25:good bye my dear

 腰に鈍痛を感じて、私は目を覚ました。声は枯れ果てて擦れた音しか生み出さない。傍にあった、私のことを傷付けた温もりはいつの間にかいなくなっていた。
ぐったりと力が入らない身体を起こす。テーブルの上に置かれたミネラルウォーターを口に含んで、味わうように喉に流し込んだ。
――喉の渇きは癒えない。それどころか、心までからからに干からびてしまったようだ。
涙は出なかった。ただ、心にぽっかりと大きな穴が開いたか、はたまた壊れて何も感じなくなってしまったのか、私は特に何を思うでもなく、散らばった服を身に着けようと立ち上がった。
彼に見られてしまった腕の噛み痕も、今となってはどうでも良かった。だって、彼に私は必要ないのだから。
とろり、と溢れて脚に伝った白濁に急激に吐き気が込み上げてきて、私は咄嗟に出した手の平に胃の中身を吐き出した。
「はぁ…っはぁ…っ」
がたがたと震える身体を掻き抱きながら、私は服を着ていく。
仲直りをしただろうと思っているエースの所に戻ることは出来なかった。彼に合わせる顔がない。また、マルコの所にもいられない。もう、ここは私の帰る場所ではなくなってしまったのだ。
サッチ、も駄目。こんな状態で行ったら、絶対何があったんだと問いただしてくるから。誰にも、このことは知られたくない。
私は、部屋を抜け出した。


私は、誰にも見つからない場所を探し求めた。資料室、駄目。弾丸庫、駄目。武器庫、駄目。いったい何時間探し回っただろう。言うことを聞かない身体と渇ききった喉を持て余しながら、私は漸く誰も来そうにない物置部屋を発見した。そこに入り込んでぱたんと扉を閉める。
誰にも会いたくない。そう思って入り込んだ場所は扉を閉めてしまえば真っ暗で、私はその埃っぽい空気を吸いこみながらずるりとへたり込んでぼんやり床を見つめていた。
船の皆に心配させないように、朝ご飯だけ遅い時間に食べに行こうと決めて、私は目を閉じた。


 物置部屋で三日過ごした。目の下にはきっといつもより酷い隈が出来ているだろう。ここ数日きちんと眠れていないのだ。以前にも増してもう限界だというように血を求めてくる化け物が夜な夜な目を覚ますから。
その度に私はその本能を抑える為に自分を傷付けた。腕はもう、噛み痕でほとんど鬱血して真っ赤になっている。けれど、マルコに捨てられてしまった今、この船の皆に捨てられるわけにはいかない。夜中に生肉を食べているのが見つかってしまったら今度こそ身の置き場所が無くなってしまう。それが嫌だから、私は今まで続けてきた盗み食いを止めたのだ。
でも、それのせいで元々弱っていた思考力が更に弱くなっているようだった。ぼーっと考えることが出来ないくらいに疲れてしまった心と身体は、今にも本能に押し負けてしまいそうなのだ。
とにかく「朝食でお肉だけでも食べないと」と思って物置部屋を出る。今は何時だろうか。もう日が高い所まで昇っているからお昼に近いのかもしれない。
人の気配を探り避けながら、私は食堂へと向かった。
けれど、途中で聞こえた「いてっ」というここ最近聞いていなかった声が聞こえて、私の足は甲板へ向かう。
ハルタとイゾウだ。珍しい組み合わせに、私はどうしたの?と声をかけた。
「ああ、。馬鹿だよなァ、こいつ。カトラス手入れしてたら指切ったんだよ」
「馬鹿とはなんだよ。後ろからおどかしたのお前だろ?」
けらけら笑い続ける彼らの会話など、私の耳には入ってこなかった。視界に映る彼の指に浮かぶ赤に、全神経が集中する。太陽の元なのに、私の瞳孔は開ききっていて、私は血の芳香に誘われるがままにハルタの傍にふらふらと近づいた。?という二人の訝しむ声はとうに鼓膜に届かない。私は赤い、美味しそうな香りを放つその血に目が釘付けだった。


―――血。血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血。ずっと飲みたくて仕方が無かった、人間の赤い血。
理性は吹っ飛んでいた。今まで我慢していた分、反動は酷い。
ハルタの傷付いた指に噛みつく。何か彼らが喚きたてるのが聞こえたけれど、それはもう私にとっては何の意味もない音へと成り下がっていて、私は彼の血を啜るだけでは満足できず、その指を噛み千切ってもっと血を飲みたいという欲求に駆られた。
!?な、にやってんだ!」
「おいっ、しっかりしろ!!」
どんっと背中に衝撃を感じて、私は私の意識を取り戻した。私は彼らに突き飛ばされたのだ。舌の上に芳醇な香りと味を感じて、恐る恐る上を見上げれば、引き攣った顔をしたハルタとイゾウがいた。ハルタの指は先程よりもだらだらと血を流している。私がやったのだ。
――とうとうやってしまった。私は、家族の血を吸ってしまった。
私を見下ろしてくる二人の目が、得体の知れないものに対する恐怖で埋め尽くされているのを見て、私は悟った。
もう、この船にはいられない。
気付けば、ちらほらいた周りの男達もどうしたんだと訝しげな目を向けてくる。
――やめて、そんな目で私を見ないで。不可抗力なの、私だって好きで、好きでこんな風になったわけじゃないの。
……?」
恐々として私の名を呼んだイゾウにはっとして、私は脱兎のごとく駆け出した。後ろで私の名を叫んだ声が聞こえるけれど振り向かない。
終わった。捨てられる。見つかってしまった。ばれてしまった。知られてしまった。私が、化け物であるということが露見してしまった。あれだけ何年も我慢して隠し続けてきたのに、知られてしまった。
嫌だ、捨てないで。あんな目で私を見ないで。私だって自分の中の本性が恐ろしくて仕方がないのに。やめて、やめて、捨てないで。捨てないで。見捨てないで。大好きな皆に、嫌われたくない。
死んでしまえ!!私の中のこんな凶暴な獣など!!生きている価値など無い。あんなことをしてしまって、この船で暮らせるわけがないではないか。やだ、やだよ…。怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖いこわい。
――ピュイ!!と指笛を鳴らした。皮肉なことに、今までで一番綺麗な音だ。海面に表れた見慣れた影に、思い切り息を吸い込んで走っている勢いのまま海に飛び込む。

―――さようなら、愛しい人たちよ。
私は、捨てられる前に家族を捨ててしまったのだ。
綺麗なフォームで海に飛び込んだ為、大きな音は立たなかった。ごぽごぽと空気の泡が視界を占める。手探りでレイの身体にしがみ付いた。彼はまるで私の心が分かっているかのように、私が彼の身体に掴まったのを確認して猛スピードでモビーディック号から離れだす。
私の肺活量はもって二、三分。けれど、彼の泳ぐスピードなら簡単に追手に見つからない場所にまで潜り続けられるだろう。
海の中で、何度もレイはキュイキュイと鳴いた。その声はまるで、自分がいると励ましてくれているようで、私は目の奥が熱くなる。


 そろそろ息が苦しくなってきた。とんとんと彼の背中を優しく叩くと、彼は分かったというように頷いて海面に顔を出した。
「ゲホッ、ゴホッ」
海面に出る直前に耐えきれず海水を飲み込んでしまって、盛大に噎せる。全身海水でびちょびちょで、でもそれを気にする前に辺りを見渡す。視界にモビーディック号が入らないことによって、かなり泳いだのだということが分かった。
ほっとしたのと同時に、酷く悲しく心細くなった。自分から家族を捨てたのに、何て自分勝手な。
ハルタ、指の怪我大丈夫かな。ごめんね、我慢できなくて。ごめんなさい、怖がらせてしまって。
「キューキュー!」
「……レイ…」
嗚咽と共に涙を流していると、レイが私を気遣うように首を捻って私のことをつぶらな瞳で見上げる。
私の我儘に付き合ってくれた優しい友人に、ありがとうと感謝の意を伝えれば、彼は気にするなと言うように頭を振った。
――いつまでもこうして悲しんでいるわけにはいかない。
ここは新世界の海だ。私たちを飲み込んでしまう程大きな海王類などザラにいる。とにかくどこかの島に上陸する必要があった。
「ねえ、レイ。ここから一番近い島に向かってくれる?」
「キュイ!」
彼は頷いて、再び海面に潜り込んだ。何度も何度も息継ぎをしながら泳ぎ続ける。途中、一体の海王類が私たちを食べようと姿を現したけれど、レイが私には刺さらないように全身に鋭い針を出現させたことによって、その海王類はふいっと姿をくらました。フグのように膨らんだ彼に、これはきっと強力な毒針なのだろうなと推測する。でなければあんなに大きな海王類が逃げ出す筈がない。きっと、一番強力な毒が含まれているのは、額の一角なのだろう。

 視界に広がる深い青の海に、恐ろしさを覚える。下に行けば行くほど暗くなっていく青に、底知れぬものを感じて私はレイの身体にぎゅっとしがみ付く。ここで落とされたら、私は死んでしまう。けれど、人類にとっては喜ばしいことかもしれない。だって、私は人間を食い物にする吸血鬼なのだから。
雄大な海に畏怖の念を覚えながら、私たちは新世界の海を進んだ。


2013/02/19


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