32:あなたの熱が何よりの宝

――LILY?が、LILY?
その言葉に目を見開く。この名前の意味はきっとモビーディック号の中では俺とオヤジくらいしか知らないだろう。一度しか聞いたことは無いが、俺はその意味をよく覚えていた。それほどまでにインパクトが強かったのだ。
「さあ、我が君。お食事の時間ですよ」
ヤツがそう彼女に話しかけると、ぴくりと彼女の指が動いた。
!!!」
エースとサッチが叫んだ。けれど俺は彼女の名を呼ぶことが出来なかった。信じられなかったのだ。彼女が知らず知らずに背負っていたものが、そんなにも大きくて重たいものだとは思ってもいなかったから。LILYだと?そんなものを、あんな小さな背中に押し付けやがって。
ぴくりと動いた彼女がゆっくりと瞬きをした。そして、自ら手足の自由を奪っていた枷を純粋な力だけで壊し、石の台から下りた。それと同時に解ける金縛り。彼女の胸に付いていると思っていた傷は何故か跡形も無かった。やつらは傷ついた腕に唾液を付けて傷を塞いでいる。
何なんだよいあれは。反則だろ。
……?」
「……」
一向に反応を返さない彼女に、彼女の名を呼ぶ声に不安感が募る。俺たちを見ている筈なのに視線が交わらない。表情というものが一切抜け落ちてしまった彼女の様子がおかしいことくらいよく見なくても分かる。あの時と同じだ。そう呟いたエースの声が聞こえた。
「我が君は今、過去におられるだろう」
そうルイーゼが言ったと同時には彼女とは思えない速さで俺たちに突進してきた。一瞬目で追いきれなかったぐらいだ。
「ぐあ!」
「サッチ!!」
相手がということでカトラスを使えなかったサッチが、地面に押し倒されて強かに背中を打った。俺たちには彼女を傷付けることは出来ない。そう分かっているからか、やつらは余裕の表情でこちらを見やってくる。
今にもサッチの心臓を貫きそうな鋭い爪を持った彼女を押さえつけようとエースが飛びかかる。だが、それよりも前に彼女はそこから離れて再び標的を定め始めた。
動きやパワーは今までの彼女と比べるまでもない。戦闘センスは中の上。普段の俺たちなら手こずらずに倒せるような力量だ。だが、相手がだというのは分が悪い。彼女相手に本気を出せる訳が無い。
これは手こずる。いったいどうすれば彼女の意識をこちらに戻せるのだろうか。そう思って、俺はじりじりと間合いを詰めてくる彼女を見つめた。


――暗い。怖い。ここはどこ?ぽっかりと空いた真っ暗な空間の中で私は膝を抱えていた。
先程刺し貫かれた胸がまだ痛い。どうして、あんなことをしたのだろう。私は儀式だと言ってルイーゼが剣で胸を貫いたことが悲しかった。
しかし、目前の闇に何か風景が現れたのを見て、それを考えるのをやめてそこに近づいた。
美しい自然に囲まれた町。ある程度開拓されているが、多くの自然を残したままの町に、おぎゃあおぎゃあと赤子の泣き声が響いていた。
視点が変わる。目に入ったのは、私と同じ白い髪と赤い目を持った赤子。生まれたばかりの赤子は、本来なら幸せであるべきなのに、赤い瞳に怯えた母親の命によって捨てられてしまった。赤子を包む布と一緒に置かれた紙にはリリーと名前が書いてあった。
「リリーって……」
私が言葉を発しても、その世界の人々には聞こえないようだ。赤子が捨てられた木の傍に誰かがやって来た。現れたのは中年の女性。その人がその赤子を見つけて抱き上げた。暫く葛藤していたが、連れて帰ることにしたのか再び歩き出す。
また視点が変わった。赤子から十代の少女に成長したリリーの視点だった。
彼女の感情はぐちゃぐちゃに入り混じっている。彼女は知ってしまったのだ。母親だと思っていた女性が、血の繋がりがないということ。本当の母親には捨てられたのだということ。
そして、自分が吸血鬼だということを。
怒り、悲しみ、憎しみ、空腹。そんなものが全て混ざった感情が私の中に流れ込んでくる。
鏡に映った彼女は、どうしようもないくらい私に酷似していた。髪も肌も目も。けれど、背だけは彼女の方が高い。
また場面が変わった。赤い。視界が全て赤に染まっている。何だ、これは。血、人だ。彼女の腕の中に血だらけの男の人がいる。欲望に任せて血を飲んだのか。それも、この人が死んでしまうまで。
――私を理解してくれる人なんていない。人間は私を化け物だって言う。それをどうやって信じればいいの?こんな世界壊れてしまえば良い!私を拒もうとする世界なんて、壊れてしまえ!!!
前より大人びて幼い時に比べて目の輝きが失われた彼女は、世界を恨んでいた。吸血鬼だという自分自身にもその怒りの矛先は向く。ああ、私と一緒ではないか。自分が吸血鬼だという事実に打ちのめされて、苦しんで、恨んで。同じ道を、歩んでいたのか。
……ああ、この人はいつか夢に出てきたあの女の人ではないか。私は今漸くあの時のことを思いだして、溜息を吐いた。あの時、彼女が言っていた”変化”とは、こういうことだったのか。今頃そんなことに気が付いて、私は自分自身に呆れた。あの夢をもう少し覚えていたのなら、少しは未来が変わったかもしれなかったのに。
場面が変わる。彼女は木の影からある一人の男を見つめていた。純朴そうな金髪の青年。彼女より少し年上に見える彼に、彼女は恋をしていたのだ。彼が彼女に気付いてこちらにやって来た。彼女の心拍数が上がる。
――どうしよう、気付かれた。
気恥ずかしさと後ろめたさが混ざったような気持ちが私にも伝わってくる。
『僕はチャールズ。君は?そんな所にいないで、こっちにおいでよ』
『わ、私はリリー。よろしくね』
日傘を差しながら彼女は彼の元へ歩んだ。彼は手を招いて笑っている。幸せだった。こんな風に彼と話すことが出来る日が来るとは思っていなかったから。
彼女たちは友人として関係を始めた。徐々に親密になっていく彼らが恋人になるのはそう遅くなかった。彼女の恋は実ったのだ。それも、自分が吸血鬼だということを受け止めてくれた愛しい男と。
これ以上ない程幸福だった。あの頃の、不幸な事実を知ってしまってやさぐれていた時の態度も全て改まって、無暗に人から血を奪うなんてことはしなくなった。そう、こんな日がずっと続くと思っていたのに。


 場面がまた変わった。彼女は手を後ろに縛られて動けない。見渡す限り海しかない。ここは、軍艦の上だった。
『チャーリー…これは、どういうことなの?』
『リリー、僕は、君にずっと黙っていたことがある』
チャールズの後ろには海軍の制服を着た男達がずらりと並んでいる。彼の表情も、彼女が知っていた優しい笑みではなく、冷たい目をしたそれだった。
僕は海軍から君を捕まえるように命令を受けていた。そう続いた言葉に、彼女は言葉を失った。愛していた者の自分に対する裏切り。最初から仕組まれていた恋。私を捕える為の偽りの、愛。
『リリー、君は吸血鬼の女王だ。君からしか賢者の石を作ることは出来ない』
――やめて、やめて。チャールズ、あなたは、私がこの世界で一番に愛していた人なのに。
『君を研究施設に連れて行く。抵抗するなら殺す』
――ねえ、嫌よ。やめて。もうそれ以上私の心を壊さないで。ねえ、あの頃みたいに、愛してるって微笑んでよ。どうして、あなたなの。あなたじゃなかったら、こんなに苦しくなかったのに。
ぷつん、と彼女の頭の中で何かが切れた。
『……あなたの思い通りには、ならないわ!!』
『貴様!何をする!!』
ぶちりと縄を引きちぎる。こんな、私のことを道具としか見ていない連中の手のひらで踊らされるぐらいだったら、今この場で皆を殺してやる!!
鋭く尖らせた爪で海軍の男達の喉を切り裂いていく。銃を乱射されるけれど、それを事切れた海兵で防御して目にも止まらぬ速さで、海兵たちを殺していった。
『残念だ…リリー』
突如、目の前に現れる愛していた男。瞬間、胸に走る熱と痛み。刺されたのだ。彼の持っている長剣で、心臓を一突きされた。
『チャー、ル………』
死にたくない。どうして、どうして私はあなたに殺されなくてはいけないの?私は何も悪いことをしていないのに。どうして、人間に蔑まれなくてはいけないの。私たちは人間を蔑んだことなんて無いのに。どうして、吸血鬼ばかりが。
『しぶといな』
胸をもう一突きされた。ぶしゅうっと赤い血が迸る。
……ああ、人間が憎い。私たちを虫けらのように見下す人間が、憎い!!憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!!殺してやる!人間たちなど、全て!!!!!
「いやあ!!やめてっ!!やめて!!!」
彼女の人間に対する憎悪が流れ込んでくる。私もその渦に飲み込まれそうだった。頭が割れそうに痛む。
人間が憎い。違う。マルコが憎い。やめて。一人残らず血を飲み干してやる。殺してやる。殺してやる。やだ、そんなことしたくない。人間など滅びてしまえ。やめて、やめて。憎い。やめて。憎い憎い憎い。殺す。お願い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。嫌いになりたくない。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い――
憎悪、嫌悪が渦巻いている真っ暗闇に、私は取り込まれた。


「人間、憎イ。殺ス」
どうっと彼女の身体から負のオーラが溢れる。先より強いそれにびりびりと空気が震えた。
「サッチ!エース!お前らはあいつらをやれ!は俺が何とかするよい!!」
「はァ!?お前一人で大丈夫かよ!?」
「あいつがああ言ってんだ!やるぞエース!!」
不満というか、心配そうな顔つきだったエースは、まだ何か言いたそうだったけれど、サッチがカトラスを抜いて五人に向かっていくと、彼も身体に炎を纏って彼らに飛びかかっていった。
刃物がぶつかり合う音や、炎が轟々と燃える音が鼓膜を揺らす。
……」
「オ腹空イタ…。人間殺ス」
ふらふらとしている彼女の瞳孔は開ききっていた。その瞳には、人間に対する憎悪しか感じられない。どうして、人間が憎いんだ、。何を見た?何を感じた?俺を憎んでいるなら、分かる。けれど、人間はまだお前には何もしてないだろ?
「人間、憎イ憎イ憎イ憎イ!!!」
!!」
彼女が鋭い爪を振りかざして俺に突進してきた。けれど、俺はそれを避けずに受け止めた。彼女の爪が腹部に深々と突き刺さった。そこから青い炎が現れる。
お前が俺を殺し、血を飲むことでその憎しみを無くせるのだったら、いくらでも攻撃を受けてやる。それでお前が救われるなら、安いもんだ。俺は、お前の全部を受け止めてやる。
ぐっと身を離そうとする彼女を腕の中に閉じ込める。あの頃は彼女の方が温かかった体温。だが今は冷えて俺の方が温かかった。俺の温もりを彼女に分けるようにきつく抱きしめる。
「お前が俺たちを憎んでも、俺たちはお前を愛してるよい」
「憎イ!!殺ス!人間許サナイ!!」
頭しか思うように動かせない彼女は、心臓の上に歯を突き立てた。知らず知らずのうちに彼女は覇気を纏ったのか、血が流れる。
「愛してるんだよい。お前を、ずっと、ずっと…」
「憎イ!憎い!」
あの時のオヤジの問の答えはまだ出ていない。でも、それでも良かった。今大切なことは、俺がを愛しているということであって。それを彼女に伝えたい。この想いを、闇の中に沈んでいる彼女に届けたい。
俺には分かる。憎しみに囚われている彼女が、苦しんで逃げ出したがっているのが。
、お前の帰る場所は、俺たちの所だ」
「憎い、人間、嫌い」
「船に戻ろう。オヤジだって、皆だってお前のことを待ってる」
「憎い…、人間、お家…」
徐々に大人しくなり始めた彼女に言い聞かせる。そうだ、あの船はお前にとっての家だ。どこに行っても良い。いつでも出てって良い。だけど、あの船はお前がいつでも帰ってきて良い家なんだ。愛する家族を待っている、暖かな家なんだ。
、愛してる。愛してる…戻ってこい…」
腕の中の彼女から力が抜けた。ぎゅっと瞑っていた目を開けると、目に涙を溜めた彼女がいた。
「――マルコ…ごめんなさい!捨てないで!なんでもする!!痛いのも我慢するから……ッ!!」
ぼろぼろと涙をこぼす彼女を先より強く抱きしめた。腕の中にいる彼女が苦しそうに息を溢す。それでも離すことが出来なかった。こんなことを言わせた俺はどうしようもない奴だ。何度もごめんと愛してるを繰り返した。
背中に恐る恐る伸ばされた手が、愛しい。この身体を、もう二度と手放したくない。そう思った。
――違う。捨てられるのを恐れていたのは俺だ。お前は捨てられるわけがないんだ。
、俺を捨てないでくれよい…ッ!!」
「マルコ…!!」

確かに、この時俺たちの心は通じ合っていた。


2013/03/02


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