26:君のいない船

 私たちは無事に小さな群島に辿り着いた。その群島の一つに今乗り上げた所だ。何時間も休憩せず、寝ることもせず私のことを運び続けていてくれたレイに、ありがとうとキスをした。
ざぷんと音を立てて海の中に潜っていった彼は暫くの間眠るのだろう。私は海水が滴る服を脱いで、思い切り絞った。そして、城が見えるその町に足を向けた。


 時を遡ること、数時間前。既にが船から姿を眩ませてから二時間が経過していた。
いなくなる前の彼女の異常な行動と、いくら探しても見つからない彼女に、船の男達は仕事も放ってあれやこれやと騒ぎ立てている。
「……がいないってどういうことだよい?」
事態を収拾付けるために甲板に現れたマルコに、その時の状況をよく知っているハルタとイゾウが神妙な顔付きで近づく。事の次第を全て聞く前に彼女を探していた彼も、二人のぼそぼそとした声での状況説明を聞くと、頭をがしがしと掻き毟って動きを止めた。
未だが船内にいると信じて捜索していたサッチも、この大勢の人数で彼女を見つけられない事にとうとう諦めたのか、甲板に現れる。その後ろからはこの場には不釣り合いな鼻歌を響かせている青年がいて、マルコはそれを視界に入れた途端、目付を一層鋭くした。


――エースと付き合っている。その言葉がの口から聞こえた時、俺は何かが切れる音が聞こえた後、頭が真っ白になった。
次いでやってきたのは、彼らに対する殺意。あの場でエースを殺して、も殺してしまおうかと思ったほどだった。彼女が俺のことが大嫌いだと言ったのもエースのせい。彼女が俺ではなくエースを選んだのも彼のせい。
エースがいなければ、彼女の中で俺は一番だった。どうしては俺ではなくエースを選んだ。
あんなに大事に大事に育ててきたのに。あんなに惜しみなく愛情を注いできたのに。俺の人生の全てをあげても良いと思って、愛してきたのに。そんな思いは彼女には伝わっていなかったのだろうか。どうして気が付かない?俺がこんなにのことを愛して愛して気が狂う程に愛を持て余していたのに、なぜお前はそんな俺に視線を向けることなくエースを選ぶのだ。お前にとって、俺はどうでも良い存在だったのか?
そう思ってしまえば、に対する愛が憎悪に変わってしまって、俺はその醜い感情に押しつぶされそうになった。
二人を殺しても気がすむかどうか。思わずふらりと残ったエースに足が一歩出た時、隣で立っていたサッチにぽんと肩を叩かれて正気に戻る。俺は今いったいどんな顔をしていたのだろうか。狂気に歪んだ顔?殺意に塗れた顔?それとも虚ろな目をした能面みたいな顔だろうか。
投げかけてくるサッチの視線の意味を考えていたら、エースは走り去っていったの後を追っていってしまった。
「遅い反抗期だよ。気にすんなって」
彼の言った通り、そんな簡単なものだったらどれだけ良かっただろうか。俺にはこれは不幸の序章だという風にしか考えられなかった。


 程なくして、がエースの部屋で寝泊まりをしていることを知った。サッチの所にも行っていないらしく、俺はそれを聞いてまた腸が煮え繰り返った。親同前の保護者に何も言わず朝帰りをして、尚且つ彼の部屋で夜を共に過ごすなんて。裏切りだった。彼女の、俺に対する裏切り行為だと思った。俺たちがどんな心境であの夜を過ごしたか知らないくせに。一睡も出来ないまま迎えた朝日をどんな思いで見つめていたか、お前は知らないくせに。はいったい何をやっているのだ。
殺してしまいたい。俺のものにならないくらいなら、殺して誰の目にも届かない所に保管して、俺だけが見れるように隠してしまいたかった。エースになんかに渡さない。誰にも、サッチにさえも。は俺だけのものだ。こんなに愛しているのに。俺のことを裏切った彼女を、今でも俺は確かに愛している。
そんなことを考えている時に俺の部屋の前で立ち止まった彼女の気配に、思わず笑みが浮かぶ。タイミングの良い彼女の出現に、俺は落ち着きかけていた怒りがまた再熱するのを感じた。室内に入ってきた彼女にとうとう、抑えきれなかった殺意が溢れる。それに怯えた彼女にまた怒りが沸いた。
――どうして、お前は俺を選ばなかった。どうして。どうして。どうして。こんなにお前のことを愛しているのに。なんで分からない?何度もその言葉は口にしたはずだ。そしてお前も愛していると微笑んでいたのに。
彼女の細い首を両手で締め上げる。そこからは簡単だった。まずは―――


「お前ら仲直りしたんじゃなかったのかよ?」
がいないと騒ぎ立てていた俺たちの話を聞いていたエースが放った言葉に俺は現実に戻された。今、彼は何と言った?仲直りなんてしていないと言おうとした俺は、彼の次の言葉を聞いて硬直してしまった。
「マルコに謝りに行くっつったまま俺の部屋に戻ってこねえから、とうに仲直りしたのかと思ってたんだけどよ。俺とが付きあって無いってのも聞いてないのか?」
きょとんとして訊ねてくる彼。その顔は嘘を言っているようには見えない。
俺はその言葉にさぁっと血の気が引くのを感じた。
まさか、まさかまさかまさか。彼女は、それじゃあ俺がやってしまったことは。確かにあの時、彼女は何かを言おうと口を開いていた。では、俺のあの行為は。あの殺意は。ただ、彼女を怒りと欲望のままに傷つけてしまっただけではないか。
「あいつもそういう年頃だからよ」
大目に見てやってくれよという彼の言葉はもう耳に入ってこない。今話しているのはそんなことじゃねえと傍にいたイゾウがそんな彼に耳打ちをしていたのを、目をぎゅっと瞑る前に見た。
――くそったれ……ッッ!!!!
俺は、何てことをしてしまったんだ。
今でも覚えている、あの時の彼女の様子。目を閉じればありありと浮かび上がってくる


 組み敷いた彼女の目に映るのは、俺などではなく恐怖と苦痛と絶望しかなく。
苦痛の為に漏らす喘ぎ声の合間に、何度もごめんなさい、ごめんなさいと謝罪する枯れた声。恐怖に引き攣った顔。
サッチに助けを求めるでもなく、悲鳴を上げるでもなく、ただただ自分が悪いのだと思って謝り続ける彼女。
本当は心の隅で彼女が悪いのではないと分かっていた。俺の、醜い嫉妬だと。
それなのに、俺は聞く耳を持たないで、彼女を凌辱し、蹂躙し。

「ごめ、なさ…マルコ、捨て、ないで……っ」

悲痛気に叫んだあの時の彼女の声が、今耳元で再び聞こえた気がした。
――捨てないで。それは、彼女が一番恐れていたこと。ああ、俺は何てことを。悔やんでも悔やみきれない。
「ハナッタレども、静かにしろ……」
ナースたちに囲まれながら現れたオヤジに、俺ははっと意識を戻した。そうだ、こんな風に俺たちが騒ぎ立てていても彼女が戻ってくることはない。一刻も早く彼女のことを見つけ出さなくては。
現状をまとめてみろと言うオヤジに、がハルタの血を吸った直後に逃げ出していなくなったということを伝えた。また、その時小さかったが確かに何かが海の中に飛び込んだ音が聞こえたという周りの証言も付け足す。
俺の話を聞いてやっと現状を理解したエースが、何か思い当たる節があったのかはっとした顔になった。
「そういや、あいつでけえイルカと仲良くなってたよな」
「ああ、何か頭に角持ったイルカだろ?」
しかし彼に話を振るよりも先に、彼女にイルカの友達がいたという証言がちらほらと上がる。小舟が無くなったということもなく、その時に指笛のような音が聞こえたという情報から、彼女はそのイルカに乗っていなくなってしまった可能性が高い。
そうと分かれば、此処周辺の海図を引っ張り出して、どこが一番近い島か調べる。イルカの目測の体長から体力を予測して、辿り着ける島がいくつあるか数えた。その数は三つ。そのうちの一つに小さな群島も入っている。
幸い、どの島も隣接しているから何隊かに別れて捜索すれば彼女は見つかるだろう。だが、彼女がその島からまた別の島に行ってしまう可能性も高い。のろのろはしていられない。
一番隊隊長としての自覚を取り戻した俺は、航海士にその島に全速力で迎えということを告げた。
「各隊長との行動の理由を知っている奴だけここに残れ」
きびきびと指令を出し始めた俺を視界に入れながら、オヤジは甲板にいる全員に声をかけた。それはナースたちも含んでいたらしく、彼女たちも大勢の男達と一緒に船の中に消えていく。しかし、そこに残った思いもよらない女に、俺は一瞬目を見開いた。
リザヴェータだ。彼女に話があると言われて以来、忙しさを理由に話していなかった彼女だ。他にも料理長が残っていて、俺はごくりと生唾を飲み込む。
事が事なだけに、俺は先に事情を少しでも知っていそうな二人から聞くことにした。
「料理長、あんたが知ってることを教えてくれよい」
今まで腕を組んでだんまりを決め込んでいた彼は、俺に呼ばれるとちらりと全員を見渡して口を開いた。
「かなり前から冷蔵庫の中の生肉が盗み食いされていることに俺ァ気が付いてた」
盗み食い、そんな単語にこの場にいた全員の目がエースへと向かう。何て言ったって彼ほど食い意地が張った人間はこの船の中にはいない。けれど彼は違う違うというように首をぶんぶん振った。それに同意するように料理長も頷く。
「ああ、犯人はエースじゃねェ。だ」
その思いにもよらない人物の名前に目を見開く。確かに彼女がしょっちゅう夜中に目を覚ましてどこかに行っているのは気が付いていた。けれど彼女はただ単に水を飲みに行っていただけではないのか。


 料理長の話によると、肉が少しずつ盗み食いされているのを気付いてから、夜中その犯人を捕まえるために徹夜で食堂に隠れて警戒していたらしい。犯人の顔さえ見たら翌日声をかけようと思い、その場で強硬手段に及ぼうとは考えていなかったようだ。
「(……?)」
しかし食堂に訪れたのは、彼が予想していた男達ではなく赤い目を持った少女だった。彼は水を飲みに来ただけかもしれないと、とりあえず様子見をすることにしたが、暗闇の中で水ではなく牛肉の切れ端を食べた彼女をしっかり確認してしまった。だが、あんなにいつも行儀が良くて聞き分けの良いあの少女がこんな行為をするとは信じられなくて、彼はその翌日も物陰に隠れて真犯人を待った。しかし結局何日物陰に隠れて真犯人を見つけようとしても、来るのは彼女だけだった。
それでも、それを彼女に直接指摘することが出来なかったのは、彼女が暗闇の中で啜り泣いていたからだと彼は言う。
「あいつァ、いつ見つかるかってびくびくしながら、泣きながら食ってんだ。言えるわけねぇだろ……」
その時の情景が目に浮かぶのか、彼は目元を歪めてそう呟いた。
そういえば彼女はよく喉が渇いているようだった。取り返しのつかない事をしてしまったあの時も、何かを我慢するように腕に付けられていた噛み痕も、もしかしたらそれのせいかもしれない。この喉の渇きは生肉を食べることに関係しているのだろうか。
「あ、あの…私、」
恐る恐るといった体で声を上げたのは、この場にいる皆がちらちらと疑問の目を向けていたリザヴェータだ。普段ならニコニコと溌剌とした印象を与える彼女だが、周りに幹部しかいない状態に緊張しているのだろう、表情がぎこちない。

「少し前に鶏が一羽いなくなる事件がありましたよね?それ、さんがやったんです」

俺たちはその言葉に動揺の余り言葉を失った。


2013/02/20


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