾウがはて、と首を傾げた。昼飯、とは私に血を提供してくれる人物のことだ。毎回同じ人物だと貧血に陥ってしまうため、順番を決めて彼らは私に血を与えてくれる。毎食の度に血を貰っておけば、大した量は必要ないので双方安心安全なのだ。
「おーい、!」
えーと、と順番を思い返してみると、丁度答えの人物がこちらに駆けてきた。
「エース」
よっ!と手を上げた彼に微笑み返す。そう、今日のお昼ご飯のエースの到着だ。
お昼ご飯と言っても普通の食事も必要だから、これは飲み物だろうか。
「ほら、昼飯だ」
「手洗った?」
洗った!と心底心外だというような顔をした彼に、ハルタとイゾウがげらげらと笑う。別に潔癖症ではないけれど、口に入れる彼の手がばい菌だらけだというのは嫌だ。だから毎度それを忘れがちな彼にそう問うと彼は冗談半分に怒る。
「私、エースの血が一番好きー」
「何!?俺じゃないのか?」「俺が一番若ェからな!!」「少しくらい置いといた酒のが美味いんだよ!」と騒ぎ立てる彼らのことは気にしない事にして――元はといえば私の発言のせいなのだけど――私は血を流しているエースの指を口に含んだ。
含んだ瞬間に広がる鉄の味。しょっぱくて、甘くて丁度良い。
昔は不味いと思っていたのに、今では美味しく感じられるとは不思議なものだ。
エースは塩分と甘味が絶妙な配分なんだよなぁ。だから好きなのだ。
「やっぱ、赤ちゃんみたいだよなァ」
「……」
「イデェ!!」
ちゅうちゅうと懸命に血を吸う私のことを、乳飲み子のように表現した彼にむっとしてお返しに指を噛んでやれば驚いた。それを見てイゾウは「やっぱお前バカだよなァ」と笑うし、ハルタは何故か視線を逸らしている。パパはそんな私たちを見て、「子供が仲がいいのは良いことだァ」と満足気だった。


 マルコとは最近、あまり接触していない。私が避けているわけではないのだけれど、何故か彼の姿を見ることが少なかった。寂しい。私が、避けられているのだ。それはきっと私を傷付けないようにするためなのだろうけれど、私はそれが逆に悲しかった。
ふと、廊下で出会った時も、おはようだとかの挨拶しかしない。柔らかく笑んでいるけれど、ただそれだけ。以前なら当たり前のように与えられていたことが、今は無い。抱きしめてくれることも、頭を撫でてくれることも、手を繋ぐことも全て。いつも彼の隣か後ろにいたのに、私はその場所にいることを許されない。
きっと、仲間たちはあいつらまだあの時のことで仲直りしてねえのか。なんて思っているのだろう。けれど、サッチとあの時の状況を知っているエースは、何となくそうではないことに気が付いているようだった。
「マルコ、ご飯食べに行こう?」
「ああ、悪いよい。今は書類の整理で忙しいんだ」
また後で行くさ。その言葉と共に途中まで伸ばされた彼の腕。だけど躊躇するようにそれは元あった場所に戻った。この手は、もう私の頭を撫でてさえくれないのだろうか。
お互いぎこちない様子のまま、分かれた。マルコと話す度、そんな空気になる。
私がLILYの記憶を見て、憎しみの中に落とされていた時、助けてくれた彼は「捨てないでくれ」と言っていた。確かに私たちの心は通じ合っていたと思っていたのに、どうしてこう上手くいかないのだろうか。
どうしたら、あの頃みたいに三人で笑いあうようになれるのかな。私は、マルコの愛を求めているのに。

過ぎ去った日々を、愛しく思った。


2013/03/05


inserted by FC2 system