23:壊れた歯車

 日の光を浴びてくらくらする私に気を利かせて日傘を買ってくれたエースにお礼を言いながら船への道を歩む。黒い布地のそれは私を焼き殺そうとする眩しい光を遮断してくれた。
時刻は朝10時。日の光はまだ弱いが、これからどんどん強くなるだろう。その前にさっさと船に戻ろうと、彼がくいっと私の手を引いた。
「二日酔いもう平気か?」
「うん、さっきよりは」
昨晩暴飲暴食してしまった私のことを心配そうに見下ろしてくる彼。些か気分は悪いが、彼に言った通り頭痛は今朝よりも落ち着いている。それに、彼に悩み事を少し打ち明けたことによって心も多少余裕が出来た。そう思えば、最近では一番良い状態なのではないだろうか。
――そう思っていたのだが、実際はそうではなかったようだ。
「おー、お嬢!朝帰りたぁやるなァ!!」
「しかも相手はエース隊長かよ!!」
「バッカだなァ、お前ら。おチビはまだそんな年じゃねえよ!!」
モビーディック号に到着して、さて縄梯子を上るかとしていたところに、上から降ってきた男達のからかいに、瞬間私の気分はおかしいくらい簡単に怒りの沸点に到達した。ギャハハハと彼らはいつも通りふざけているだけなのに、何故か私は無性にそれがむしゃくしゃして、横にいるエースのことも考えずに「私にだって恋人の一人や二人くらいいるってば!!」と叫んでいた。え?と隣りで驚いている彼に、話を合わせてとお願いをすれば、彼は仕方がねえなァと笑んで縄梯子を上った。
「ハァ!?お嬢に恋人ってそりゃどこのどいつだよ!?」
縄梯子を上りきったら刹那、仰天してわらわらと寄ってきた男達の顔を見て気分が良くなる。私だってもう生まれたばかりの赤ん坊なんかではない。いつまでも子ども扱いしてくる彼らに、私だってもうすぐ大人の仲間入りなんだってことを指し示したかったのだ。
「誰って、エース」
「…まァ、そういうことだ」
たぶんそういった私の心を理解してくれているだろう彼は、私が腕を組んだのにも拒否をするようなことはなく、私のお願いを聞いて話に合わせてくれた。そんな私たちを見て、周りの男達は「嘘だろ!?マジかよ!!」「お嬢に彼氏が出来た!?」などと慌てふためく。
そう、私だってそういう年なのよと彼らに言おうとしたその時、甲板に静かに私の名を呼ぶ声が聞こえて私ははっと意識がそちらに向けられた。

「マルコ、サッチ」
コツコツと二人分の足音を急に静かになった甲板に響かせながら、彼らは私の前まで来た。始終無言でいた彼らにただいまと声をかけようとした刹那、ぱしんと乾いた音が甲板に響いた。一瞬理解が出来なくて頭が真っ白になる。遅れてじんじんとやってきた頬の熱に、私はマルコに平手で叩かれたのだと気が付いた。

――マルコにぶたれた。

隣でぽかんとしているエースと同じように、私も何も考えられなかった。けれど、今までどんなに悪い事をしてきても決して私に手を上げるなんてしてこなかった彼に、頬をぶたれたことが余りにもショックで、悲しくて。何より、彼に叩かれたという事実が、頬の痛みよりも遥かに強く、鋭く私の心を抉った。私の視界はみるみるうちに歪んでぽろぽろと涙を流し始める。
「お前、俺たちに何も言わずこんな時間までどこに行ってたんだよい。それにエースと付き合ってるってどういうことだい」
涙で歪んだ視界で彼らを見上げると、漸く彼らが酷く怒っているのだと理解することができた。マルコの隣に立っているサッチは怒っているというよりは心配したという気の方が強そうだったが、マルコは大層憤慨している様子である。
約束を破って彼らに心配をかけたのは私だ。エースのことはともかく、素直にごめんなさいと謝ろうと震える口を開けたのだが、それを遮るように再び彼が私にぶつけた言葉に、口を噤んでしまった。
「あれだけ夜の町には出かけるなって言ったよなァ?どうしてお前はそんな約束も守れないんだよい!俺たちがどんな気持ちでお前の帰りを待ってたか分かるかい!?」
彼の言葉の一つ一つが私の心を抉る。私は痛いくらいに自分の拳を握りしめてその言葉に耐えた。
「お前は、俺たちの信頼を裏切ったんだよい!!」
その言葉に、しかし私の怒りはとうとう爆発してしまった。元より情緒不安定だった私にはとうてい耐えられなかったのだ。
――マルコやサッチは何も知らないくせに。私が今まで何に悩んで何に怯えて、血に飢えた化け物に取り込まれていくのを必死に抗っていたかを知りもしないくせに!!どれだけ私が喉の渇きと飢餓に耐えてきたか知らないでしょ!?それがどれだけ辛いか、身体が内側からぼろぼろになるのか知ってる!!?どうして私の言い分を一つも訊かないで私のことを悪者扱いするの!?私は…私は、マルコやサッチ、皆を傷付けたくないから自分を犠牲にして進んで離れていたのに、どうしてそんな酷い事を言うの!?!??
「わ、私がどこで何をしようが、誰と付き合おうが私の勝手でしょ!!?」
――嫌い!嫌い!嫌い!嫌い!私のことを少しも理解しようともしてくれないマルコなんて大っ嫌い!!!私が何か言うまで待っててくれたって良いのに、どうして自分の気持ちばっかり押し付けてくるの!?
怒りのあまりわなわなと震える唇でそう大きく告げると彼はカッと目を見開いた。気付いた時にはばしん!と二度目の平手打ちを受けて私は床に転がった。
、お前…俺に向かってその口の利き方はなんだよい?」
「…マルコは、何も知らないくせに……」
床に倒れたままキッと彼を睨み上げれば、彼もまた怒りのあまり全身をわなわなと震わせていた。こんな風にまで怒ったマルコを見たのは初めてだ。けれど私はそんなことを考えることも出来ずに、ふらふらと立ち上がって痛む頬を押さえながら渾身の力を振り絞って叫んだ。
「マルコなんて大っっっっ嫌い!!!!!!!!」
叫んだ瞬間だっと駆けだして私は資料室に向かった。後ろでエースとサッチが何か叫んでいるのが聞こえたけれど、私は振り向かずに無我夢中にその部屋の扉を目指して走った。ばたばたばたん!と慌ただしく資料室の扉を開けて転げるように入り込む。すぐさま鍵を閉めて彼らが更に入ってこれないようにするために重いテーブルを引きずってきて扉を内から塞いだ。
はぁ…はぁ…と自分の荒い息と鼻水をすする音だけが静寂な部屋に響く。怒りと悲しみと不安がぐちゃぐちゃに混ざって困惑していた私は、ふらふらと歩きながらソファにどかっと倒れ込んだ。どうして流しているのか分からない涙を拭うこともせず、収まることのない嗚咽を漏らし続ける。

――どうしてマルコは私のことを分かろうとしてくれないの?私はいつだってマルコとサッチのことを一番に考えて生きてきたのに、どうして私を慮ってくれないの?私は自分の中にある吸血鬼の性が恐ろしくて、それから必死になって逃げようとしているのに、マルコはそれを知りもしないのに、どうして、どうして……。

 コンコン、と優しく扉を叩く音が聞こえた。次いでかけられた「エースだ」という声に、閉じていた目をそろりと開く。彼は無理やりこの部屋の扉を開けようとはせず、私の返事を待っている。
「……何?」
泣きすぎて鼻声になってしまったまま、私は警戒して彼に問いかけた。
、なぁ…出て来てくれよ」
「やだ」
懇願するような声を出す彼に、私は拒否の念を伝える。今ここから出たら絶対マルコの所に連れて行かれるに決まっている。あんなことを言ってしまった手前、彼らの元には行きたくない。顔だって見たくない。
そう思っていることを見透かしているのか、彼は「マルコたちのとこには連れてかねェから出てこいよ。俺の部屋でゆっくり話そう?な?」と優しく語りかけてくる。私はこんな喧嘩に故意ではないが巻き込んでしまったエースに、少なからず罪悪感を覚えていたから彼の言葉に従って邪魔な机を退かして扉を少し開いて彼の顔を見た。
、とりあえずそっから出ろよ」
「………うん…」
そっと差し出された手を握って、私は彼の部屋に向かった。彼の部屋に入ってこの場にあの二人がいないことを確認すると安堵の溜息が小さくこぼれる。座れよ、と促されて彼のベッドに腰を下ろす。そして「ちょっと待ってろよ」と言って、彼はどこかに消えた。けれど数分もしないうちに部屋に戻ってきて、その手には二つのマグカップがあってココアの甘い香りが漂っている。
その一つを私に渡して、彼はもうひとつのカップに口を付けた。何を言うでもなく黙ってココアを飲み続ける彼に、私は関係のない彼を巻き込んでしまった事に対する謝罪をまだしていないことに気が付いて口を開く。
「あの…エース、巻き込んでごめん……」
彼も怒っているだろうかと思ってちらりと視線を向けると、予想に反して彼は素直になれない妹を優しく見守るような微笑でこちらを見ていた。どうして、怒っていないの?と恐る恐る訊けば、「ルフィで慣れてるんだよ、こんなことには。出来の悪い弟を持つと大変なんだ」と返される。お前も十分俺に心配かける出来の悪い妹だよ、と優しく付け加えられてしまっては、私の涙腺は今度こそ崩壊してしまって、俯いてしまった。
「なァ、お前があそこで怒った理由も何となく分かるよ」
「………う、ん」
「だけどな、マルコにあれは言うべきじゃなかったよな」
「……わか、ってる。けど……っ」
「ああ、ムカついちまったんだよな?」
「う、ん」
いつの間にか隣に座って私の頭を安心させるように撫でてくる彼。その手のひらがどこまでも慈悲深いもので、私は涙を耐えることが出来なかった。けれど、彼の言う通りだ。どんなにムカついてもマルコにあんなことを言うべきではなかった。けれど、あの瞬間は本当にそう思ったのだ。私の苦しみを知らない彼が許せなくて、憎くて。でも当たり前ではないか。私が必死になって隠してきたのだから、彼が私の苦悩を知る訳が無いのだ。あの言葉を言ってしまった一秒後には既に後悔の念にかられていて、そんな風に思うんだったら言わなければ良かったのに。
「あんまり遅くならないうちに謝っておけよ?」
「…うん」
ぽんぽんと背中を叩いた彼に、素直にそう頷いた。けれど、私はまだ謝れるような心境ではないし、喧嘩をしてしまった彼らと一緒に寝られない。
「暫くエースの部屋に泊まっちゃ駄目?」
「え?」
頼りになる彼にそう訊けば、彼は「あー」だとか「うー」だとか渋るような声を出す。まあ確かに彼の部屋にはベッドは当たり前だけど一つしかないし、優しい彼のことだから俺がソファで寝るだとか言い出すのだろうなと申し訳なく感じてしまえば、「大部屋で寝るから良いよ」と言うしかなかった。
「は!?大部屋なんてもっと駄目に決まってんだろ?!」
「でも、エースの部屋だって駄目なんでしょ?」
目を見開いて大きな声を出す彼に、少し拗ねたように返せば「分かったから大部屋だけはなし!!」と私が暫く彼の部屋でお世話になることを許してくれた。


2013/02/18


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