27:解き放たれた鎖

「少し前に鶏が一羽いなくなる事件がありましたよね?それ、さんがやったんです」

その言葉に、皆言葉を失った。
「私、見たんです。さんが、鶏を引き裂いて食べているのを…」
当時の光景を思い出しているのか、彼女は顔色が悪い。けれど、俺はそんな彼女を気遣うことが出来るほど平常ではなかった。
――あの所業を、がやっただと?
「お前…自分が何言ってるか分かってるのかよい?」
俺が発した声は思ったより冷え冷えとしていて、彼女はぐっと眉間に皺を寄せた。彼女は知っていた筈だ。俺がどれだけを大事にしていたか。あんな、彼女を傷付けるだけ傷付けた俺が言うようなことではないが、俺は彼女の為に決して部屋でリザヴェータを抱くことはなかった。彼女の居場所を無くしたくなかったから。女なんかを連れ込んで、敏感にそれを察知した彼女に居心地の悪い空間にしたくなかったから。それを言われなくても分かっていただろう彼女は、なぜそんなことを言う。
「その場にエース隊長もいました。エース隊長がさんを止めてるのも、全部見たんです」
エースという言葉に、全員の視線が彼へと向かう。それは本当か?という信じたくないからこその疑いの目であって、彼はそれを一身に受けて言いずらそうに「ああ」と頷いた。
――もしかして、彼女が話があるといったのはこのことだったのだろうか。確かにその事件があってからすぐ後のことだった。
尚も何かを言おうとする彼女に、エースが次は俺だとばかりに口を開いて遮った。サッチは先程からずっと黙っている。いつもだったらうるさいくらいに騒ぐこいつが腕を組んでだんまりを決め込んでいるのは、どことなく不気味だ。
「俺が今から言うことは確証なんてない」
エースは間を置いてぐるりとその場にいる者たちの顔を見渡す。その目付は常に比べて真剣だった。
けれど、と続いた言葉に俺たちは固唾を飲んで彼の次の言葉を待つ。


「たぶんは、――吸血鬼だ」


はぁ、はぁと荒い自分の息遣いが敏感な耳に届く。浜辺から町へ歩くのにも一苦労だ。もう、自分にはそんな力も残されていないのだと宣告を受けた気がして、私は誰にでもなく嘲笑を浮かべた。
この島は一見小さくてそこまで人口も多くないのだろうと思っていたら、そうではなかったようだ。町に着けばレンガ造りの家々が視界に入ってくる。ヨーロッパの街並みのような風景に、元気があった時ならはしゃいでいたのだろうと自嘲した。今はそんなことが出来る程純粋に考えられなくなっている。シニカルな考え方しか出来ないのだ。
海水を含んでいた洋服は随分と前に乾いてしまった。とりあえずこの島に上陸してみたは良いものの、いったいこれから自分はどうすれば良いのだろう。まともな思考判断ができない。
お腹はぐるるるると空腹を訴えてくる。ああ、私今一文無しなのに。なんて、私が本当に求めているものを分かっていながらも、その現実を直視したくなくて、そうやって誤魔化し続ける。今はお昼時なのか、町にはそれなりの人たちが出歩いていた。買い物袋を手にさげた主婦や、昼間から飲んだくれている男達。楽しそうにヒールを鳴らして闊歩しているのは、花も盛りの女の子たち。
私はそれを視界に入れながら、一層フードを目深にまで下ろした。目に毒だ。人間の匂い、皮膚の下に隠されている血の匂い、汗の匂い、それら全てが私の中の獣を抑えている首輪を外そうとする。
ふらふらと無意識に道行く人に吸い寄せられていきそうな足を叱咤し、手で鼻を覆った。そんなことをしても香りを遮断できるわけではないけれど、せめてもの抵抗だ。もう、私にはこの化け物を押さえつける鎖を引っ張る力さえ残っていないのだから。
――喉が渇いた。視界が霞む。ぐっと力を入れていなければ、今にも倒れてしまいそうだ。
倒れそうになる身体を路地に続く壁に手を置くことによって支える。頭もずきずきと痛い。ああ、もうこれまでなのだろうか。船の上で我慢していた分、身体のあちらこちらに支障をきたしてしまったのだ。
「おい、大丈夫か?あんた……」
酒と人間の匂いがした。路地裏で酒瓶を煽っていた中年の男が、具合の悪そうな私を心配してこちらに足を向けたのが、見なくても聴力で分かる。
――ええ、大丈夫です。そう言って今すぐこの場から離れようと口を開く。一刻も早く彼から離れないと、その喉笛をかき切ってしまいそうだったから。
けれど、彼にその言葉を伝えようと顔を彼に向けた瞬間、彼を、人間を正面から見てしまった瞬間に、私の人間の意識がブラックアウトした。

――化け物が、鎖を引きちぎったのだ。



「――吸血鬼……?」
一様に訝しんでいる視線を放つ彼らにそうだと頷く。俺は彼女の悩みを吐き出させたあの晩、全てとはいかなくとも真実に近い言葉を彼女から聞いた。喉が渇く、お腹が空く、けれどそれを食べては人間ではいられない。それに彼女は極端に日光に弱い。それらの言葉と彼女の身体的特徴は、自我を失って鶏を襲っていた時のの様子と関連付けられ、俺はその仮説に辿り着いたのだ。
が鶏を食ってたのは本当だ。でも、その時のあいつは自我を失っていた」
しんと静まり返っている甲板に、俺の声だけが響く。俺は、耳を傾けている者たちにその時の状況を話した。なるべく、彼女が傷付かないように言葉を選びながら。
「俺があいつを町に連れ出した時があったろ?あん時、あいつ言ったんだよ。喉は渇くし空腹だし気が狂いそうって。でも、人間でいたいから我慢するんだって」
四年もそんな苦痛を耐えてたんだぞ?そう言葉が続く。俺だったらそんなの到底我慢できる訳が無い。もって四、五日だ。それを、彼女はずっと誰にも言わずにそんな長い時間を一人孤独に耐え忍んできて、理性でそれを押さえつけてきた。それがどれほどの衝動かは分からない。けれど、四年も我慢した空腹が決して生易しい事ではないことぐらい、俺でも容易に想像できる。
「お前ら、あいつの腕見たことあるか?」
マルコがその言葉を聞いて、ぴくりと眉を動かした。こいつは知っている。の腕に咲いた痛々しい赤い花のことを。
「あいつ、寝てる時何かを我慢するように腕噛んでんだよ」
彼女が俺の部屋で数日過ごしたあの頃、眠りに落ちた彼女が無意識に腕を噛んでいるのを何度も見た。彼女には悪いと思ったが、そっと長袖を捲って彼女の腕を見た時、俺はぞっとした。それは、畏怖の念。そこには彼女の白い肌が消えてしまうくらいの赤い噛み痕が残っていた。彼女は自分の欲望を抑える為に、家族を守るために自分の身を犠牲にまでして我慢していたのだ。
彼女が寝ている間に自分の血を与えてやることもできた。けれど、それでは何のために彼女が四年もの歳月を耐えてきたのか分からなくなってしまう。きっと、血を与えれば彼女は楽になるだろう。でも、与えた瞬間、彼女があれほど忌避していた化け物に、彼女はなってしまう。そう考えたら、彼女に血を与えることは出来なかった。
俺はそんな彼女に何の力にもなってやれないことを恨んだ。悔しかった。怒りが沸いた。そんなものを隠し続けてきた彼女に、それに気付かず馬鹿みたいに笑っていた自分に。
「あいつ、捨てられたくないってずっと怖がってたんだよ」
は何よりもこの船の連中から拒絶されることを恐れていた。特に、マルコとサッチにはその気持ちは強い。
――だから、あいつのことを嫌いにならないでくれよ。俺は、彼女の理性を失った瞬間を見ていたハルタとイゾウに目を向けて言った。他の奴らもそうだ。何よりも恐れていた、彼女にとっての世界を失うことを防ぐ為に、俺は懇願した。


「ったりめーだ、バーカ」
「俺らがあんくらいでのこと嫌いになると思ったのかよ」
予想外に早く返ってきた言葉に、俺は目を見開いた。イゾウとハルタは確かに吸血鬼の本能に支配された彼女を見ていた筈だ。ハルタなんて、彼女に指を噛まれて血を飲まれたぐらいだし、そう簡単に頷くとは思えなかった。
そう思っているのが顔に出ていたのか、ハルタが見縊んなよと俺のことを笑う。
「あん時は吃驚したけど、あいつにとってのメシが血だってことだけじゃんか」
「一丁前に兄貴面しやがって。成長したなァ、エース」
二人の言葉に、俺は周りを見渡すと誰もが微笑している事に気が付いた。そうだそうだ、と頷く彼らに俺は安心する。しかし、唯一笑んでいなかった彼女にとって一番大切な二人を視界に入れた途端、俺はその気持ちが萎むのを感じた。
「マルコ、サッ――」
「エース…、お前は何か勘違いしてねえか?」
今まで黙っていたサッチが俺の言葉を遮って、鋭い眼光で睨んでくる。マルコも険しい顔していた。
どうして。がお前たちを心の拠り所にしているのを、こいつらは分かっているはずなのに、何であいつを許さないなんて目で見てくんだよ。
「人間だとか化け物だとかカンケーねェんだよ!!!俺は、何も話さずに一人で悩んで逃げ出したあいつに怒ってんだ!!!」
あの、バカ娘が!!そう叫んだサッチに呆気にとられる。なんだ、じゃあサッチは……。ほっとしてマルコを見ると、彼も頷いていた。
「それにねい……」
こつりと急に歩いたマルコが近くの扉を開ける。そうすれば、どばっとぎゅうぎゅう詰めだった男達がその部屋から溢れてきて、俺は漸く彼らが仕事を放って盗み聞きをしていたのだと気が付いた。
『お嬢帰ってこォォオい!!!』
「こいつらだって、そんなことであいつを嫌うような玉じゃねェんだよい」
ウオォォォォ!!!と叫ぶ男達に、俺の心配はとんだ杞憂だったことが分かった。
――、お前が信じられなかった家族は、こんなにもお前のことが好きなんだぞ。
「そういうことだ、エース。誰もあの娘を嫌うような奴はいねェ」
黙ってこの場を見守っていたオヤジがそう言葉を発して、俺はそうだよなと笑った。
「そうと分かればお前らァ!あのハナッタレ娘を迎えに行くぞ!!!」
グララララと笑うオヤジの声が、モビーディック号の上に陽気に響いた。


2013/02/21


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